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calling 〜冬枯れの森にて君を呼ぶ〜


 静かな森。
 鳥のさえずりと小梢のざわめきが、彼らを包み込む。
 それは小さな森だった。エストから歩いて一刻少し、国境に程近い場所に位置する、地図にも載らないささやかな森。
 道なき道を、少女はスタスタと歩いて行く。その後ろを危なげない足取りでついていく旅人は、時折立ち止まっては辺りを見回し、再び歩き出すことを繰り返していた。
(気づかれた、って訳でもないみたいだし……何か探してるのか?)
 木陰から二人の様子を窺っていたエスタスは、ようやく追いついてきたカイトに頷いてみせる。
「……ここ、レオーナさんが言ってた森で間違いないよな。となると、アイシャの目的は例の『奇妙な光』か」
「……そ、そうなると、『奇妙な光』の正体が、ますます、気になりますね」
 森歩きに慣れないカイトはすでに息絶え絶えだ。森に分け入って半刻も経っていないというのに、すでに五回も木の根にけっつまづいて転んでいる。そのたびに奇声を上げかけてエスタスに口を塞がれる有様で、ここまで気づかれなかったのが不思議なくらいだ。
(いや……もしかしたら、もう気づいてるのかもしれないな)
 それでも何も言われないということは、ついていってもいいということだろうか。
「エスタス、見失っちゃいますよ」
 カイトの声に促され、はっと顔を上げる。アイシャの姿はすでに木々の陰に紛れ、その後ろを行く旅人の背中も大分小さくなっている。
「急ごう」
「はいっ」
 ここで見失っては元も子もない。二人は再び、アイシャを追って歩き出した。
 枯れ草を踏み分け、倒木をまたいで、森の奥へと進んでいくアイシャ。まるで何かに導かれているように、その足取りには迷いがない。
(それにしても――)
 木立の向こうに見え隠れする鮮やかな外套を目で追いながら、ふとエスタスはあることに気づいた。
 進めば進むほど、緑が濃くなっている気がする。勿論、地面には枯葉が落ち、下草も大分枯れてはいるが、活力に満ちているというのか、不思議と瑞々しい雰囲気が漂ってはいないか。
(十月も半ばだっていうのに……これじゃまるで、森林浴に来たみたいだ)
 と、すぐ隣を歩いていたカイトが不意に足を止めた。
「あれ?」
「どうした」
 つられて立ち止まるエスタスに、カイトは目を細めて森の彼方を見つめる。
「今、何か向こうで光ったような……」
「光った?」
 カイトの指し示す方向を見たエスタスの目に、次の瞬間眩い光が飛び込んできた。
「ぅわっ……!!」
 思わず目を瞑るエスタス。刺すような光はすぐに収まり、恐る恐る目を開けてみれば、そこには何事も無かったような森の光景が広がるのみ。
「なんだ、今の……?!」
「きっとあれが、レオーナさんの言っていた光ですよ!」
 嬉しそうに言うカイト。
「なるほど、確かに『奇妙な光』だな」
 目も眩むほどの閃光。あれは「水溜りに太陽が反射したのを見間違えたのかも」などという程度のものではない。
「それじゃ、アイシャの困りごとって……」
「あ、あそこです!」
 エスタスの呟きを遮り、木立の向こうを指差すカイト。どれどれ、と視線を動かしたエスタスは、思わず息を飲んだ。
「あれは……」
 木々の間、ぽっかりと開いた小さな広場。
 そこに、まるで昼寝でもしているかのように横たわる、一人の男の姿があった。
 どれほどの時を、そうしていたのだろう。くたびれた外套の上には落ち葉が積もり、袖から覗く指はすでに白骨化している。
「死んで……るのか」
「ええ、恐らく。あ、アイシャ達があんなところに……一体、何をしてるんでしょう?」
 広場の片隅では、アイシャと旅人が何やら話し込んでいた。二人は時折亡骸を窺いながら、何やらひそひそと相談しているように見える。
「埋葬するのに手間取ってる、わけじゃないよな」
 第一、埋葬するだけなら何も魔術士の技はいらない。それこそエスタスやカイトでも十分手助けが出来るはずだ。
「あの亡骸に何か問題でもあるんでしょうか?」
 カイトが呟いた、その時――。
『ジャマヲ シナイデ!』
 鮮烈な光を伴って、唐突にその声は響いてきた。
『コノヒトハ ネムッテイルノ! ネムリヲ サマタゲルモノハ ユルサナイ!』
 言葉。いや、それは純粋なる思惟。光と共に脳裏に叩きつけられるその感情に、たまらず頭を抱えるエスタス。その隣では同じようにカイトが耳を押さえて、信じられないものを見るような顔で目の前の光景を見つめている。
 それは、光の塊に見えた。眩いばかりに輝くそれは、震えるように瞬きながら宙に浮かんでいる。
「まさか、光の精霊?」
「そう。光の乙女」
 え? と顔を上げれば、すぐ近くに見慣れた褐色の顔があった。
「あ……」
「やべ……」
 思わず顔を見合わせる二人に、少しだけ困ったような顔をしてみせるアイシャ。しかしすぐに踵を返すと、呆然と光を見詰めている魔術士のところへ取って返した。
「オレ達も行こう」
「は、はいっ!」
 慌ててアイシャの後を追う二人。その間にも、光の精霊は激しい光を放ち続けていた。その瞳はどこか焦点が合わず、小さな唇はいびつな笑みの形に歪められている。
「なんか、おかしくないか?」
 そっと呟くエスタスに、アイシャは静かに頷いてみせた。
「狂える精霊」
「狂える……?」
 カイトがはっと顔を上げる。
「それって、何らかの原因で本来の性質を保てなくなった精霊のことを言うんですよね? ということは、この精霊は……」
「主人が死んでいることに気づいていない。もしくは、死んだことでおかしくなっちまったってことか」
 落ち葉の絨毯に包まれて眠る人間。その肉体からは、もう魂の残滓すら感じられなかった。こんな小さな森で迷ったとも思えない。野盗か獣にでも襲われたのだろうか。
 彼らがそれ以上近づいてこないのを見てか、光の精霊はすぅ、と光量を落とし、そのままふらふらと躯の上を彷徨っている。
 こんな光景を遠目にでも目撃してしまったのだ、村人が怯えて逃げ出したのも無理はない。しかし、無闇に近づかない限り何もしてこないのなら、さほど害はないと言えるだろう。
(じゃあ、アイシャは何を……?)
 首を捻るエスタスの隣で、それまで沈黙を守っていた魔術士がおもむろに口を開いた。
「……それで、どうするおつもりですか?」
 困惑気味の魔術士に、アイシャはぐっと拳を握り締め、そして空を見上げた。
「光を……空に還す」
 喉の奥から搾り出したような声に、もしかして、と呟くカイト。
「狂える精霊というのは、二度と元には……?」
『できないこともないんだけどね』
 聞き覚えのない声が響き渡る。そして、驚くカイトの目の前を一陣の風が駆け抜けた。
 ――否。それは、薄衣をなびかせて舞う少女。半透明のその姿は、しかしその場にいる誰の目にもはっきりと映っていた。
「これは、もしかして……風の乙女?!」
 興奮気味に宙を見つめるカイトに、少女は大きく頷いてみせる。その顔は、どこかアイシャに似ているような気がした。
「なんで、見えないはずの精霊の姿が……?」
 訝しがるエスタスに、風の乙女はすい、と広場の隅、一際立派な木を指し示す。それは一見してどこにでもある常緑樹のようだったが、その幹や枝、そして葉の一枚一枚に至るまでが淡い光を帯びていた。
『あれは《竜木》って言って、精霊の力を強く宿してるの。あの木のおかげでこの辺りには濃密な精霊力が満ちているから、本来なら見えないはずのわたし達の姿が見えちゃうってわけよ』
 随分と気さくな口調の精霊に面食らう二人の前で、風の乙女はそっと瞼を伏せた。
『《竜木》の力に、あの子は引き摺られてしまった。名を交わした精霊使いが死んだことが信じられなくて、半狂乱になったあの子の心の揺らぎを木が増幅させてしまった』
「名を交わした?」
「契約」
 首を捻るカイトに、言葉短く答えるアイシャ。
「名を以ってその自由を縛る。それが、名を交わすということ」
『またそんなこと言って……』
 腰に手をやる仕草をして、呆れた声を出す風の乙女。そんな彼女に、アイシャはくい、と広場の方を指差してみせる。
『ああ、いっけない』
 本来の目的を思い出して、光の乙女へと近づいていく少女。途端に、閃光が広場を埋め尽くした。
『チカヅカナイデ! アタシハ マッテルノ! コノヒトガ オキルノヲ マッテルノ! ジャマスルモノハ ユルサナイ!!』
『あなたの精霊使いは死んだの。本当は分かってるんでしょう?』
『チガウ! チガウ! チガウ!!!』
 光がますます強くなり、目をつぶる彼らの耳に、ただ精霊達の声だけが響き渡る。
『コノヒトハ ネムッテイル! アタシハ マッテル!』
『ちゃんと現実を見なさいよ! あなたの精霊使いは、もうとっくの昔に――』
『チガウ!』
『……まったく、もう。こっちの言うことなんて聞きゃしないんだから』
 ため息交じりの声が近づいてきて、それと同時に光が薄れていく。恐る恐る目を開けてみると、そこにはもうお手上げ、と言わんばかりに肩をすくめる風の乙女の姿があった。
 再び彷徨い出した光の精霊を横目で窺いながら、おずおずと口を開くカイト。
「……それで、元に戻せるんですか?」
 その言葉に、アイシャは首を横に振った。そうして、ふわりと傍らに降り立った風の乙女から目を背け、ぽつりと漏らす。
「私に出来るのは、消すことだけ」
『それが最善の策よ。だから、この人に来てもらったんでしょう?』
 風の乙女につつかれて、弾かれたように顔を上げる魔術士。
「そうでした。それでええと、私は一体何をすれば……?」
「え? 彼女から何も聞かされていないんですか?」
 呆れたように尋ねて来るカイトに、魔術士はいやぁ、と頭を掻く。
「私はただ、魔術士の力が必要だと言われて来ただけなもので、まさかこういうことになっているとは……こんなに精霊力が満ち溢れているとなると、魔術の効きも悪いでしょうし、あそこまで変質した精霊となると一筋縄では……」
 困ったように見つめてくる魔術士に、アイシャは少しだけ考える素振りをして、そして告げた。
「――闇を、作り出して欲しい。あとは私が」
「……なるほど。そういうことですか。……分かりました」
 合点がいったらしく、すぐさま呪文の詠唱に入る魔術士。そんな様子をしげしげと眺めているカイトの隣で、やることもなく広場を見回していたエスタスは、ふとこちらを見つめてくる冷ややかな眼差しに気づいた。
「あ、あの……オレ達は、その」
「下がって」
 慌てて弁解の言葉を紡ごうとするエスタスにそうとだけ言って、アイシャは再び光の精霊へと目を向ける。
「あのっ……」
 尚も何か言おうとするカイトをエスタスが押さえようとした時、魔術士の詠唱が終わった。
 次の瞬間、魔術士の目前にゆらり、と生じる闇。その漆黒の揺らめきを見た途端、光の乙女がその身を震わせた。
『ヤメテ! ヤメテ! ヤメテ!』
 突き刺さるような絶叫に顔をしかめながら、アイシャはゆっくりと唇を動かす。
『……汝、言霊に依りて具現せり。そは夜を織り成すもの、安らぎをもたらすもの……』
 《竜木》のせいだろうか、普段は不思議な響きの言葉にしか聞こえないアイシャの呪文が、明確な意味を伴って脳裏に響き渡る。
「これが、精霊語……」
 魂を揺さぶられるような感覚に、呆然と呟くカイト。そしてアイシャは、力強く最後の言葉を紡いだ。
『我、ここに導かん。そは――闇の貴公子!』
 弾ける闇。その中から現れたのは、少年の姿をした一人の精霊だった。
 黒い衣装に身を包んだ闇の精霊はすい、とアイシャの前に進み出ると、芝居がかった素振りで礼をしてみせる。
『ボクを呼んだのは君かい? かわいいお嬢さん』
「軽いな、おい……」
 おもわず呟くエスタスの声をすっぱり無視して、闇の精霊は尚もアイシャに呼びかけた。
『さて、真っ昼間にボクを呼び出して、一体何をして欲しいのかな?』
『……光を、消して』
 すぅ、と目を細める少年。その視線は、亡骸を守るように旋回を続ける光の乙女を捉えていた。
『ヤメテヤメテ! アタシハ マツノ! コノヒトガ オキルノヲ マッテルノ!』
 空虚な瞳で叫び続ける光の精霊に、少年はなるほど、と肩をすくめる。
『これはもう、どうしようもないね。――分かったよ』
 そう言うが早いか、ふわりと宙に浮かび上がった少年は、アイシャの髪を掠めるようにして一気に光の精霊へと飛んでいった。
『ヤメテ! アタシハ……』
『君はすでに壊れてしまっている。だから、消去するよ』
『イヤ! アタシハ コワレテナイ! アタシハ マッテル! アノヒトヲ……!!』
『彼はもう死んでる。死者を蘇らせることは出来ない。それは君が一番よく分かっていることだろう?』
『チガウ! チガウ!』
 そうして、激しくぶつかり合う光と闇。耳を劈く悲鳴と鳴り響き、閃光が広場を埋め尽くす。
 目の前で繰り広げられる攻防戦を、アイシャは瞬きもせずにじっと見つめていた。
 一瞬たりとも目を逸らさず、ただひたすらに光を、そして闇を見つめ続ける少女。その後方で、同じように戦いの様子を食い入るように眺めていたカイトが、ふと思い出したように呟く。
「……竜の息吹を浴びた木は、不思議な力をその身に宿す。幾千年もの時を見つめ続けるもの、その名を精霊樹。別名《竜木》……それじゃ、もしかして……」
 唐突に立ち上がり、走り出すカイト。
「おい、カイト!?」
「いけないっ!」
 エスタスの制止に半瞬遅れて、アイシャの叫びが響き渡る。
 え? と振り返ったカイトの背後で、閃光が弾けた。

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