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番外編 追憶の《青》 [5]

「お花はいかがですかぁ〜」
 街角に立つ花売りの声に、ふと気が向いて足を止めた。見ればすでに先客がいて、少女から青い花を受け取っている。その鮮やかな色合いに惹かれて、ラウルはふらり、と少女の前に立った。
「よぉ、お嬢ちゃん」
「はい、どのお花が……って、なぁんだ。ラウルじゃない」
 声をかけてきた相手が知り合いだと分かった途端、営業用の笑顔が引っ込む。そのあからさまな表情の変化に苦笑しつつ、ラウルは少女の手にした花籠を覗き込んだ。
「あれ、なんだ。さっきの青い花、あれで売り切れか?」
「何よ、どうせ冷やかしでしょお?女の人に花の一本も買っていった事ないくせに」
 年の割にしっかりした口を利く少女に、何だと、と怒ってみせるが、顔は笑っている。こまっしゃくれた口を利くこの少女は、いつもこんな調子でラウルをからかうのだ。
「なあ、さっきの花の名前、なんていうんだ?」
 もしかして、と思いつつ尋ねたラウルに、少女はあっさりと答えをくれた。
「フェリキアよ」
「そっか、やっぱりあれが……」
 遠目で見ただけだったが、その青い花びらはまさに彼女の目の色と同じ、少し切なげな青だった。
 なるほど、と納得しているラウルを少女は怪訝な顔で見上げていたが、すぐにこう付け加える。
「見ての通り、もう売り切れよ。青い花ってあんまりないからすぐ売れちゃうのよね。なに?欲しかったの?どういう風の吹き回しよ」
「客に対してなんて口利くんだ、お前さんは……。ないならいいさ。ちょっと気になっただけだ」
 じゃあな、と手を振って歩き出そうとするラウルに、少女はちょっとだけ逡巡してからこう言った。
「ソレーデスの丘」
「へ?」
「南東の斜面。私だけが知ってる穴場なんだからね」
 誰かに知られたらお飯の食い上げだわ、と呟く少女の頭をぽん、と軽く叩いて、ラウルは笑ってみせる。
「ありがとな。もっと大きくなったら付き合おうぜ、エルダ」
「その頃にはあんたなんかおじさんになってるわよ!ほら、商売の邪魔なんだから、どいたどいた!」
 そう言ってラウルの手を払いのけて、少女は再び道行く人へと声をかける。
 そしてラウルは、小さくも逞しい商売人が教えてくれたラルスディーン郊外の丘へと歩き出していた。ここからなら、半刻もしないで行って帰ってこれる場所だ。約束の時間にはまだ余裕がある事だし、暇つぶしにはちょうどいい。
 それに。あの青い花、フェリキアの花を摘んでいったら、きっと彼女は喜ぶに違いない。
 そんな事を考えた次の瞬間、はっと我に返る。
(うわ、柄でもねえ……)
 どうも、彼女の純真さにすっかり感化されてしまっているようだ。どうにも調子が狂って仕方がない。
 あれから五日。一座の連中とも仲良くなり、一座の天幕に入り浸るようになった。空いた時間はフェリキアとどこかへ出かけたり、一緒に食事をしたり、他愛もない話をして過ごした。
 いつもの彼ならこんな健全な「お付き合い」など、まだるっこしいと一蹴するはずなのに、なぜか彼女と過ごす穏やかな一時は心地よくて、それを心待ちにさえしている自分がここにいる。
 今まで数多くの人間と付き合ってきたが、これほどまでに気楽に、それでいて適度な緊張感を保てる人間はいなかった。
 それは、最初から終わりが見えていたから。そして、越えられない一線をお互い知っていたから。
 だからこそ、余計な感情抜きで傍にいる事が出来たのだ。それが、あの気楽さと楽しさだったのだと、後のラウルはそう解釈する。
 しかし今はただ、不思議に楽しいこの関係に戸惑いつつも、それを受け入れている自分がおかしくて、うっかりすると訳もなく口元が緩みそうになるのを抑えるのに必死だった。
 ―――と。
「おいラウル」
「どわっ……ってなんだ、ジェットか」
 突如目の前に現れた赤い髪に、ラウルは慌てて足を止めた。よぉ、と片手を挙げてみせるジェットは女連れで、しかもこの間出来たはずの彼女ではない。
 やれやれ、やはり長くは続かなかったか。そう思いつつ、その話題には触れずに当たり障りのない話を振る。
「どうしたよ、こんな時間に」
「そいつはこっちの台詞だよ。……って、そうそう。ゼフが結婚したらしいぜ」
 久しぶりに聞いた昔の仲間の名前に、へぇ、と眉を動かすラウル。かつて貧民街でラウルにつきまとっていた少年は、今では銀細工師として工房で働く堅気の人間となっていた。噂ではその工房の娘といい仲だと聞いたが、とうとうくっついたという事か。
「親父さんにも気に入られてるらしいし、なんでも子供が出来たらしいぜ」
「それで、か。まあいいんじゃねえか」
 確かゼフはラウルよりも二つほど若かったはずだ。結婚するには些か早すぎるきらいもあるが、本人達がそれを望んだなら、回りが何だかんだ言う事ではない。
「お前も気をつけろよ。気づいたらあちこちに、なんて洒落にもならねえからな」
 などと言って連れの女性と笑い合ったジェットは、馬鹿言え、と鼻で笑ってみせるラウルに、ああ、とわざとらしい声を上げる。
「今のところその心配はないか」
 にぃ、と笑って、ぐいとラウルの耳元に口を寄せるジェット。
「随分と微笑ましいお付き合いしてるみたいじゃん?あの「彼女」とよ」
 途端に、ラウルはジェットの襟首をぐいと掴んで引き寄せた。横にいた女が驚きと抗議の声を上げるが、今ばかりは無視して低く問いかける。
「誰に聞いた」
「聞くも何も、昼日中から美人と腕組んで歩いてりゃ嫌でも目に付くっての。しかもあの「彼女」だろ?やっぱり綺麗なら何でもいいんじゃないか、ラウルちゃん?」
 にやにやと言ってのけるジェットに、ラウルの顔が歪む。
「!……なんで、お前がそれを……」
「リゲルに聞いた。お前が例の如く謹慎受けてた時、リゲルと会ったらしいじゃん?お前の事随分心配してたって聞いたぜ。いい女だなあ、おい」
「……てめぇ、余計な事周りに言いふらしてないだろうな。そんな事してみろ、二度と日の目が拝めないようにしてやるからな……!」
 かなり本気で凄んでくるラウルに、ジェットはへらへらと頷いてみせる。
「分かってるって。それじゃな、ラウルちゃん」
「その呼び方はやめろっ!!」
 ラウルの抗議などどこ吹く風、ひらひらと手を振り、女の肩をぐいと抱いて足早に去っていくジェット。その背中を一睨みしてから、ラウルもくるりと踵を返した。
 時間がない。待ち合わせに遅れては失礼というものだ。
 走り出すラウルの足に鼻っ面を掠められて、野良猫が迷惑そうに一声鳴いた。

 そよ風に花びらを揺らす可憐な青い花。黄色い花心と青い花びらの対比が目に焼きつく。
 フェリキア。彼女の瞳と同じ、どこか郷愁漂う青色をした花を小脇に抱えて、ラウルは猫足広場へと足を踏み入れた。
 少女が教えてくれた「穴場」はなかなか見つけにくくて、予想以上に時間を食ってしまった。それでも待ち合わせの時間には何とか間に合って、ほっと胸を撫で下ろす。
 広場は相変わらず人気もなく、ただ柔らかな午後の日差しに彩られていた。穏やかな、いつも通りの光景が目の前に広がっている。
 それなのに。
(なんだ……?)
 何かが違う。いや、そんなはずはない。張られた天幕も、止められた馬車も、石畳をつつく鳩達も、昨日となんら変わらない。それなのに。
 ―――なにか、おかしい―――
 違和感を感じ取ったラウルの足は自然と早くなった。興行用の天幕を迂回し、楽屋として使われている天幕の入り口をくぐる。そして。

 ただならぬ雰囲気に、彼は目を見開いた。
 天幕の中央、何かを取り囲むように揃った一座の面々。
「お兄ちゃん!」
「おにいちゃん!」
 入ってきたラウルに一番最初に反応したのは、レネーとユノーの双子だった。ラウルに飛びついてきた二人の顔が強張っていて、只事ではないと悟る。
「何があった」
 固い口調で尋ねるラウルに、双子が答えるより早くマレインの声が響いた。
「ラウルか?ちょっとこっちに来てくれ」
 いつもは豪快な彼の声も、今ばかりは弱々しい。言われるままに彼らに近づいていくと、数人が身を寄せてラウルを通してくれた。
 そこでラウルが見たもの。それは―――。
「……何があったんだ……?」
 地面に敷かれた絨毯の上に、彼女は寝かされていた。
 その頭には包帯が巻かれており、赤く滲んだ血が痛々しく映る。
 困惑した表情で周りを見るラウルに、マレインが口を開いた。
「稽古の最中、装置から落ちたんだ」
 彼女が主演を務める小芝居に、高い塔の窓辺から身を乗り出して恋人の行く末を見届ける場面がある。実際には塔など作れないから、窓辺の装置を人の身長ほどの高さに組んで演じているのだが、演技に夢中になるあまり、そこから足を滑らせてしまったのだという。
「怪我は大したことなかったんだけど」
「めをさまさないの」
 心配そうな双子の声。他の団員達も一様に、彼女を見つめている。
 絨毯へと膝をつき、そっと彼女を伺う。呼吸もしっかりしているし、その表情も穏やかだ。額の包帯さえなければ、ただ眠っているようにしか見えないだろう。
「医者は?」
「ああ、すぐに見てもらったさ。気を失っているだけだから、すぐに目を覚ますと言われたんだがな」
 それからすでに二刻も経過している。大丈夫だという医者の言葉を信じないわけでもないが、何しろ頭を打っている。打ち所が悪ければ命を落とす事すらある箇所なだけに、不安は尽きない。
 ―――と。
 不意に、瞼が震えた。眩しそうに何度も目を瞬かせて、澄んだ青い瞳がすぅ、と見開かれる。
 その瞳に言いようのない違和感を感じて、ラウルは無意識のうちに一歩後ずさった。
 そして。
「……ここは……どこですか?私は……」
 紡がれた言葉は、見知らぬ人間のものだった。

 「彼」はアステルと名乗った。アステル=エルヴェイン。西大陸にあるベルファール王国の貴族である彼は、親戚の結婚式に父の名代として出席し、その帰りに事故にあったまでを、しっかりとした口調で語った。
「そうですか、半年も……」
 戸惑いがちに目を伏せるその仕草。呟いた言葉。顔にかかる髪を払いのける手つき。その全てが、「彼」が「彼女」でない事を雄弁に語っている。
 生まれてから事故に合うまでの記憶をすっかり取り戻したアステルは、その代償であるかのように、ここ半年間の記憶を全て失くしていた。
「何も覚えていないのですが、私は皆さんにご迷惑をかけてはいなかったでしょうか。何分、世間知らずなものですから」
 貴族の身でありながら、明らかに身分の違う者達に対して丁寧な言葉を投げかけるアステル。それが彼の性格なのだろう。穏やかな喋り方は、それでもやはり、彼女のものとは違う。
 動揺を隠せない一座の面々を不思議そうに見回していた彼は、ふとラウルに目を止める。
「あなたは?こちらの一座の方ではないようですが」
 不意に話しかけられて、ラウルは慌てて冷静さを取り繕った。
「ああ、俺は……そうだな」
 何と言えばいいのだろう。少し考えてようやく出てきた言葉は、
「ちょっとした、知り合いさ」
 誰の、とも、どんな、とも言えなかった。苦しい言葉に、アステルはそうですか、とだけ答える。そしてその手に握られた青い花を見て、ふと目を細めた。
「フェリキアですか。きれいな花ですね」

 あまりにも残酷なその一言に、誰も、何も言えなかった。
 それが、ついさっきまで自分を示す名前だった事を知る由もなく、彼は突然凍りついた周囲に怪訝な顔をする。
 沈黙が天幕を支配した。誰もが、まるで言葉を忘れてしまったかのように、口を開きかけ、それを閉じる事を繰り返す。
 痛いまでの静寂。それを破ったのは、ラウルだった。
「そう、だな。きれいな、花だ。……欲しいならやるぜ」
「いえ……どなたかに贈られる花なのでしょう?どうぞその方に」
 悪気がないのは分かっていても、その言葉はラウルの胸に突き刺さる。それでも、どうにか平静を取り繕って、ラウルは笑ってみせた。そして、やっとの事で最後の一言を吐き出す。
「そうも行かないんだ。もう……いなくなっちまったから」
 可憐な青い花。そんな名を冠した一座の看板女優は、もういない。
 明るく朗らかで、誰からも好かれた彼女。ちょっとドジで、涙もろくて、それでいて芯の強い、純真な心を持つ彼女。
 フェリキア。舞台に咲いた一輪の花。ラウルの心を魅了した、青い花。
 彼女は、もうどこにもいない。
 別れの言葉を交わす間もなく。鮮烈な印象だけを残して。
 彼女は行ってしまったのだ。
 遥か遠く。手の及ばない彼方へ。

 逃げ出すように天幕を出て、闇雲に走った。
 息が続かなくなるまで走って、走って。辿り着いたのは、石畳の広がる路地。
 奇しくもそこは、彼女と出会った場所だった。
 まだ日の高いこの時間、常夜通りも穏やかな日差しに照らされて、夜とは全く違った顔を見せている。
 人通りもまばらなその場所で、ラウルはふと、手にしたままの青い花を見つめた。
 渡せなかった花。伝えられなかった想い。
「……ずるいぜ、こんなの……」
 通りの向こうから吹き抜ける風に、ラウルはそっと花を手放した。
 手のひらからこぼれた青い花びらが風に舞う。石畳に散る青い花。それはまるで、出会った時の彼女に見えた。
「……なあ、フェリキア……俺は、あんたの事……」
 青い花びらとラウルの呟きとを乗せて、風が空へと吹き抜けていく。
 ―――大好きよ、ラウルちゃん!―――
 そんな声が聞こえた気がして、空を見上げる。
 夏の青空はどこまでも高く、悲しいほどに高く、広がっていた。

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