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2 王の庭
 城の朝は早い。王城の一角にある使用人の居住棟は、日が昇らぬうちから大勢の人々が忙しなく働いている。食事の準備に掃除、洗濯。何百人もの人間が暮らしている王城だから、とりわけ朝は忙しい。
 祖父も早起きで、食事前に散歩がてら庭の様子を一通り確認し、その日の仕事を見定める。それから食堂へ顔を出して朝食を取り、昼食を籠に詰めてもらって庭に出る。
 王城の庭は大きく分けて三つ。お客様を出迎える前庭、兵士達の訓練場も兼ねている中庭、そして城の裏側に位置する裏庭。この裏庭は『王の庭』とも呼ばれ、客人をもてなすためではなく、王家の人々の憩いの場として整えられている。他所様に見せる場所ではないから修行の場としてはもってこいで、僕は当面の間、ここで草木の手入れを学ぶことになっていた。
 裏庭には客人だけでなく、他の使用人達もやってこない。つまり――。
「テオ! 遊びましょ!」
 今日も乳母の目を盗んでやってきた姫様は、溢れんばかりの笑顔で僕の名を呼ぶのだった。
「姫様、僕はまだ仕事中なので……」
「今は休憩の時間でしょ! セルゲイに確かめたもの! だから遊びましょ。子供は遊ぶのも仕事のうちだって、父様も言ってたわ」
 薔薇色の頬を膨らませて、もう何度聞いたか分からない台詞を繰り返す小さな姫。
 僕が来るまでこの城には子供がいなかったため、遊び相手を欲していた彼女はことあるごとに庭へやってきては「遊びましょ!」と誘う。国王陛下からも直々に『手が空いている時は遊び相手をしてやってくれ』と頼まれてしまっているので、邪険にもできない。
 しかし僕は園丁見習いとしてここに来たのだから、祖父の手伝いを疎かにするわけにはいかなくて、かくして僕は板挟みの日々を送っているわけだ。
「あと! その『姫様』っていうの、やめてって言った! ちゃんとジーナって呼んで」
 しかもこれだ。恐れ多くも一国の姫君を、一介の園丁見習いが呼び捨てに出来るわけがない。そう繰り返しているのに、彼女は頑として譲らない。
「テオは私のお友達なの! だからいいの!」
「そう言われても……、誰かに聞かれたら、僕より姫様が叱られるでしょう?」
 姫がこの裏庭で僕と遊んでいること自体、良く思っていない人もいる。ほとんどの人は見て見ぬふりをしてくれるけど、優しい人ばかりじゃないってことは、彼女も勿論分かっているはずなんだ。
 彼女はこっそり抜け出しているつもりでも、家庭教師のナジェーダ夫人や、傍付きの侍女達が気づいていないわけもない。侍女やばあやさんは時機を見計らって「あらあら、姫様は一体どちらにいらっしゃるのでしょうね」「困りましたねえ」なんて小芝居を打ってくれるけど、夫人は鬼の形相ですっ飛んできて、二言目には「一国の姫君ともあろうものが、下々のものと軽々しく言葉を交わすなど、はしたない!」「お前も下男としての立場を弁えなさい!」と、こうだ。
 僕が怒られるだけなら構わない。でも、姫様が叱られるのは悲しい。
 どんなに頭脳明晰でも、大人びた口調で話しても、姫様はまだ六歳にもなっていない、小さい女の子で。
 生まれてすぐに母を亡くし、ただ一人の『世継ぎの姫』として育った彼女が、色んなことを我慢して、あえて明るく振舞っているのを、僕は知っている。
 だからこそ彼女は、僕の前ではわがままを言うのだろうと、祖父は言っていた。そう、年が近くて、難しい事情を知らない、ただの園丁見習いである僕だからこそ。
「そうだ!」
 唐突に手を叩いて、にんまりと笑う姫。ああ、この顔は――何か良からぬことを企んでいる顔だ。
「ねえテオ、知ってる? この『王の庭』はね、別名を『秘密の花園』って言うのよ」
 勿論、知っている。祖父が最初に教えてくれたことだ。ここは王族しか立ち入ることの叶わぬ庭。故に、密談の場所としても活用されているのだと。政治の話から恋の駆け引きまで、ここで話されたことは決して外に持ち出さないのが決まりだ。
「だ・か・ら。ここでなら、テオは私のことを呼び捨てにしていいし、敬語を使わなくていいの! この庭では、私とテオは『姫様と園丁』じゃなくて、ただの『ジーナとテオ』なのよ」
 腰に手を当て、勝ち誇ったような顔で宣言する姫様に、僕はいよいよ白旗を上げざるを得なかった。
「分かりまし……分かったよ、ジーナ。これでいい?」
 正直なところ、僕だって敬語で話すのは苦手だし、この方が楽なのは確かだ。
「やったあ!」
 諸手を挙げて快哉を叫ぶ彼女に、慌てて釘を差す。
「でも! あくまでこの庭の中でだけ、だからね。他の場所では姫様って呼ぶし、敬語で話すよ」
 まあもっとも、しがない園丁見習いの僕が王城の中を自由に出歩く機会などないから、この庭以外で彼女と出会うことなどあり得ないわけで。
 だからこれは、彼女への牽制というよりは、僕自身への戒めだ。
「分かってる!」
 不承不承、と顔に書いてあるような表情で頷いて、ジーナはずい、と右手の小指を突き出してきた。
「約束よ。破ったら承知しないんだから」
「うん、約束する」
 小指と小指を絡ませて、お決まりの言葉を口にする。
「アイシャスに誓って――正しきものには微笑みを、嘘つきには氷の眼差しを」
 美しき水の女神アイシャス。その冷徹なる瞳に見つめられたものは魂まで凍りつき、永遠の眠りに就くのだという。要するに、約束を破ったものには死の運命が待ち受けているぞ、というわけだ。なんとも物騒な誓いの言葉だけれど、地域によっては針を飲ませるだの煮え湯を注ぐだのといった言い回しもあるそうなので、こういうのは案外、万国共通なのかもしれない。
「約束、だからね」
 縋るように見つめてくる、天青色の瞳。
 ひとたび約束を破ったなら、この瞳はたちどころに凍りついて、そして僕の魂を砕くのだろう。
「約束だよ」
 小指から伝わってくる体温は、僕と彼女が、同じ人間である証。
 彼女を無慈悲な氷の女神にしないために。彼女が、『普通の女の子』であり続けられるように。
 僕はこの庭を守ろう。そう、決めたんだ。


 長い冬が終われば、短い春と夏が来て。
 噴水の水飛沫を浴びて笑う彼女の髪に、丹精こめて育てた薔薇の花を差し。
 あっという間に秋は終わり、また長い冬が来て。
 雪に閉じ込められて退屈そうな彼女と、納屋で植物図鑑を眺めて過ごした。

 いくつもの季節が、駆け足で通り過ぎていき。
 少しずつ変わり行く世の中で、それでも僕は庭を守り続ける。
 二人だけの秘密の庭で、無邪気に笑う君。
 《白亜の姫》が『ただのジーナ』でいられる場所が、ここにしかないのならば。


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