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我 が 善 き 片 羽

伝説の卵神官シリーズ「未来の卵☆☆☆
36 etude」 26:「片羽」


 それは、空を翔ける者達が交わす古の言葉
 最上級の敬意と、愛情と、そしてありったけの想いを込めて
 彼らは互いをそう呼び習わす

 <我が善き片羽>と――


 陽炎立つ道を、彼はゆっくりと歩いてきた。
 手には鮮やかな夏の花。農作業の合間を縫って摘んできた素朴な花束は、明るすぎる夏の日差しの中で鮮烈な色彩を放っている。
 昼下がり、人々が束の間の休息を取っているこの時間、表を歩いているのは彼一人。
 そんな彼がやってきたのは、西の外れに位置する重厚な建物だった。
 春の突風で半壊したユーク分神殿。闇と死を司る神を祭るこの神殿は、あれから数ヶ月経った今も復旧の目処が立たないまま、ひっそりと静まり返っている。
「お邪魔しますよ、と」
 律儀に一言断りを入れ、敷地内に足を踏み入れる。
 運び出された瓦礫が積まれた前庭を抜け、ひびの入った石壁を横目に小道を進むと、開けた場所に出た。
 質素な木の柵に囲まれた静寂の空間。
 そこは、かつてこの村で暮らした人々が眠る墓地だった。

 柳の木陰に据えられた、白茶けた墓標。
 うっすらと積もった土埃を無骨な手で払いのけると、懐かしい名前が現れる。
「ジンジャー」
 そっと唇を動かしながら、彼はくすりと思い出し笑いを浮かべた。そんな愛称で呼ぶと、彼女はいつも決まって腰に手を当て、頬を膨らませて怒ってみせたものだ。
『トニー。何度言えば分かるの、私の名前はヴァージニアよ。そんな薬味みたいな名前で呼ばないでちょうだい!』
 そう言ってふんっ、とそっぽを向く彼女の怒った顔が魅力的なものだから、いつもそうやって彼女をからかっては仲間に諌められていた。顔を合わせれば口喧嘩ばかりの二人だったが、それでもいざ戦いの時になれば、彼女ほど安心して背中を預けられる者はいなかった。
「ジンジャー。お前が旅立って、もう十年も経つんだな」
 あれはこんな夏の盛りだった。生まれてこのかた病気らしい病気などしたことなどないといつも自慢していた彼女が急な病に倒れ、あっという間にその生涯を終えたのは。
 この辺境には医者などおらず、そして一番近くの町へ医者を呼ぶ時間すらなく、彼女はこの世を去った。
 ふと思い出して、彼は手にしたままの花束をそっと手向けた。彼女が好きだった名前も知らぬ花は、西の荒地から吹き抜ける風を受けて気持ちよさそうに花びらを揺らす。そんな様子に目を細めていると、不意に背後から足音が忍び寄ってきた。
 一瞬目を見張ったものの、あえて気づかないふりをして相手の出方を待つ。すると、すぐに控えめな声が飛んできた。
「お墓参りですか」
 ゆっくりと振り返ると、そこには手に箒を持った神官が佇んでいた。
 真夏だというのにもかかわらず、細身の体を一部の隙もなく黒い神官衣で覆った青年。背中にくくり付けられているのは、彼が保護している竜の卵だ。
 つい数ヶ月前にこの辺境の村へ赴任してきた彼は、若いながらも有能な神官であり、そして医術の心得がある極めて貴重な人材だった。その事を知って、人々がどれだけ安堵の息を漏らしたことか。
「暑いのに精が出るなぁ、神官さん」
 麦藁帽子をひょい、と持ち上げて笑顔を向けると、彼もまた柔和な笑みで会釈を返す。
 ラウル=エバスト。今年二十六になったばかりという黒髪の若きユーク神官は、その人当たりのよさと礼儀正しさから、あっという間に人々に親しまれ、「神官さん」と気さくに呼ばれるまでになっていた。
「いえ、皆さんに比べれば、私など……」
 そう答えながら、ラウルはふと墓標に目を向ける。
「こちらは、トニーさんに縁のある方でしたか」
 墓標は、そこらにあった石に名前を刻んだだけの質素なものだった。都会ならともかく、こんな辺境では墓標があるだけましというものだ。そうしてこの小さな村に住まう人々には姓などなく、刻まれているのは『ヴァージニア』という名前と生没年、そして異国の言葉で綴られた短い墓銘のみ。
「ああ。妻なんだ。十年前に先立たれた」
「そうでしたか……」
 生没年を目で追って、そっと目を伏せるラウル。彼女はたった三十余歳でこの世を去った。当時、余りにも早すぎる妻の死に、彼の憔悴振りたるや、それはもう見ている方が辛くなるほどだった。しかし、それも十年前の話だ。
「随分きれいにしてもらって、ありがとなあ」
「いえ、これも務めですから」
 去年までは雑草が生い茂り、墓参をする前にまずそれらを取り除くことから始めなければならなかった。それはこの墓だけではない。墓地全体が荒れ果てていたのだ。
 無理もない。ラウルがやってくるまでは、御年八十を超える老人が一人で墓を守っていた。高齢の彼には墓の手入れもままならず、墓地は荒れる一方だった。
 それが今は、雑草はきれいに取り除かれ、敷地内はいつも掃き清められている。墓参する者もさしていないというのに、彼は決して手を抜くことなく墓地を守り、そして半壊した神殿を建て直すために日々働いていた。そんな勤勉さがまた評判を呼んで、最近ではこの辺りで彼の名を知らぬものはいないとまで言われているほどだ。
「どうぞごゆっくり」
 そう言って小さく頭を下げると、ラウルは箒を動かし始めた。村の西に位置するこの墓地は、荒野から吹き付ける風によってあっという間に落ち葉や塵芥が吹き溜まる。それらを掃き集め、墓標や置石の隙間から覗く雑草を抜き、墓石の汚れを拭う。たかが墓地の手入れと言えど、これだけの敷地を整えるには時間と根気のいる仕事だ。
 そんなラウルの働きぶりをしばし眺めていたトニーだったが、再び墓標に目をやった。
 ざぁ、と柳の梢が風に揺れ、墓標に青い影を落とす。爽やかな葉擦れの音はまるで、彼女の笑い声のように聞こえた。

 馬鹿な人ね
 まだ悲しみを引きずっているの?

 ざわめきの中にそんな囁きを聞き取って、トニーは頭を振る。
「そういうわけじゃないさ」
 ヴァージニアがこの世を去って十年。さすがに涙も枯れ果てた。日々の作業に追われ、今では思い出す時間の方が少なくなってきている。
「でもな。忘れられるもんでもない」
 ルーン遺跡探索のためこの村にやってきた若き日のトニー。仲間は三人いて、そのうちの一人が彼女だった。
 そんな彼が怪我を機に剣を捨て、このエストで農夫として暮らす道を選んだ時、真っ先に賛同を示してくれた彼女。まもなく結婚し、子供にも恵まれた。
 それまで過ごした血沸き肉踊る冒険の日々とは正反対の、のどかで、平凡で、そしてとてつもなく幸福な時間。そんな穏やかな日々がこのまま永遠に続くと信じて疑わなかった。
 あの夏、彼女が天に召されるまでは。
「……なあ、神官さん」
 呟くようなトニーの言葉に、少し離れたところで雑草を引き抜いていたラウルは、驚いた顔をして立ち上がる。
「なんでしょう?」
 そんなラウルに、トニーは彼方を見つめながら問いかけた。
「死んだら、その魂は天上へと導かれる。そして、輪廻の輪に加わって、再び生まれ落ちるまでをそこで過ごす……そうだよな」
「ええ。ユーク神殿ではそう教えています」
 少し意外な答えに目を瞬かせるトニー。ラウルは肩をすくめて、言葉を続けた。
「実際のところ、誰もそれが真実であるかは分からないのですよ。何せ、死んでみなければ分からないのですから」
 それは死を司る神ユークを信仰する者の台詞とは思えなかったが、トニーは苦笑を浮かべてみせた。
「そりゃそうだよなあ」
「ただ、魂は肉体より離れ、いずこかへと旅立つ。それは紛れもない事実でしょう」
 そうして死した魂が迷わず天上へと昇れるように、ユーク神官は祈りを捧げるのだ。
 そんなラウルの答えに、トニーは足元の墓標を見下ろして続ける。
「それなら、ここにはもう、彼女はいないんだよな」
 墓標の下に眠るのは、魂の抜け殻でしかない。そうと分かっていながら、なぜ人は墓を訪れるのだろう。
「いいえ」
 穏やかな、しかし力強い声がトニーの胸を打つ。
 はっと顔を上げると、そこには黒く輝く瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。太陽の下にあって、それはまるで夜を凝縮したかのように深く、安らぎに満ちている。
「ユークはこう教えます。『全ては空と大地へ還り、そして再び生まれ出ずる』……。魂は、死して天に昇る。そうして役目を終えた肉体は大地へと還り、次の命を育む源となる。ならば今、天と地の双方に彼女は存在するのでしょう」
「神官さん……」
 朗々と言葉を紡ぐラウルの顔を食い入るように見つめるトニー。そんな彼の視線を静かに受け止めて、ラウルは再び口を開く。
「それでも、ここに眠るのは魂を解き放った器でしかない。墓は、その器が埋葬された目印でしかない。そう説く人もいます。でも、私は違うと思うのですよ」
「違う?」
 ええ、と頷いて、ラウルはそっと彼方を見つめる。
「葬儀とは死した者のためだけではなく、残された者のために行うもの。死者を送り、そして生者には別れを促す。二度と交わらぬ人生。そこからまた歩き出すための、決別の儀式。それが葬儀です。ならば墓もまた、死者のためだけではなく、残された者のためにある。そう考えられませんか」
 普段の彼とはまた違った、厳かな語り口調。それこそが彼の、ユーク神官としての本当の顔なのだと、初めて気づく。
「忘れないために、墓はあるのではないでしょうか。人生は儚いもの。どんな時を生きようと、それは死せば泡沫の如く消え失せてしまう。やがて人々の記憶からも失われ、歴史に埋もれていく。それでも、それは一つの魂が紡いだ、ただ一つの物語。そんなかけがえのない物語を忘れないために、大地へと刻みつける……」
 そう言って、ラウルは墓標に視線を落とした。焼け付くような真昼の日差し。トニーが手向けた花を、そよ風がそっと撫でていく。そんな様子を静かに見つめながら、ラウルは続ける。
「ここに眠るのは、一つの人生。それが『彼女』でないと、どうして言えましょう?『彼女』は確かに今、ここに眠っている。そしてそれは、思い出を蘇らせる一つの鍵となる。だからこそ、あなたはここを訪れたのではありませんか。心の奥に眠る『彼女』を、もう一度呼び覚ますために」
「そう、か」
 改めて墓標の前に膝をつく。小さな白い墓標。彼女の名、生きた時間、そして短い言葉が刻まれただけの、何の変哲もないただの石。
 それでも、それを見る度に蘇る記憶がある。脳裏に響く言葉がある。
 初めて出会った日。仲間と共に酒を酌み交わした夜。幾多の戦いを潜り抜け、がむしゃらに突き進んだ日々。
 そして、旅の果てに辿り着いたこの村。そこで一介の農夫として生きる決意を口にした彼の目の前で、何も言わずに愛用の弓を折った、彼女の顔。

 ――あんたは、私の片羽だから――

 翼は、二つあってはじめて大空を自由に飛べるのだと。
 片方だけでは、飛び立てないのだと。
 そう言って彼女は、彼の手を取った。

「実はな、再婚の話が来とるんだ」
 誰にともなく言うトニーに、傍らのラウルはただ黙って彼を見つめる。
「お前がいなくなってもう十年。娘も無事嫁に行ったことだし、これから先一人寂しく過ごすのはつらいだろうと言われたんだ」
 紹介されたのは隣村の寡婦。こちらも旦那を早くに亡くしており、子供はいないという。とびきりの美人というわけではなかったが、笑顔の素敵な女性だった。
 でも。
「断るよ。俺の相棒は、やっぱりお前だから」
 彼女にとっての片羽が、彼だったように。
 彼にとっての片羽は、彼女だったのだ。
「誰がなんと言おうと。そう、例えお前が文句を言ったとしても、な」
 そうして、晴れ晴れとした表情でトニーはラウルを見上げた。そこには先ほどまでの寂しさはなく、どこか照れたような笑みが浮かんでいる。
「ありがとう、神官さん。正直言って、少し迷ってたんだ」
「いえ、礼を言われるようなことは何も……」
 謙虚に答える目の前の青年は、トニーがかつて冒険者だった事も、そして旅の果てにこの地へ流れ着き、ここに骨を埋める決意をした事も、何も知らない。
 いや、それはお互い様だ。トニーとて、辺境の地に突如派遣されてきたこの若きユーク神官の事など、何一つ知らない。
 しかし。過去を知ったところで、現在が変わるわけではない。だから、トニーは何も語らず、そして何も聞かなかった。
 日に焼けた、純朴な農夫の顔で、トニーはにこりと笑う。それを見て、ラウルもまた柔和な笑みで答える。
 そして、彼はふと思い出したように尋ねてきた。
「トニーさん。もしよろしければ、この言葉の意味を教えてくださいませんか」
 そう言ってラウルが示したのは、異国の文字で小さく記された文章。わざわざ空人の文字を使ったのは、どこか気恥ずかしかったからだ。
 しかし今、トニーは嬉しそうにその言葉を口にする。
「<我が善き片羽>――。これはね、空人が使う言い回しなんだそうだ。意味は……"相棒"とか"伴侶"ってことらしい」
 最愛の人に贈る言葉として、知り合いの空人から教わったのだと彼女は言っていた。いつか、そんな素敵な人と巡り合ってみせると力説していた彼女を、やれ少女趣味だの夢見る乙女だのとからかった覚えがある。
 だからこそ、その言葉を贈られた時は嬉しかった。それはもう、嬉しかったのだ。
 そこまで思い出して、ふとトニーは黒髪の青年に尋ねる。
「ラウルさんは、結婚する気はないのかい? 二十六って言ったら、そろそろ身を固めてもいい年と思うがね」
 途端に目を丸くしたラウルは、すぐに苦笑を浮かべて言ってくる。
「私は、神にこの身を捧げておりますので」
 つまりは結婚の意志はないのだと暗に告げられて、トニーはそうかい、と頭を掻いた。
「結婚して子供を持つってのも、結構いいもんなんだがなあ」
「はぁ……。しかし、一度立てた誓いを破るわけにはいきませんから」
 そう答えつつ、ふと背中の卵に一瞬目をやって、ラウルは声を潜める。
「それに、子育てなら経験中ですしね」
「はは、そうだなあ」
 思わず噴き出すトニー。そして、ラウルの背中に収まっている卵をそっと見つめる。
 竜の卵だというそれは、夏の日差しを照り返して眩いほどに白く輝いていた。時折光ったり動いたりするこの不思議な卵は、聞けばラウルにだけ聞こえる声で鳴くのだという。
 トニーの視線に気づいたのか、卵はてかてかと明滅して答えてみせた。最初にこれを見せられた時はたまげたものだが、慣れれば可愛く映るから不思議だ。
「早く孵るといいなあ」
「はい」
 しみじみと頷くラウルを、遠くから呼ぶ声があった。
 振り返ると、墓地の入り口からこちらに向かって手を振る者がいる。
「神官さーん! タマラばあちゃんが具合悪いんだと。急いで来てくれないかねー?」
「は、はい!今行きます。……それでは、私はこれで」
 箒を手に駆け出していくラウルを笑顔で見送って、トニーはやれやれ、と立ち上がる。
「ご苦労なこったなあ」
 ラウルの顔見たさに村の年寄りが仮病を使っている事実に、彼は気づいているのだろうか。特に婆さん連中と来たら、年甲斐もなく頬など染めて診察を受ける始末だ。しかし、彼はそんな年寄り達に嫌な顔一つせず付き合い、時には一刻以上愚痴を聞いてやっている事もある。
「いい人だなぁ。来てくれて、本当に良かった」
 そう呟いたトニーの麦藁帽子を、西風がひょい、と持ち上げる。慌ててそれをつかんだトニーは、そのまま頭上に広がる空を仰いだ。
 どこまでも青く、高い真夏の青空。
 そこに彼女の面影を見た気がして、トニーは小さく頷いてみせる。
「大丈夫。俺は今、幸せだ」
 トニーの呟きは風に乗り、そうして夏の空に吸い込まれていった。

 片羽をもがれた痛みは年月の彼方に消え去り、今はただ、それを懐かしむのみ。
 そして、地上を生きる彼には、代用の羽など必要ない。
 二本の足で大地を踏みしめ、そうして生きていこう。やがて魂が世界へと還るその日まで。

 <我が善き片羽>
 それは、空を翔ける者達が交わす古の言葉
 彼女が教えてくれた、愛の言葉――


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