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[1]


 月明かりの差し込む書斎に、二人分の影が揺れていた。
一つは書斎の壁に背を預け、そしてもう一つは古びた椅子に腰掛けて、どちらも物騒な話し合いには似つかわしくない笑顔を浮かべている。
 否。
 黒髪の神官は、不敵な笑みを。
 金髪の魔術士は、穏やかな微笑を。
 性質こそ違えど、その笑みの意味するものは同じだ。
 決して屈しない。決して負けないという、それは自信。過信ではなく、実力に裏づけされた想い。
「分かりました。それでは、決行の日を教えてください。それに合わせてもう一度こちらに伺いましょう」
「ああ、頼む。決行の日は……」
 暦に再び目をやるラウル。そこに描かれた月の満ち欠けに、ひょいと口の端を持ち上げて見せた。
「新月の夜、だな」
 歪んだ闇に堕ちた者との戦い。それを少しでも優位に進めるべくラウルがこの魔術士に頼んだのは、自分の姿に化けて、恐らくはラウルの出方を近くで監視しているだろう影の神殿の目を欺くこと。そして、彼とその仲間達を、監視の目を盗んで村の外に送り出すこと。その二つだった。
 どちらも、このリファにとっては大したことではないという。しかし魔術に詳しいものがその場にいたのなら、卒倒しかねない話だった。
 まず、一つ目に頼んだ変身術。これはそれほど難易度の高いものではないが、術者の熟練度によって維持出来る時間や変身の精度に差が出る。まして、たったの二度しか顔を合わせていない相手に変身することは難しい。それをリファは説明すらせず、ただ出来ますとだけ答えた。
 そして移動魔術。これはつい三百年ほど前にようやく生み出された、比較的新しい魔術の一つである。それまで禁忌とされていた空間関与の術を、安全性の高い術として完成させたのは、当時の『東の塔』三賢人の一人だったという。それ以降、更なる研究が進められ、今では高位の魔術士ならば誰でも使える程度に普及した。しかし、それも術者の練度によって移動距離、移動時間、はたまた移動させる人数や重量に差が出る。
 通常ならば、術者本人のみが移動するだけでもかなりの修行と魔力が必要になるこの術を、リファは十人程度なら問題なく、望みの場所まで送り届けることが出来る、と請け負ったのだ。
「……ところで、俺は一体どの位の報酬をあんたに約束すればいいのかな」
 話が一段落したところで、改めてラウルは尋ねた。リファはそれなりの対価をもらうと言っていた。それなのにその話を全くしてこない。
「前払いの方がいいだろう?無事に帰ってくる保証なんてどこにもないんだから」
「随分と弱気な発言ですね」
 くすりと笑うリファに、ラウルは肩をすくめてみせる。
「俺は自分の力がどの程度かくらい知ってるつもりだからな」
「……でも、あなたは負ける気なんてこれっぽっちもない」
 そうでしょう? と言いたげな顔に、勿論だと頷くラウル。
 影の神殿との対決は、命をかけたものとなるだろう。勿論負ける気などないが、楽に勝てる相手でもないと分かっている。まして相手は禁呪を使う者達。そして対するこちらは、寄せ集めの戦力でしかない。勝算があるとは言ったものの、苦戦を強いられることは容易に予想できた。
「こんな言い方は好きじゃないが、この命にかえても、あの巫女は倒してみせる。ただ、共倒れになっちまったら、あんたに報酬を払うことなんか出来ないからな」
 それじゃ困るだろ? と言いたげなラウルの瞳に、リファはそっと微笑を浮かべた。
「……あなたは、誠実な方ですね」
 茶化すわけでなく、真面目な顔で言ってくる魔術士に、ラウルは照れくささを隠してか、ふい、と視線をそらしてしまう。
「踏み倒していいんならいくらでも踏み倒すぞ。なにしろこっちは貧乏なんだからな」
「それは困ります」
 すました顔でそう言ったリファだったが、すぐにくすりと笑ってみせる。
「それなりの対価、と言いましたが、本当は別になんでもいいんです」
 それこそ花一輪でも構いません、と笑うリファに、呆れ顔を隠せないラウル。
「おいおい、そんなんいい加減な……」
「契約の形さえきちんとしていれば問題ないんです。それに、もともとこれはアルとユラから頼まれたことで、彼女達から報酬を約束されていますしね」
 一体どんな報酬なのだろう、と考えを巡らせたのが顔に出たのか、リファは
「彼女達の所蔵する蔵書の一部を読ませてもらう約束をしているんですよ」
 と答えてくれる。なるほど、魔術士といえば知識欲の塊、そういう報酬で充分というわけか。
「といっても、何も払わないであんたをこき使うのは気が引けるな。何か、欲しいもんとかないのか?」
「……そう、ですねえ。それでは……」
 月明かりの差し込む部屋に、金の髪がきらり、と静かな光を放つ。まるで月光を縒ったようなその髪をすい、と後ろに払って、リファはにっこりと言ってのけた。
「それでは……一晩、お付き合い願えますか」
 その言葉にラウルは一瞬目を見開いたが、すぐに苦笑いを浮かべて言ってやる。
「そいつぁ……随分と色っぽい話に聞こえるぜ?」
 少なくとも、年頃の男相手に言う台詞としては大分、艶めいたものの部類に入るだろう。しかも相手は類稀なる美貌の持ち主だ、こんなおいしい話、断る理由などどこにも見当たらない。
 しかし、リファがそんなつもりで言っているとは、ラウルもはなから思っていなかった。
「おや、これは失礼。そういうお付き合いでも楽しそうですが、残念ながら違います」
 読み通り、笑いを含んだ声であっさり否定してみせたリファは、そっと窓の向こうを伺う。
 煌々と輝く月。澄み切った冬空の彼方に、何を見ようとしているのか。
「……一緒に来て欲しいところがあるんです。そう……あの村へ」
 穏やかな、しかしどこか哀切を帯びた声に、ラウルはリファの顔を見上げる。
 月明かりに照らされた白皙の顔。まるで絵画から抜け出てきたかのように整った顔立ちはどこか寂しげで、大海を思わせる深く澄んだ双眸には、切なげな光が湛えられている。
 あの村。それは、ラウルがリファと初めて会ったあの廃村に他ならない。千年以上の時を経て今もあの地に存在する村。誰に知られることもなく、ただひそやかに朽ちていくだけの、忘れられた村。
「……分かった」
 理由も聞かず、ラウルはただそうとだけ答えた。
 ラウルの答えにリファは静かに頷くと、そっと右手を差し伸べる。その白い手に触れた瞬間、二人を黄金の光が包み込んだ。
 ハッと息を飲むラウルを見やって、リファはにっこりと笑う。
「さあ、行きますよ。ちゃんとつかまっていて下さい」
 そう言ってリファが左手の杖をとんっ、と突いた、次の瞬間。
 えもいわれぬ力の奔流が全身を包み、目の前が黄金色に染まる。
(うわっ……!!)
 全身の感覚が麻痺していく。意識さえも吹き飛ばされそうな金色の流れの中、ただ、つないだ手から伝わってくるリファの体温だけが、ラウルの意識をかろうじて繋ぎ止めていた。
「もうちょっとですからね、あと少しだけ我慢してください」
 そんな声が聞こえて、必死につないだ手に意識を集中させる。そうして、どれほどの時が過ぎたことだろう。
 不意に、輝きが消えた。急に目が覚めた時のような、あのひやっとした奇妙な感覚に襲われたかと思ったら、もう次の瞬間には感覚が戻っている。そして目の前には、暗闇の中に佇む金の髪の魔術士の姿。
 つないでいた手を離し、宝玉を宿した杖をひらり、と振って、リファは背後を示してみせた。
 月下に広がる、静寂の村。
「ルシャスの村へようこそ」
 そう言ってみせるリファの顔は、やはりどこか寂しげだった。

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