2.律動する大地
「土鬼の襲撃、謎の祭壇に黒い炎の首飾り、ですか……」
 深く息を吐き、村長は机の上で手を組んだ。拳に額をぶつけるように俯いて、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「『黒き炎』――一体、大地溝で何を企んでいたのか……」
 沈黙が部屋を支配する。それを打ち破ったのは、静かなリファの一言だった。
「彼らの狙いは分かりませんが、一つだけ言えることがあります。大地溝に竜の気配はしませんでした」
 はっと顔を上げる村長に、リファは懐から小石を取り出して机の上に置いた。その手を離さぬまま、何か不思議な呪文を紡ぎ上げると、手の中で燐光が弾ける。
「これは先ほど、大地溝から拾ってきた石です。――さあ、大地の乙女。話してくれますか」
 白い手をそっとどけると、そこには半透明の小さな少女がちょこんと座っていた。大地の女神ルースを模した姿で、精霊は優雅に立ち上がってお辞儀をすると、小鳥の囀りのようなかわいらしい声で語り出す。
『ぬしさま、ねむってた。くろいにんげん、たくさんきた。くろいひ、たくさんもえた。ぬしさま、きけん、きづいた』
 悲しそうな表情で、精霊はぎゅっと両手を握りしめた。
『ぬしさま、きめた。みんなのため、にげる、きめた。ぬしさま、いなくなった。くろいにんげん、いなくなった』
「逃げるって、どういうことだ?」
 首を傾げるラーンに静かにするよう手振りで伝えて、リファは精霊に続きを促す。
『ぬしさま、いなくなって、こわいの、いっぱい、あつまってきた。ぬしさま、いたから、こわいの、こなかったのに、いっぱい、いっぱい、あつまってくる』
 涙ぐんで訴える精霊に、リファはありがとう、と手を伸ばす。
「大地溝に集まってきた怪物達は、私達が必ず退治します。ですからあなたはこれまで通り、大地溝を守っていてください」
 優しく頭を撫でられて、精霊は涙を拭いながら嬉しそうに微笑み、そして机にかじりつくようにしてこちらを見つめているエルクにちょこんと一礼すると、小石の中へと吸い込まれるように消えていった。
「伝承は正しかったようですね。彼女の言う『ぬしさま』とは上位精霊である竜、しかも大地の精霊である彼女が主と呼ぶからには大地の竜であると推測されます。大地溝には竜が眠っていて、それを恐れた怪物達は今まで大地溝には近寄らなかった。ところが『黒き炎』がやってきて竜に何らかの危害を加えようとした――」
「それを察知した竜はいずこかへと去り、脅威がなくなった大地溝に土鬼達が再び姿を現すようになった……そういうことですか」
 苦虫をかみつぶしたような表情で呟いて、はたと傍らに座る養い子の不安げな様子に気づいた村長は、表情を和らげてエルクの手に触れた。
「この方達の言葉を疑っているのではないよ。ただの伝承だと思っていた竜が本当に、あの大地溝に眠っていたのかと思うと――それに気づかず暮らしていたのかと思うと、実に申し訳ないというか、もったいない気持ちになったものでね」
 苦笑交じりに語る村長に、安堵と同意の頷きを返す。エルクの愛読書はすべて村長が集めたものだ。彼もまた、かつてはエルクと同じように冒険に憧れる子供だったのだろう。冒険譚には付き物の竜がすぐそばで眠っていたなどと聞かされて、黙っていられるわけもない。
「竜に危害を加えようとしたのは『黒き炎』で間違いない。大地の竜を引きずり出して、邪竜復活の贄にでもしようとしたのか……! 許せねえな!」
 拳を固めて吠えるラーンに、リファは小石を懐に戻しながら、そうですねと頷いてみせた。
「目的ははっきりしませんが、『黒き炎』が近くまで来ていたことは間違いありません。ただ、先ほどの精霊の言葉にもある通り、奴らの目的は大地の竜であって――エルクを狙って、という様子ではありませんでした」
 その言葉に、ぴくりと肩を震わせるエルク。一瞬驚きの表情を浮かべた村長は、沈痛な面持ちでエルクの手を握りしめる。
「……何か、言われたのだね」
 静かな問いかけに、エルクはこくんと頷くと、谷での出来事を手短に語った。とはいえ、詳しい話はすでにリファの口から報告済みだから、エルクが付け足せるのは、あえてリファが報告しなかった土鬼撃退後の話だけだ。
「土鬼退治が終わって、リファさんが結界を解いたんだけど、ザドリが何か騒いでいる声がして……ううん、それはいいんだ。そのあと村のみんながお二人に、助けていただいたお礼に宴をしようって言い出したら、その……」
 当の二人を目の前にしては言いにくい台詞だが、二人は促すように小さく頷いてくれた。
「その……お二人が土鬼を連れてきて、僕達を騙そうとしてるんじゃないかって……」
「馬鹿なことを……」
 額に手をやる村長に安堵して、続く台詞にも勢いがつく。
「僕、かっとなって、ザドリを叩いちゃったんだ。それで、二人に謝りなさいって言ったんだ。そうしたらザドリが  僕のせいだって……! 僕のせいで怪物が来たんだって……!!」
 感情のままに叩きつけられた言葉が、再び脳裏に響き渡る。思い出すだけで胸が苦しくなって、喉の奥から熱い何かが込み上げてくる。
「僕、何もっ……何も知らなくて……! ただ、行き倒れの男から赤ん坊を託されたとしか、聞いてないっ……!!」
 溢れ出てきたのは涙と嗚咽。その全てを懐に抱きとめて、村長はよしよしと、赤ん坊をあやすように小さな背中を撫でる。
「すまなかった。いつか話そうと思っていたんだが……。話してしまったら、お前は村を出ていってしまうのではないかと……それが恐ろしくて、ついつい先延ばしにしてしまった」
 理解できる歳になったら、成人したら、などと言い訳に過ぎない。思いがけず授かった愛し子を手放したくなかった。それだけなのだ。
「すまない……お前を守るつもりで、結局のところお前を傷つけてしまった。お前の両親を殺した連中が連れ去りに来たら、お前に縁のある者が連れ戻しに来たらと思うと、村から出すことも出来ず……辛い思いをさせてしまった」
 華奢な体を抱きしめ、懺悔の言葉を絞り出す村長に、エルクは幼子のようにしゃくりあげながら、頭を擦りつけるようにぶんぶんと首を振る。
「そんなことない。僕はずっと幸せだったよ。でも――だからこそ、ちゃんと知りたいんだ。僕のこと。僕の両親のこと」
 真実の断片を垣間見てしまった以上、もう目を背けることはできない。
「ラーンさんやリファさんみたいに、怪物に立ち向かうことはできないけれど、これは僕が立ち向かうことなんだ。だから、僕は逃げない。逃げたくないんだ。だからお願い――お父さん」
 ぐいと涙を拳で拭い、まっすぐに見つめてくる愛し子に、村長は目を細め、深く頷いた。
「今こそ話そう。お前がこの村に来た日のことを――」