鱗に覆われた緑の体。つぶらな黒い目に鋭い爪。そして極めつけは額から突き出た角――。突如として現れた不思議な生物に、ぎょっと目を剥く二人。
「……なんだ? その……トカゲ?」
「トカゲにしては変わった形ですね。私も初めて見ますよ」
旅慣れた彼ら、特に博識なリファにも分からないとあっては、いよいよもって謎の生物ということになる。
「僕もこの子みたいな生き物は見たことなくて……わ、どこ行くの」
するりとエルクの肩へ駆け上がり、キョロキョロと辺りを見回しているトカゲもどき。ひょいと手を出しては威嚇されて慌てているラーンを横目に、リファは艶やかな緑色の体をしげしげと眺め、不思議そうに告げた。
「僅かですが、精霊力を感じます。いわゆる『妖獣』なのかもしれませんが、こんな姿の妖獣は見たことがありませんね」
自然界の六大元素――風水火土光闇いずれかの力を宿した生き物、それが妖獣だ。その力は種類によって差があるものの、強いものなら精霊にも匹敵するほどの力を持つ。先だって大地溝に現れた土鬼も妖獣の一種だが、人を襲うような妖獣はごく限られており、そのほとんどは人里離れた森や山でひっそりと暮らしているという。
「宿している力から察するに土属性の何かのようですが……」
リファが手を伸ばした途端、怯えるように服の中に隠れようとしてもがくトカゲもどき。こらこら、と抱え直して、どうにか大人しくなったところで、ひゅんっと川面を吹き抜けた風が濡れた体を一気に冷やす。途端、大きなくしゃみをしたエルクに、リファはすい、と杖を構えた。
「そのままでは風邪をひいてしまいますね。そのまま立っていてくださいよ」
今までになく長い詠唱に入ったリファに、まごまごしつつも言われた通りその場に突っ立っていると、杖の先に埋め込まれた青い石が淡く光り出し、やがて眩い閃光を放つ。
「わっ!?」
咄嗟に目を瞑ったエルクは、自身の体がふわりと柔らかな風に包み込まれるのを感じた。恐る恐る目を開けると、先程までびしょ濡れだったはずの服はすっかり乾き、冷え切っていた体は一瞬にして温まっている。
「今のは……?」
「ちょっとした魔法です。これで風邪をひかずに済むでしょう」
疲れた様子もなくにこりと笑ってみせるリファに、思わず尊敬の眼差しを送るエルク。ちょっとした、などと言っているが、呪文の長さからしてそう簡単な魔法ではないことくらいはエルクにも想像できた。それを惜しげもなく使い、しかもひけらかすことのないリファは、本当に凄腕の魔術士なのだ。
「ありがとうございます!」
ふんわりと乾いた服からは、お日様のいい匂いがした。濡れ鼠から一転して、心地よい着心地に気分までもが軽くなる。
「君もすっかりほかほかだね」
エルクの腕の中でうっとりと目を閉じていたトカゲもどきは、その言葉に目を瞬かせ、そして猫が喉を鳴らすように、きゅるきゅると不思議な音を立てた。
『ほかほか。しあわせ』
「え?」
「おや?」
鳴き声に重なるようにして、脳裏に鳴り響く言葉。思わず顔を見合わせるリファとエルクに、ラーンが呑気に問いかける。
「二人とも、どうかしたのか?」
「今……喋った?」
「エルクにも聞こえましたか。これは……」
「なあ、何のことだよ?」
怪訝な顔をして尋ねてくるラーンを一瞥して、ふむ、と腕を組むリファ。
「ラーンには聞こえなかったと。なるほどね」
「おい、リファ。説明してくれよ!」
詰め寄る相棒を無視して何やらぶつぶつ言っているリファを尻目に、エルクはトカゲもどきをそっと眼前に持ち上げて、おずおずと問いかけた。
「……今の、君?」
真剣な眼差しを前にして、トカゲもどきは大きな目を細め、きゅるると喉を鳴らす。
『きみ。ちがう。ロキ』
再び、鳴き声に重なるようにして聞こえてきた不思議な声。薄い水晶片が風に揺れさざめくような、その幻想的な響きが、なぜかエルクの心を静かに揺さぶる。
「ロキ……?」
「それがあなたの名前ですか?」
「おーい、二人とも、何言ってるんだよ」
訝しむラーンの声は、すでにエルク達には聞こえていなかった。
『ロキ。なまえ』
えっへん、と胸を張るような仕草までされては、もう疑いようもない。声の主は間違いなくこのトカゲもどき――ロキと名乗る謎の妖獣だ。
「妖獣って、人の言葉を話すんですか?」
「いえ、これは精霊や妖獣が使う言葉です。彼らは己の意思を直接相手の心に伝えてくるんです。しかし、普通の妖獣はこんな風に明確な言葉を発しないはずなんですが……」
再び考え込んでしまうリファを横目に、エルクはきょとんと見上げてくるロキの頭をよしよしと撫でてやった。
「ロキはお話ができるんだね。すごいね」
「お前ら……そのトカゲと喋ってるのか?」
怪訝な顔で尋ねてくるラーンに、エルクの方こそきょとんと首を傾げる。
「ラーンさんには聞こえてないんですか?」
「きゅーきゅー鳴いてるようにしか聞こえないぜ。それ、言葉なのか?」
『ロキ、しゃべる、すごい?』
照れたように頭を掻くロキの、その喜びに溢れた声も、どうやらラーンにはまったく伝わっていないようだ。
「無理もありません。精霊の言葉はごく限られた者にしか聞き取ることができませんからね」
リファの説明に思わず目を瞠るエルク。
「そうなんですか? じゃあなんで僕は……?」
「あなたが精霊に愛されているからでしょう。純粋な心を持つものを精霊は好みます。子供の頃は精霊が見えていたのに、大人になったらいつの間にか見えなくなっていた、なんて話もよく聞きますし」
「へーへー、どうせ俺は不純だよ、悪かったな!」
変な方向に拗ねるラーンは放っておいて、リファはエルクの手の中ですっかりくつろいでいるロキに優しく問いかけた。
「ロキ。あなたは大地の妖獣のようですが、なぜこんなところにいるんです?」
通常、妖獣は自身の属性の力が強い場所にいることが多い。水の妖獣なら川や海、大地の妖獣なら山や洞窟などを住処とするのが常だ。そう考えると、これだけ水気の多いところに土の妖獣がいるのは極めて不自然だ。
リファの問いかけに、ロキは考え込むように目を瞑り、しばし黙り込んだかと思うと、きっぱりと言ってのけた。
『ロキ、わからない』
「……もしかして、迷子?」
たどたどしい話し方や体の大きさから考えて、どうやらロキは幼体と言っても差し支えないようだから、うっかりして仲間からはぐれてしまった可能性は否定できない。
しかしロキはぷるぷると首を横に振って、更にとんでもないことを言い出した。
『ここ、どこ? ロキ、だれ?』
「えええええ!?」
重なりあった声が静かな川面に響き渡り、驚いた小鳥達が一斉に飛び立っていく。
驚いたのはラーンも同じだ。いきなり奇声を発して固まってしまった二人を交互に揺すって、手荒く問い詰める。
「おい! 一体どうしたんだよ?」
衝撃の事実から先に立ち直ったのはリファの方だった。詰め寄ってくるラーンをまあまあ、と宥めておいて、手早く頭の中で言葉を組み立てる。いつもなら長々と解説に入るところだが、今回ばかりは一言で済みそうだ。
「要するに――記憶喪失です」
簡潔かつ的確な説明に、はあ? と素っ頓狂な声を上げたラーンは、エルクに抱かれたままのロキをぎろりと睨みつける。
「訳の分からん生き物のくせして、記憶喪失だとぉ?」
『わけのわからんいきもの、ちがう。ロキ』
抗議するロキの言葉は、悲しいかなラーンには届かない。しかし何か文句をつけているらしいことは分かったらしく、むっとして言い返す。
「俺にも分かるように喋れ!」
『あかいの、ロキ、ことば、わからない。かわいそう』
「……今、俺のこと憐れんだだろ! 言葉が分からなくたって何となく伝わるんだぞ!」
『あかいの、かしこい。えらい、えらい』
「今度は馬鹿にしたな!? ええい、こうしてやるっ!」
捉まえようと伸ばされた手をさっと避けて、エルクの肩から頭の上へと飛び移るロキ。更に追ってきた手を掻い潜って、たんっと力強く焦げ茶色の頭を蹴る。
「ぅわっ!」
衝撃によろけつつ空を仰いだエルクが見たものは、宙へと躍り出たロキの背に現れた、小さな翼。
その翼で力強く空を舞い、きゅるきゅると歓喜の声を上げる姿はどこか優雅で、しかしまるで白昼夢のように現実味がない。
「翼……生えてますよ」
「……空、飛んでますねえ」
呆気に取られる二人の隣で、ラーンだけがこの野郎、と拳を突き上げている。
「飛ぶなんて卑怯だぞ! 降りて来い!」
『あかいの、しつこい』
むきになって手を伸ばすラーンをからかうように、緩急をつけて三人の頭上をひらひらと旋回する緑の体。折しも雲の切れ間から顔を覗かせた太陽光を反射して七色に輝くその小さな姿に、ぽかんと立ち尽くしていたエルクが鋭く息を呑んだ。
「あの連中が探していた『空を飛ぶ光』って……」
その言葉に、はっと顔を上げるリファ。
「まさか……ね?」
「まさか、ですよねえ?」
あははははー、などと乾いた笑いを響かせつつ、顎を掴んで唸り出す二人に、ラーンの雄叫びが追い打ちをかける。
「うおっ! てめえ、光ってないでさっさと降りて来い!」
ラーンの手を逃れてぐん、と舞い上がったロキの体は、ぼんやりとではあるが緑色の光を帯び、その大きな瞳がきらきらと光を纏う。その、どこか懐かしい輝きに見惚れていたから、隣でリファが何か慌てた声を出したことに気づくのが遅れてしまった。
だから、遥か頭上で優雅にくるりと一回転をしたロキが、そこから一気に加速してラーンに突っ込んでいき、成す術もなく吹っ飛んだ剣士が河原にひっくり返るまでを、ただ茫然と眺める羽目になった。
「ラーン!?」
珍しく動揺を顕わにしたリファだったが、すぐに立ち上がった相棒の姿にほっと胸を撫で下ろし、すかさず「石頭ですねえ」などと感心してみせる。一方のラーンはリファの感想など聞こえていない様子で、怒り心頭とばかりに拳を震わせて怒号を放った。
「てんめえ……よくもやってくれたな!!」
「ラ、ラーンさん、怖いです……」
そのロキは奇襲成功後、ひらりとエルクの肩に降りてきたので、ラーンの鬼気迫る表情はエルクにも向けられる形となり、思わず身を竦ませるエルク。片や、ラーンの怒気などどこ吹く風とばかりに、えっへんと胸を張るロキ。
『ロキ、すごい』
ふんぞり返るロキの背には、どういうわけか翼が見当たらなかった。必要な時だけ出てくる仕組みだとすれば便利な代物だが、そんな生き物の話など聞いたことがない。
「ロキ……君は一体……?」
「ただの妖獣ではないようですが、不可解な点が多すぎます。これは本腰を入れて調べる必要がありそうですよ」
魔術士としての知識欲に駆られたのか、俄然やる気を出すリファに、ようやく怒りの牙を引っ込めたラーンが実に意地の悪い笑顔で言ってのけた。
「おお、リファが本気を出したらすごいぞ。トカゲの開きにされないようにせいぜい気をつけるんだな」
「えっ!?」
思わずロキを抱きしめるエルクに、リファがいやですねえと口を尖らせる。
「そんなことしませんってば。――尻尾の先をちょっと頂けると嬉しいですけど」
にっこりとほほ笑みながらの台詞に、ひいいと慄く一人と一匹。
『ロキ、こわいっ』
「ややや、やめてくださいよリファさん!」
「……冗談ですって」
心外ですねえと怒ってみせるリファだったが、その顔が若干残念そうに見えたのは気のせいか。
「さて。これからどうしましょうね。彼らを追いかけるか、それとも――」
きりりと表情を引き締め、黒ずくめの男達が消えて行った方角を見つめながら、金髪の魔術士は楽しそうにぴっと人差し指を立てた。
「先回りしますか?」