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その手が掴むもの

36 etude」 13:「躊躇」


 怖い。恐ろしい。今すぐここから逃げ出したい。
 今まで何人もの命を奪ってきた。初めて人を殺めた時でさえ、何の感慨も覚えなかった。
 それなのに今、目の前で起こっている出来事に、まるで子供のようにうろたえている自分がいる。
 何も出来ない自分が恨めしかった。どんな仕事も完璧にこなす、それが誇りだった彼にとって、この無力さは屈辱とも言えた。
 恐怖と悔しさと、そして怯え。ともすると逃げ出しそうになる体を繋ぎとめるように、ほっそりとした白い手が彼の腕を掴む。まるでそれが命綱であるように、指先が白くなるほど力を込めて。
 苦しげな息。漏れる悲鳴。
 伝わってくる痛みに、何度も挫けそうになる。
 もういい、もういいよと、訳も分からず言いかけて――


 響き渡る、泣き声
 朝日が連れてきた、新たな生命


「おめでとう、男の子だよ」
 しっかりおしよ、と背中を叩かれて、ようやく我に返る。
 産湯を使い、真新しい産着を着せられた赤子。
 抱いておやり、と促されて、伸ばしかけた手が空を掴む。
 この無垢な魂に触れる資格はあるのか。
 血に塗れた手で子供を抱くことなど、果たして許されるのか、と――

 躊躇いを溶かす、柔らかな感触。
 不意に指を掴まれて、喉元まで出かかった悲鳴をぐっと飲み込む。
 ぎゅうっと握りしめてくる、小さな手。
 
 その力強さ、そして温かさに
 少しだけ、許された気がした

「名前は決まってるのかい?」
 産婆の問いかけに、はにかみながら頷く。
 名付け親になりたがる者は大勢いたが、こればかりは誰にも譲れないと、夫婦で話し合って決めた名前。女の子ならマリア、男の子なら――
「マリオ。お前は、マリオだよ」
 分かった、とでも言うように、赤子は再び父親の手を握りしめた。


 

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