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番外編 追憶の《青》 [4]

 足音が聞こえて、ラウルは顔を上げる。途端に背中に痛みが走ったが、そんな事はまったく顔に出さずにやってきた人物を見上げた。
「よぉ、くそじじい。早かったじゃねえか。公務とやらは終わったのかよ」
 楽しげですらあるその口調に、やってきた人物は肩をすくめる。
「昨日の晩に帰ってきたばかりだ……まったく、懲りない奴だな」
 呆れた顔で格子の中を覗き込んでいる人物の胸には、最高司祭である事を示す首飾り。それは即ち、このユーク本神殿の長である事を意味している。誰からも敬われる存在であるはずの彼に対し、ラウルの口調は余りにもぞんざいだ。本来なら不敬とされる口の利き方も、彼にだけはそれが許されていた。なぜなら、彼らは義理とはいえ親子であったから。
「あいにく、学習能力って奴に乏しいもんでね」
 ユーク本神殿長ダリス=エバストは、相変わらずな息子の態度に苦笑を浮かべる。
「またドゥルガーにこってり絞られたぞ。息子さんの躾を間違えられましたな、とかなんとか……」
「生憎と、俺はあんたに躾けられた覚えはないんだが」
 八つで彼に引き取られて早十年と少し。その間に一般知識や神官としての教育は受けてきたが、この養父が口うるさく言った事といえばせいぜい食事の作法くらいで、あとはほとんど野放しにされていた。それを無責任と言うつもりはない。むしろ余計な干渉をしないでくれていた事は有り難かった。
「ああ、私もお前を躾けた記憶はない。そんな事をして、お前が素直に態度を改めるとは到底思えなかったしな。となればいくら躾けたところで時間の無駄だ」
 あっさりと返す神殿長。流石はラウルの親だ。いい性格をしている。
「しかし、子供の不始末は親の責任というのが世間の常識となっていてな」
「子供って、俺はもう二十歳超えてるんだぞ?」
「ああ、私も常々そう言ってるんだが、どうもあの連中には聞こえないらしい。ともあれ、お前もいい加減、人の神経を逆なでするような事はやめたらどうだ?適当にあしらう事くらい、お前なら簡単だろうが」
 言っても無駄だと知りつつ、彼は諭す。その気になれば、ラウルはいくらでも完璧な猫を被れる事を、勿論養父である彼は知っている。あえてそれをしないでいる事も。
「あんな陰気くさい連中の機嫌を取るだなんてごめんだね」
 予想通りの答えにやれやれ、と呟いて、神殿長は鍵を服の隠しから取り出した。
「なんだ、もう出ていいのか?」
 いつもなら、大体十日ほどはここで反省を強いられる。ところが、あれからまだ六日しか経っていない。そんなラウルの言葉に、神殿長はああ、と頷いた。
「お前を訪ねてきた人間がいる。とっとと出て、会ってやれ」
「俺を?」
 思い当たる人間がいないラウルに、養い親はにやり、と人の悪い笑みを浮かべて答える。
「ちらと見ただけだが、大層な別嬪さんだ。どこでひっかけてきたかは知らんが、随分と趣味がよくなったじゃないか、小僧」
 その言葉ですぐに思い当たった。途端に顔をしかめるラウル。
「げっ……あいつか?!なんでまた……」
 そんな様子に神殿長は意外そうな瞳を向け、そして付け加えた。
「さっき聞いた話では、三日前から来ているそうだ。追い返されてもめげずに訪ねて来るもので、見かねた門番がこっそりと私のところに注進に来たくらいだからな」
 神殿長が留守の間は、神殿内の取り仕切りはすべて副神殿長ドゥルガーに委ねられている。そして彼からラウルへの面会人はすべて追い返せと厳に命じられた門番達は、何度追い返してもやってくる美人にすっかり心打たれたらしい。
「ほら、美人を待たせては失礼に当たるぞ。とっとと行かんか」
 扉を開けてそう言ってくる養い親に、ラウルは怒ったような顔で扉をくぐった。体を屈めた際にその顔を小さく歪ませた事に、神殿長は気づかないふりをする。
「ったく……何しに来やがったんだ……」
 などとブツブツ呟きながら足早にその場を去っていくラウル。その後姿を、神殿長は深いため息と共に見つめていた。

「ラウルちゃんっ!!」
 飛びついてきたフェリキアに、一瞬息が詰まりそうになって、ラウルは慌ててその体を引き剥がす。
「やめろよっ、人が見てんだろ!」
 ユーク本神殿の正門前。やってきたラウルに抱きついたフェリキアは、彼の抗議に辺りを見回す。そしてすぐ傍で目を丸くしている門番達に気づいて、ぱっと顔を赤らめた。
「あら、いやだ」
「『あら、いやだ』じゃねえ。何しに来たんだ」
 怒ったように尋ねて来るラウルに、フェリキアは、いっけない、と足元を見回す。ラウルの姿が目に入った瞬間、思わず地面に放り出していた籠を拾い上げ、そこから布の包みを取り出した。
「これ、この間忘れていったでしょう?」
「あ?ああ……そうか、あんたが持っててくれたのか」
 布を解くと、そこから見慣れた小刀が出てきた。てっきり、懲罰房に入れられた際に取り上げられたのだと思っていた。
「ありがとな」
 一応きちんと礼を言って、腰紐に小刀を差す。馴染んだ重さが心地良い。
「あとね、お昼ご飯作ってきたの。もし良かったら一緒に食べない?」
 籠の中を示してそう言ってくるフェリキア。明るい口調に反し、その顔はどこか泣き出しそうに見えて、ラウルは渋々頷いた。何があったか知らないが、ここで泣かれでもしたら門番達に何を言われるか分かったものではない。
「来いよ」
 そう言ってくるりと踵を返すラウルを、フェリキアが慌てて追いかける。慌てたのは門番達も同じで、
「おい小僧、どこへ行くんだ?」
「神殿内に入れるつもりか?部外者を入れちゃならんと……」
「うっせぇよ。こいつは参拝者だ、中を案内する。それのどこが悪い?」
 そう言われてぐっと押し黙る門番達。その脇を、ラウルはしらっとした顔で通り抜ける。その後に続くフェリキアは申し訳なさそうな顔で門番達にぺこり、と頭を下げ、そしてラウルの後を追いかけていった。
「ちょっと待ってよ、ラウルちゃんったら!」
「だから、その呼び方はやめろっ!」

 墓地にほど近い裏庭には、穏やかな日差しが降り注いでいた。
 石造りの椅子が一つと、昔のお偉い方が植えたという一本の木があるだけの小さな庭。聞こえるのは小鳥のさえずりだけ。滅多に人の訪れないここは、ラウルにとって格好の昼寝場所だった。
 椅子に腰掛けて、フェリキアは籠の中から手作りの昼食を取り出しながら、初めて見るラウルの神官衣姿に、
「そういう格好してると、神官さんらしく見えるわね」
 と素直な感想を述べる。
「……悪かったな」
「あら、褒めてるのに。……はい、召し上がれ」
 たっぷり具を詰め込んだパンを差し出すフェリキア。それを受け取ろうと手を伸ばしたラウルは、彼女が思いつめたような顔をしている事に気づき、眉をひそめた。さっきは泣きそうに見えたし、ここに来る道すがらもずっと俯いて、一言も喋らなかった。何かあったのだろうか。
「……どうしたんだよ?」
 尋ねるラウルに、フェリキアは俯いて呟く。
「ごめんなさい、私のせいで……」
「あ?なんだよそれ」
「リゲル君に聞いたのよ。あなたが謹慎を受けてるって事。神殿の規律は厳しいんでしょう?夜遊びなんかいけないのよね。それなのに、あの時強引に引っ張って行っちゃって……」
「あんたが気にする事じゃない。こんなのいつもの事だ」
 そう言いながら彼女の手からパンを受け取り、がぶりと食らいつくラウル。それでもフェリキアは首を横に振る。
「本当に、ごめんなさい……」
「だから、謝るなよ。あんたのせいじゃない。大体、あんたがいくら誘ったって俺が乗らなきゃ済んだ事だろ。それを、何であんたが気に病む」
 たかが行きずりの人間に、こうも心を砕く理由が分からなくて、ラウルは心底不思議そうにフェリキアを見る。そのフェリキアは、怒ったように答えた。
「当たり前じゃないの。ラウルちゃんは私にとって大切な人ですもの」
 思いがけない言葉に、ラウルは思わず食べかけのパンを取り落としていた。挟まれていた卵やら肉やらが黒い神官衣の上に盛大にこぼれたが、気にも留めずにフェリキアをまじまじと見つめて呟く。
「大切な人、だぁ?」
 たかだか一日ちょっとの付き合いでしかない人間を『大切な人』と呼んだフェリキア。その彼女はラウルの呟きには取り合わず、「もうなにやってるの!」と慌てふためいて服を拭いていたが、どうにも取れない卵や肉汁の染みに嘆息し、こう命じた。
「脱いで」
「はぁ?」
「いいから脱いで!早く洗わないと染みになっちゃうわよ。ほらっ」
 そういうが早いか、上着の合わせに取り付いて脱がしにかかる。
「っわ、やめろよ!あとで洗濯するからいいって、い……!」
 フェリキアの手から逃れようと身をよじった途端に、鈍い痛みが背中に走る。
 堪えようとしたが遅く、小さな呻き声が口から漏れた。途端にフェリキアが眉をひそめる。
「ラウルちゃん?」
「……だから、やめろって……」
 どこか辛そうな声。フェリキアはハッと顔をこわばらせ、きゅっと唇を結んで再びラウルの上着を引っ張った。
「おい!」
「いいから!」
 その剣幕に、ラウルは短く嘆息して降参、と手を挙げる。
「……分かったから手ぇ離せ。脱ぎゃいいんだろ」
 そう言ってラウルは腰紐を解き、ゆっくりとした動作で上着を脱ぎ捨てた。そして日の下に晒されたその素肌に、フェリキアが息を呑む。
「……ラウルちゃん……どうしたのよ、その傷!!」
 ほどよく筋肉のついた細身の体。その背中に、まだ血の色も生々しい裂傷が走っていた。
「ねえ、なんでこんな怪我してるの?!早く手当てしなきゃっ……」
「大したことねぇよ。あんまり騒ぐな」
 ラウルはそう言うが、とてもではないが「大したことない」傷には見えない。何故彼がそんな怪我を負っているのか。その訳を察して、フェリキアが青ざめる。
「謹慎だなんて、そんな生易しいものじゃなかったのね……こんな……こんな……」
 透き通る青い双眸から、透明な涙が溢れ出した。
「私のせいで、こんな酷い……」
「おい、泣くなよ……」
 とめどなく滴り落ちる涙を拭う事もせずに、フェリキアは泣いている。化粧が落ちるのも構わず、子供のように泣きじゃくる彼女に、困惑した表情で立ち尽くすラウル。
 泣かれるのは苦手だ。どうしていいか分からなくなる。
「あんたが痛いわけじゃないだろ。泣いてどうなるわけでなし、どうして泣くんだ」
 人のために何故泣けるのか、ラウルには分からない。彼自身、誰かのために涙を流した事などなかったから。
 それでも、彼女の流す涙は限りなく透明で、まるで宝石のように輝いていて。心底、綺麗だと思った。触れてみたいとさえ感じた。
(……不思議だ……)
 女の涙など珍しいものではないのに、彼女のそれはまるで媚薬のように、ラウルの心に染み込んでいく。
 そして、ふと見上げてきた瞳。澄んだ泉のような濡れた瞳が、とどめとばかりにラウルの胸を打つ。
 ほとんど無意識のままに、ラウルは手を伸ばしていた。
 淡く輝くその頭をぐい、と引き寄せ、腕の中に抱きしめる。些か乱暴な抱擁に彼女は一瞬身を固くしたが、そのまま何も言わずラウルの胸板に顔を押し付けて、そして泣いた。
 その耳元で、宥めるようにラウルは囁く。
「あんたのせいじゃない。だから泣くな」
「……でも……」
「これは俺と神殿との問題だ……もう気にすんな。それに、それ以上泣くと顔が腫れるぞ」
 優しく耳に響くラウルの言葉。フェリキアはしゃくりあげながらも頷き、もう少しだけ涙を零して、そっと体を離した。
「……ごめんなさ……」
「あっちに水場があるから、洗ってきてくれよ」
 謝罪の言葉を遮ってそう言うと同時に、染みのついた上着を放り投げてやる。受け取り損ねて頭から被ってしまったフェリキアは思わず悲鳴を上げて、そしてようやく笑顔を見せた。
「急に投げないでよっ」
「ついでに顔も洗って来いよ。そんな腫れぼったい目の女優なんて目も当てられないぜ」
「もうっ……やな人ね」
 怒ってみせながら、フェリキアはラウルの上着を抱えて水場へと走っていった。
 静かになった裏庭で、ラウルは背中の痛みに顔をしかめつつ、まだたくさん残っているパンに手を伸ばす。懲罰房では食事もろくに出ないのだ。久しぶりに食べる心づくしの昼食は、この上なく美味に感じた。
 ラウルが籠の中身を半分以上平らげた頃になって、ようやくフェリキアが戻ってきた。しかも、手には洗った上着だけではなく、救急箱のようなものを抱えている。
「どっから持ってきた、それ」
 思わず尋ねると、フェリキアは事もなげに
「通りかかった神官さんに頼んで、貸してもらったの。ほら、背中見せて。ちゃんと手当てしなきゃ」
 と答えながら、せっせと救急箱から消毒液だの包帯だのを取り出していく。
(通りかかった神官だぁ?)
 こんなところをうろついている神官など、そういないはずなのだが。そんな事を考えていたラウルは、突如背中に走った激痛に悲鳴を上げた。
「な、なにすんだっ!」
「なにって消毒よ。ほら、動かないで」
 問答無用で傷の消毒をし、ぎこちない手つきで包帯を巻いていくフェリキア。最後の仕上げとばかりに背中をぽんぽん、と叩いたものだから、再びラウルは叫び声を上げそうになった。
「て、てめぇ……!」
「あら、ごめんなさい。つい」
「ついじゃねぇ!ったく……」
 文句をたれつつ、籠をぐい、とフェリキアに押し付ける。
「……うまかった」
「あら本当?良かったぁ」
 嬉しそうに答えた彼女は、さっきまで泣いていたのが嘘のように明るい笑顔を浮かべていた。それは穏やかな、透き通るような微笑み。そう、まるで、そのまま光の中に融けていってしまいそうな―――。
「フェリキア?」
 唐突に呼びかけてくるラウルに、彼女はどうしたの?と首を傾げる。そしてぱっと顔を輝かせた。
「初めて名前を呼んでくれたわね」
「そうだったか?」
 照れくさそうに頬をかくラウル。
「そうよ。で、なあに?ラウルちゃん」
「だからその呼び方はよせって……。その……さっきの話だ。なんで俺があんたの、その、大切な人なんだ?」
 まさか、今にも消えてしまいそうに見えた、などと言える訳がなく、慌ててそんな事を口にする。するとフェリキアは、意外な答えをくれた。
「だって、私が男だって知ってからも態度を変えないでいてくれたの、ラウルちゃんだけなんですもの……」
 彼女の顔が翳る。それは、風に揺れる梢の淡い影のせいだけではなかった。
「大抵の人は私が男だって知った途端に態度を翻すのよ。それまで綺麗だとか愛してるだとか言ってくれた人が、騙されたとか、このオカマ野郎だとか言うんだもの。だからラウルちゃんが、私が男だって知った後も優しくしてくれた事が、とっても嬉しかった」
「優しくなんて……」
「優しいじゃない。わざわざ襟留めを届けてくれたし、その後強引に引き止めたのに怒らなかったし、打ち上げまで付き合ってくれて。それにね」
 フェリキアは不意に言葉を切って、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「最初に会った時ね。突然現れて助けてくれたあなたのこと、一目で好きになってたのよ」
 気負わず、飾らず、どこまでも自然に彼女は「好き」という言葉を口にした。
 面食らった顔のラウルに、フェリキアは続ける。
「だからあの時、迷惑だって分かっててもつい、引き止めちゃったの……ごめんなさい。私、あなたの恋人になりたいわけじゃないわ。ただ、親しくなりたかっただけ。でも、もう無理よね。男から好きって言われても嬉しくないでしょうし」
 それじゃ、もう行くわね、とそう告げて、フェリキアは籠を手にくるりと踵を返した。 スタスタと歩き出すその背中が、初めて会った時のあの背中に重なる。
 悲しみを堪え、毅然とした顔で去っていった彼女。
 その気高さ、芯の強さは、まさに凛と咲く一輪の花。風に煽られ、嵐に弄られてもなお、太陽を仰いで咲き誇る、青い花。
「なあ」
 ラウルの声に、フェリキアは驚いたように振り返った。呼び止められるとは思っていなかったのだろう、目を丸くする彼女に、何気なさを装って尋ねる。
「いつまでこの街で興行を続けるんだ?」
「月末までよ。それが終わったら、今度は東大陸に行くの」
 となると、あと十日ほどはラルスディーンに滞在する事になるわけだ。
(十日、か……)
 それが過ぎたら、恐らくは二度と会う事はあるまい。彼らは旅芸人。風の吹くまま、気の向くままに世界中を旅して回る者達だ。
(たった十日間だけなら……)
 終わりの見えている出会いなら。たった十日間だけ、この花に惑わされてみようか。気高く美しい花。初夏に咲くフェリキアという名の青い花に―――。
「今夜、空いてるか?」
「え?ええ、夜の公演が終わったらあとは自由時間だけど……」
「なら、夕飯を一緒にどうだ?昼食のお礼さ。あとは明日でも、明後日でもいい。暇な時間があったらこの街を案内してやるよ」
 ラウルの言葉に、フェリキアの顔がぱぁ、と輝く。
「ラウルちゃん……!」
「ったく、参ったぜ。どうやら、俺も結構あんたのことが気に入ってるらしい」
 観念したようにそう告げるラウルに、フェリキアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。大好きよ、ラウルちゃん!」
「だから、その呼び方はやめろって……」
 目の前で無邪気に喜ぶ彼女に、そうそう、と付け加える。
「言っとくけど、夜のお付き合いだけはなしだからな」
「当たり前でしょ!」
 顔を赤らめて背中を叩いてくるフェリキアに、ラウルは軽快な笑い声を上げた。傷の上を叩かれて結構痛かったが、それよりも限られた時間をどう過ごそうか、そんな楽しい考え事で頭がいっぱいだった。

 そして。
 その限られた時間は、十日を待たずに幕切れとなる。

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