4.空に潜る
 雑木林を切り裂くように流れる川は穏やかで、青空を映し出した川面はゆったりと、雲と一緒に流れていく。
「よっしゃ、泳ぐぞー!!」
 河原に辿り着くやいなや、荷物から鎧から何もかも放り出し、しまいには下履き一枚になって川に飛び込んでいくラーンに、ようやっと追いついたリファは呆れ顔で声を張り上げた。
「ラーン! はしゃぐのも結構ですが、気をつけてくださいよ? 川で滑ってこけたなんて洒落になりませんからね」
「大丈夫だって! お前らも来いよ!」
 川の真ん中までざぶざぶと分け入り、子供のようにはしゃいで手を振るラーンの姿に、リファもそれ以上小言を並べる気をなくしたようだ。脱ぎ散らかされたラーンの衣類と荷物を日陰にまとめてやって、それからいそいそと長衣を端折って靴を脱ぎ、清らかな流れへと足を浸す。
「おや、意外に冷たいですね」
 ひんやりとした感覚に顔を綻ばせつつ、ふと静かになった背後を振り返れば、水面に映り込んだ太陽を突き破るようにして、赤い頭が飛び出てきた。驚く暇もなくまた潜ってしまい、姿が見えなくなる。川幅も水深もそれなりにあるこの川は、彼にとっては格好の遊び場のようだ。
「まったく……」
 すっかり水遊びに夢中な相棒に肩を竦め、ふと振り返れば、やっと川岸へ辿り着いたエルクが荷物を降ろしているところだった。
「エルク、どうしました?」
 リファに倣って日陰に荷物などをまとめ、水際までやってきたまではいいものの、そこから先を躊躇っている様子のエルクに、ちょうど水面から顔を出したラーンが手招きをする。
「早く来いよ! お前も汗掻いたろ?」
 その言葉に、エルクは弾かれたように顔を上げたかと思うと、わたわたと手を振った。
「いやっ、その、僕はいいですっ」
「なに遠慮してんだよ、ほら!」
 ざかざかと近寄ってきたかと思えば、不意打ちで水をかけられて、頭の天辺からびしょ濡れになる。
「…………」
ぽたぽたと垂れる滴が鬱陶しくて頭布をかなぐり捨てたエルクは、何かを吹っ切ったように川へ足を踏み入れると、その勢いのままに水面に両腕を突っ込んだ。
「何するんですかもうっ! ええいっ!」
「うわっ、やったなお前! このっ!」
 むきになって水をかけあう二人に、とばっちりを食らっては大変と、そそくさと川から上がるリファ。案の定、あっという間に濡れ鼠となったエルクは、はたと我に返って恨めしそうにラーンを睨む。
「ひどいじゃないですかラーンさん!」
「お前だってやり返してきたじゃねえか! でもほら、元気になったろ?」
 確かに、さっきまで声も出せないくらいにへばっていたのが嘘のようだ。ぐっと黙るエルクに、リファが笑いかける。
「元気が出たところで、ついでに洗濯もしてしまいましょうか。大丈夫、この陽気ならすぐ乾きますよ」
「はい。あ、しまった!」
 慌てて辺りを見回せば、頭布は少し離れたところの岩に引っ掛かっていた。
「ああ、ちょっと待ってろ」
 エルクが動くよりも早く、ラーンが足の長さを生かしてさっさと回収に向かう。今にも流されそうだった色鮮やかな布をひょいと引き揚げ、ついでにぎゅうぎゅう絞ってやりながら、ラーンは不思議そうに首を傾げた。
「なあ、これって巻いてて暑くないのか?」
「暑いですけど、でも……」
 口籠ったところに固く絞った布を放られて、よろけながらどうにか受け止める。
「耳を隠すために巻いてるなら、もう取っちまえよ。そんなことでゴチャゴチャ言うような奴は、俺がぶちのめしてやるから」
 滅茶苦茶なラーンの言葉に思わず吹き出してしまって、エルクは改めて手にした布をじっと見つめた。
 それは、自身を守るための鎧だった。そうやって耳を隠したところで現実が変わる訳でないけれど、負い目を剥き出しにして暮らしていけるほど強くなかった。
「……そうですね。これからどんどん暑くなるし、もうやめようかな」
 吹き抜ける風に薄茶色の髪を掻き上げれば、合間から覗く尖った耳。これが森人と人間との混血児である証だと――何ら恥ずべきものではないと教えてくれた二人がいてくれるなら、いつかこの耳を愛しいと思える日も来るのかもしれない。
「その服の上から重ねてる布も減らした方がいいぞ。熱がこもって余計暑いだろ」
「はい。そうします」
 色鮮やかな肩布は今や、水に濡れて体にべったりと貼りついている。しかも水を含んで非常に重い。
「うわあ、中までびしょびしょだ……」
 悪戦苦闘しながら腰帯を外し、肩布を一枚ずつ剥がして絞っていると、突如としてラーンが血相を変えて近づいてきた。
「お前、その包帯、どうしたんだ? 怪我してるのか?」
 えっ、と自分の体を見下ろして、しまったと息を呑む。水で濡れた服が透けて、肌着の下に巻いていた晒布が浮かび上がっていた。それが包帯のように見えたのだろう。慌てて襟元を掻き合わせ、あたふたと弁明する。
「怪我じゃないです! あのっ、えっと、痣が!」
「あざ?」
「そ、そうなんです。大きな痣があって! 恥ずかしいので、いつも布を巻いてるんですっ」
 言いながら、じりじりと後ずさる。しかしラーンはかえって気になったようで、折角取った距離を一歩で詰められた。
「へえ、どんなのだ?」
 ちょっと見せてみろよ、と何の気なしに言われて、動揺のあまり素っ転びそうになり、慌てたラーンに手を引っ張られてどうにか事なきを得る。
「大丈夫か? そこまで驚かなくてもいいだろ」
「いやっ、あのっ、傷跡みたいに見えるんで、見ても面白くないというかっ」
「そんなこと言ったら俺なんて傷だらけだぜ? 別にいいじゃねえか、男同士で恥ずかしいもないだろうに」
 ほれほれ、と掴まれた手を引き寄せられて、思わず悲鳴が零れそうになったその瞬間――。
「警備隊さーん。いたいけな子供を手籠めにしようとする悪い大人がここにいますよー」
 棒読みな台詞にぎょっとして手を放したラーンは、あっと叫ぶ間もなく盛大な水音を立てて川面に沈んだエルクを大慌てで引き上げ、げほげほ咳き込む背中を擦りながら、意地の悪い相方をぎろりと睨みつけた。
「リファ! お前っ、なんてこと言うんだ!」
「おや、私は見たままを率直に述べたまでですが?」
 しれっと返してから、こほんと咳払いをして真面目な顔を取り繕うリファ。
「それは冗談としても、本人が嫌だと言っているのに無理強いするものではありませんよ」
 珍しく真っ当に窘められて、ばつが悪そうに頭を掻くラーン。
「悪かった。ちょっとふざけ過ぎた」
「いえっ、こちらこそ……」
 そう答えたものの、どうにも気まずくて視線を逸らす。
 ――と、逸らした視線の先で何かが光ったような気がして、あれ? と呟くエルクに、リファが小鳥のように小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「あそこ、何か光ってませんか?」
 川の上流、中州の辺りを指差せば、ラーンが目を細めてホントだと頷く。南大陸出身の彼は恐ろしいくらいに目が利くが、そんなラーンでも光の正体は掴めなかったようだ。
「なんだ、あれ。また鏡の破片でも落ちてるのか?」
「そんな光り方じゃありませんよ。あれはもっと――」
「ちょっと行ってきます!」
 何か胸騒ぎがする。そう思った次の瞬間には、もう駆け出していた。
「お、おいエルク!?」
「気をつけて! 深くなっていますよ!」
 心配そうな二人の声を背中に聞きながら、盛大な水飛沫を上げて川を遡っていく。リファの指摘通り、すぐに深くなって足を取られるようになったから、思い切って青空を映す水面へと飛び込んだ。
(うわあ……きれい……!)
 驚くほどに澄み切った水の中、水面を照らす光がゆらゆらと揺れて、その光と戯れるように泳ぎ回る小魚や優雅に揺れる水草など、何もかもが美しい。
 この辺りは流れが早いのか、少し水を掻いただけでぐんぐんと景色が流れていく。目まぐるしく変わる風景は、まるで鳥になって空を飛んでいるような、そんな不思議な感じだった。
 空を泳ぐ魚のように。水中を飛ぶ鳥の如く。そんな不思議な感覚が面白くてつい夢中になっていたら、あっという間に息が続かなくなって、慌てて水面に顔を出す。
「いけない、通り過ぎちゃった」
 気づけば目的の中州を通り越してしまっていたが、後は歩いて行けそうだ。水に濡れて重くなった体を何とか動かして、やっと中州に辿り着く。
「どの辺りだったかな……?」
 上着の裾を絞りながら辺りを見回すと、少し離れた草陰に何か光るものが見えた。
葦の生い茂る中州は思いのほか見通しが悪い。草を掻き分けてどうにか進んでいくと、そこには思いがけないものが待ち構えていた。
「――トカゲ?」
 陽光を反射してきらきらと輝く緑色の体。思わずトカゲと言ってしまったが、トカゲにしてはずんぐりむっくりしているし、額に角のようなものが生えている辺りはどう考えてもトカゲではない。
 そんな奇妙な生き物は、ぶるぶると震えながらエルクを見上げていた。その大きな瞳が何かに似ているような気がしたが、どうにも思い出せない。
 およそ見たこともない生き物だったが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ愛しささえ覚えて、驚かさないようにそっと手を差し伸べる。
「おいで。怖くないから」
 まるでエルクの言葉を理解しているかのように、その生き物は大人しく手に乗ってきた。ひんやりとした感触はやはりトカゲのようだったが、そっと抱き上げると甘えるようにエルクの胸元にぴとっと寄り添って、顔を擦りつけてくる仕草が何とも可愛らしい。思わず笑みをこぼせば、その息にくすぐったそうに首をすくめ、大きな瞳をキラキラさせて見上げてくる。
「かわいいね、君」
 その小さな緑色の頭を指の腹でそっと撫でると、気持ちよさそうに目を閉じる。鮮やかな緑色の鱗は滑らかで、磨かれた小石を触っているような感触が、何か妙に懐かしい。
「なんだろう、何か引っ掛かるんだけど……」
 喉元まで出てきているのにどうしても思い出せない、そんなもどかしさに眉を顰めていると、それまですっかりくつろいだ様子を見せていたトカゲもどきが突然びくりと体を震わせたので、エルクもつられて体を震わせた。
「なに? どうしたの?」
 そっと窺えば、トカゲもどきは周囲をきょろきょろを見回して、何かに怯えているような様子を見せている。やはりつられて辺りを見回したエルクは、ラーン達のいる対岸に突如として表れた異様な人影を認めて、ぎょっと目を見開いた。
「あれは……!?」
下流の方からやってきたのは十人ほどの集団だった。揃いの黒装束に身を包み、隊列を組んで進んでくる姿は異様としか言いようがない。
 思わず叫びそうになって、慌てて口を押える。見れば、ラーンもリファもとっくに彼らの接近に気づいて、むしろ相手の出方を窺っているように見える。ならば、足手まといにしかならない自分が今できることと言ったら、ここでじっとしていることしかない。
「ごめんね、ちょっと狭いけどがまんしてね」
ひとまずトカゲもどきを服の中に隠し、そっと腰を落として草むらに身を潜める。
 体勢を整え、草の陰からじっと目を凝らせば、素早く装備を整えたラーンが黒ずくめの男達に啖呵を切ったところだった。