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[6]


 窓から飛び込んできた夕日の赤に、店主は目を瞬かせた。
「もうこんな時間か」
 呟いて、そろそろ賑わいを見せるだろう店内を何気なく見回すと、その片隅に立てかけられた一本の槍がふと目に止まる。
 もう五日ほど前になるだろうか。土鬼退治を依頼した冒険者三人組の一人、精霊使いだという少女が預けていった槍は、鮮やかな朱色の柄に色とりどりの羽飾りがあしらわれた、実に珍しい一品だった。一見した感じでは儀礼用かただの装飾品のようだが、その穂先は鋭い光を放ち、丹念に手入れをされている事が分かる。
 狭い洞窟内では、長い武器は役に立たない。そう言って、少女は槍を置いていった。そうしてそのまま帰ってこない。
 やれやれ、と頭を掻いて、店主は窓の向こうに視線を移した。村の入り口へと続く道の彼方には、彼らが目指した森が広がっている。
「あの二人も帰ってこないところを見ると、こりゃ何かあったか」
 三人組が戻ってこないのに業を煮やし、彼らよりは腕の立ちそうな二人に同じ依頼を任せたものの、その二人もまた出発から二日が経つというのに戻ってくる気配がない。とはいえ、彼らが出発して以降、畑を荒らす土鬼の出現はぴたりと止んでいた。という事は退治に成功したのだろうが、それでは何故、未だに帰ってこないのか。
 ―――と。
 窓の外、曲がりくねる道の向こうから近づいてくる人影に、彼は目を細めた。
「ようやくお帰りか」
 ゆっくりとこちらへ向かって歩いてくるその影を数えて、店主はくるり、と踵を返す。その足元で、にゃあんという鳴き声が響いた。
「おっと、あとは頼むぞ」
 すり寄ってきた猫にそう言いつけて、茶を淹れるために厨房へと引っ込む店主。店番を頼まれた店の看板猫はするりと台の上に登ると、出迎えは任せておけと言わんばかりに一声鳴いてみせた。


「それで一体、何と戦ってきたんだお前さん達は」
 茶を飲んでようやく一息ついた三人組に向かって、店主は呆れ返った顔で尋ねてきた。
 店主がそう聞きたくなるのも無理はない。店の片隅で思い思いに休んでいる三人の格好と来たら、とても土鬼とやりあっただけとは思えないようなものだったのだ。
 頭の先から足のつま先まで、全身見事なまでに土埃にまみれた三人。それだけならまだしも、三人揃って擦り傷やら引っかき傷やらをあちこちにこさえているとあっては、土鬼退治に行ったというよりは、野山を駆けずり回ってヤマアラシの巣穴でもつついた挙句、反撃されて逃げ帰ってきた子供のようだ。
「お前らじゃなかったら、店から叩き出してるところだぞ」
 すっかり汚れてしまった床に顔をしかめる店主に、神官がいやぁ、と苦笑を浮かべてみせる。
「それがもう、とんだ大冒険だったんですよ」

* * * * *

 複雑に入り組んだ洞窟の奥に、確かにその入り口はあった。
 地震による落盤で崩れたのだろう土壁に、ぽっかりと空いた大きな穴。その向こうには暗闇が広がっている。
「水音がしないか?」
 大人三人が横に並んでも悠々通れるようなその穴を覗き込んで、エスタスが首を傾げた。大分深い洞窟が続いているようで、松明をかざしても見えるのは通路のみ。その向こうから微かに響いてくるのは、紛れもなく水音だった。それも、滴り落ちているといった生易しいものではない。ごうごうと、まるで大きな川が流れるような轟きが伝わってくる。
「地下水脈か何かが通ってるんでしょう。ああ、それじゃさっきの水妖はその水脈に生息してるんですね、きっと」
 ようやく合点がいった、とばかりに頷くカイト。そしてその傍らで、少女に抱きかかえられた子狼がきょろきょろと、落ち着かない様子で辺りを見回している。
「この奥で間違いなさそうだな」
 エスタスの言葉に少女はこくりと頷くと、狼を抱えたままスタスタと穴に入っていった。
「わわ、待って下さいってばっ!」
「おい、灯り!」
 慌てて少女の後を追いかける二人。すぐに追いついてきた二人に、少女は振り返りもせずに告げる。
「いる」
「は?何がだ」
「いっぱい」
 そうとだけ答え、歩調を速める少女。そして現れた三叉路を、少女は迷わず右に進んだ。
「ちょっと待って下さいよ、どうしてそっちだって分かるんです?」
 慌てるカイトに、少女は肩をすくめてみせる。
「なんとなく」
 そんなあ、とぼやくカイトの肩を叩いて、エスタスは少女が抱えている子狼を示した。
「間違いないみたいだぜ」
 入り口からそわそわしていた子狼は今や、少女の腕から飛び出さんばかりだった。鼻を動かし、耳をピンと立て、少女が進む先をじっと凝視している。
「それじゃ、行きましょうか」
 そう言って歩き出したカイトは、いつの間にやら手帳と鉛筆をかばんにしまい込んでいた。おや、と目を見張るエスタスに気づいて、彼は肩をすくめてみせる。
「もう書いてる余裕がありませんよ。というより、ここから先は書く必要もないでしょう。この先にあるのは土狼の巣。本来なら、僕達が踏み入るべきではない場所なんですから」
「お前の口からそんな言葉が出るとはね」
 知識のためなら何でもしそうな幼馴染の、珍しくも真っ当な発言に、思わず混ぜっ返すエスタス。するとカイトはさも心外だ、と言わんばかりに頬を膨らませた。
「彼らの縄張りを荒らして、仕返しを食らうのはごめんですよ。そもそも、今回の事件はそれが発端なんでしょうからね」
 天災がもたらしたものとはいえ、本来ならば出会うはずのない者達が出会ってしまったのが事の始まり。狂ってしまった歯車を戻さない限り、この一件は解決しない。
「なにはともあれ、あのチビを……って、あれ?」
 見れば、少女の後姿は遥か彼方の闇に消えかけている。
「行きましょう、エスタス!」
「そうだな」
 苦笑を浮かべながら、エスタスはカイトと共に走り出した。
「おーい、待てって!」
「置いてかないで下さーい」


 いたたまれない、というのはまさにこういう状況なのだと、エスタスは今、まさに身をもって痛感していた。
 薄闇の中にぎらつく瞳。それが無数に、しかも一様にこちらに向けられている。辺りにこだまする低いうなり声は、明らかに敵意が込もっていた。
 崩れた入り口から進むこと約半刻。迷路のように入り組んだ通路の先に辿りついたのは、大聖堂もかくやと思わせる巨大な空洞だった。
 とうとうと流れる澄んだ水が落差から落ちるさまは、まるで滝のよう。そしてその滝の飛沫は遥か頭上、崩れた天井から差し込む光を反射して、まるで硝子細工の窓を透かしたかのように七色に光り輝いていた。
 辺りには乳白色の岩が列柱のごとく連なり、奥まった場所にはなにやら光り輝く巨大な岩が鎮座している。それはまるで、異形の神を崇める祭壇のように見えた。
 
ここは聖域なのだ。何人たりとも侵してはならない、神聖なる場所。
 そして聖域は、大いなる力を持った守護者によって守られているのが世の常。彼ら三人の前に立ちふさがっているのが、まさにそれだ。
「大きいですねえ」
 呆けたようなカイトの声。さしものカイトも、この無言の圧力の前ではいつものようにはしゃぐ事はなかった。ただそうとだけ感想を述べて、目の前に輝く金色の瞳を見つめている。
 そう、それは巨大な獣だった。普通の狼の優に三倍はありそうな、黒曜石のように艶やかな毛並みの狼。それは、大地の力を宿した妖獣、土狼に他ならなかった。その輝く金色の双眸に見つめられると、まるで心の奥底まで見透かされているようで、どうにもいたたまれない。できる事なら今すぐに回れ右してこの場から立ち去りたいところだが、巨大な狼の後ろに居並ぶ無数の狼達がそれを許してはくれそうになかった。
 両者の距離は、すでにあと数歩に迫っている。無意識に体に力が入り、剣にかけられた手が汗ばむのが自分でも分かった。
(くっ……)
 そんなエスタスにはお構いなしに、少女はひょい、と一歩踏み出した。

「子供。連れてきた」
 体を屈め、抱きかかえていた子狼をそっと地面へ降ろす。降ろされた子狼は
足を引きずりながらも一目散に狼のもとへと走っていった。
 駆け寄ってきた我が子を見て、狼は金色の目を細める。そうして足にじゃれ付いてくる子狼をそっと舐めてやっていた狼だったが、不意に首をもたげ、光り輝く瞳を三人に向けてきた。
「ひっ……」
 思わずあとずさるカイトの腕を掴んで、エスタスは真っ向から視線に向かい合う。少女もまた、何の気負いもなく狼の瞳を見つめ返していた。
 そして。
 彼らの脳裏に、その『声』は響いてきた。
 ――――――!
「え?」
 厳密に言うならば、それは声ではなかった。純粋なる思惟。言葉なき言葉。言語ですらないそれは、鮮烈な映像を伴って頭の中に直接伝わってくる。
 それは感謝の意を示すものだった。我が子を連れ戻してくれた事に対する、心からの感謝。そして、子の無事な姿に安堵する気持ちまでもが伝わってきて、戸惑いながらエスタスは少女を見る。
「今のは……」
「この狼」
 端的に答えを返して、狼へと向き直る少女。
「私達はただ、なすべきことをしただけ」
 少女の言葉に、狼は穏やかな瞳で小さく尻尾を振る。そして再び、声なき声で語りかけてきた。
 ―――――
 今度はとある情景が脳裏に浮かび上がってくる。薄暗い洞窟の中で穏やかに暮らす土狼達。その長であるこの狼は滝のそばに身を横たえ、生まれたばかりの子狼が尻尾にじゃれ付いてくるのを、優しい眼差しで見つめている。
 そんなひとときを打ち破ったのは、突如襲ってきた激しい地震。天井が崩れ、地面には亀裂が走り、そして通路の一部が崩落した事で、外界と繋がってしまった聖地。
 そして、その外界からやってきた何者かが、生まれたばかりの子供をさらっていったのだ。
「私達じゃない」
 少女の言葉に、狼は頷くような仕草をする。
 ――――
 さらわれた子狼を連れてやってきた人間に対し、一族のものが早合点してしまった。その事に対する謝罪の念と、特に傷を負ったエスタスに対する労わりの気持ちが伝わってきて、エスタスは頬を掻いた。
「いや、大した傷でもないし、気にするなよ。それにこれは水妖のやったことで、あんた達じゃない」
 その言葉に反応したのか、彼らの後ろをとうとうと流れる地下水から、透き通った体の獣がするり、と姿を現した。驚くエスタス達の前まで音もなくやってきた水妖は、狼の傍らにひたり、と座り込む。
 一瞬だけそちらに目をやって、狼は再びエスタスへと瞳を向けてきた。途端に流れ込んでくる情景は、薄暗い地下空洞の中、光り輝く巨石を守る土狼と、それを見守る水妖の姿。地下水の中からゆらり、と姿を現し、土狼の間をすり抜けて巨石の前へとかしずくその姿は、まるで王の前に膝を折る騎士のようでもあり、神の前に頭を垂れる敬虔な信徒のようでもあった。
「なるほど。この水妖もまた、あなた方と同じくこの地を守る役割を担っているわけですか」
 腕組みなどして頷いたカイトの瞳がきらり、と光るのを、エスタスは見逃さなかった。
「しかし、そこまでして守るものとは何なんです?」
 興味津々なカイトの問いかけ。やれやれ。さっきは「踏み入るべきではない」などと言っておきながら、結局は知識欲が勝ってしまったようだ。
 当然、狼が答えるわけはない。と思ったら、意外にも狼はひょい、と顔をもたげ、鼻先で洞窟の奥を示してみせた。
 ―――――!
 伝わってきたのは、光り輝く岩の姿。その奥から伝わってくるのは不規則な振動と、そして……
「寝息?」
 少女の言葉に狼は肯定の思惟を返す。そう、それは確かに「寝息」だった。規則正しい呼吸音。しかし伝わってくるその音は、半端ではなく大きい。一体どれほどの生き物がこんな寝息を立てるのか。
「これは……!」
 驚いたような顔をして呟くカイト。そして少女もまた、寝息の主に思い当たるものがあったのか、ぽんと手を打つ。
「なんなんだよ」
 一人蚊帳の外に置かれたエスタスに、カイトが得意げな顔をして口を開きかけた、まさにその瞬間。
 すんなりとした褐色の手が、カイトの口をぱしっとふさいだ。
「??」
 目を白黒させるカイトを尻目に、少女は首だけで狼を振り返り、その前足にじゃれつく子狼に一瞬だけ目を細めてから、きっぱりと告げる。
「それじゃ」
 そう言って、少女はカイトから手を離すと、くるりと踵を返した。そして来た時と同様にスタスタと歩き出す少女を、慌ててカイトが引き止める。
「ち、ちょっと待って下さいよ。もう帰っちゃうんですか?」
「用事は済んだ」
 そう答えた少女は、不満げなカイトの横をすり抜けて歩いていく。そんな少女に、エスタスも無言で従った。
「そんなあ、折角……」
 未練がましく狼達を見つめているカイトに、エスタスは数歩進んだところで足を止め、肩をすくめてみせる。
「彼女の言うとおりだ。これ以上、オレ達がここに留まる理由は何もない」
「……分かりましたよ」
 渋々歩き出すカイト。そうして去っていく人間達の背中を、土狼達はただ静かに見送っていた。そんな中、子狼は寂しそうに一声鳴いて、彼らを追いかけようとする。そんな子狼の首根っこを水妖がそっとくわえ、親元へと引き戻した。
 痛いほどの視線に見送られながら来た道を引き返していく三人。大空洞を抜け、エスタスがようやっと立てるほどの高さしかない通路へと出た途端に、先頭を歩いていた少女がふと立ち止まった。
「どうしました?」
「……あとで」
 ただそうとだけ告げて、黙々と通路を進む少女。何のことか分からなかったが、ここはひとまず彼女に従う事にして、無事もとの洞窟まで戻ってきたところで、ようやく少女は足を止めた。
「ふう、疲れたぁ。少し休憩にしましょうよ。もう足が痛くって……」
 情けない声を上げてその場に腰を下ろすカイトを無表情に見やって、少女は通ってきた通路に向き直る。そして、小さな声で何か呪文のような言葉を紡ぎ出した。
「なんだ?」
 首を傾げたエスタスは、次の瞬間とんでもないものを目にすることになる。
「え?……ぅわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 轟音と共に降り注ぐ、土砂、土砂、土砂―――。
 それは彼らが通ってきた通路を瞬く間に埋め尽くし、それだけでは収まらずに彼らのいる通路まで雪崩れてきた。
「うわああっ!に、逃げましょう!」
 慌てて立ち上がり、走り出すカイト。エスタスと、そして雪崩れてくる土砂を見つめて眉根を寄せていた少女もまた、カイトを追って一目散に出口を目指した。
 その間にも、次第に速度を上げて迫ってくる土砂。それはまるで意志があるかのように、執拗に彼らを追いかけて来る。
「おいっ!何やらかしたんだ!」
 轟音に負けじと怒鳴るエスタスに、少女はしれっと
「聖域への入り口を封じようとした」
 と答えた。その言葉に、カイトの顔が歪む。
「封じようとした、っていうことは、失敗したんですか?これ」
「どう見てもそうだろうがっ!」
 入り口を封じるだけなら、落盤で崩れ落ちた入り口だけを塞げば済む事だ。こんな、洞窟全体を埋め尽くさんばかりの土砂を降らせる必要などどこにもない。
「頼み方を間違えた」
 あっさりとそう答え、更に足を速める少女。迫ってくる土砂の勢いは、未だ衰えない。
「それなら、言ってくれれば僕がやったのに〜!」
「お前がやっても結果は同じだろうよ、どうせ」
「そ、そんなあ」
 情けない声を上げながらも必死で走るカイト。次第に遅れがちになるその腕を引っ張りながら、エスタスも懸命に足を動かす。
 そうしてどの位走ったのだろうか、三人の前にようやく、出口の光が見え始めた。
 最後の一息、とばかりに加速する三人。そうして、彼らが洞窟から飛び出した次の瞬間、背後から迫っていた轟音もぴたりとおさまった。
「……助かったぁ……」
 地面にひっくり返り、ぜいぜいと息をしながら呟くカイト。そのそばで少女もまた、胸に手を当てて呼吸を整えている。
「ふう……」
 エスタスもまた、すっかり上がってしまった息をゆっくり整えながら、土砂で埋まった洞窟を振り返っていた。
 入り口から奥まで、見事に土砂で埋め尽くされてしまっただろう洞窟。まあ、ここを住処にしていた土鬼達のほとんどは土狼達や少女の仲間によって倒されている事だし、これで良かったのかもしれない。
 そんな事を考えていた矢先、茂みが揺れるような音が聞こえた気がして、エスタスは何気なく音のした方を振り返り―――。
「げっ……」
 蛙を踏み潰したような声に、寝転んだままのカイトが首を傾げる。
「どうしまし……うわっ!」
「あ」
 慌てて飛び起きるカイト。無表情に辺りを見回す少女。そして、エスタスはやれやれ、と腰の剣を引き抜き、構えてみせる。
 辺りを取り囲むのは、人間の子供ほどしかない醜悪な生き物の群れ。そう、洞窟から追い出されたであろう土鬼の群れだ。木立や茂みの中にもまだ潜んでいる者を入れれば、ざっと十五、六匹はいるのではないだろうか。
「まだこんなにいたのか、こいつら」
「まあ、あれだけ大きな洞窟に巣食ってたんですから、大所帯でもおかしくないですね」
 呑気なことを言いつつ、さり気なくエスタスの後ろに逃げ込むカイト。
「おいこら」
「僕は頭脳労働担当なんですから、任せましたよエスタス」
「こんな団体さんを一人でか?そいつはちょっと」
 難しい注文だな、という言葉を飲み込んで、エスタスは切っ先をつい、と近くの土鬼に向ける。
 一瞬の静寂。お互いが動く機会を伺っているその最中に、少女が唐突に口を開いた。
 形の良い唇が紡ぐのは、先ほども聞いた不思議な言葉。風の唸りにも、また川のせせらぎにも似た、奇妙に耳の奥に残る音が辺りに響き渡る。
 エスタスも、そして土鬼もが、思わずその声に聞き入った、その次の瞬間。
 風が、吹き荒れた。
「うわぁっ?!」
 木立が煽られ、木の葉が千切れ飛ぶ。砂埃が舞い上がり、小石がつぶての様に土鬼達に襲い掛かった。彼らに動揺が走ったその瞬間を見逃すエスタスではない。
「行くぞ!」
 大地を蹴り、剣を振りかざすエスタス。その頬にふと鋭い痛みが襲ったが、今はそんなことに構ってはいられなかった。
 あっという間に二匹の土鬼を叩き切り、次なる相手を求めて視線を巡らせる。その間にも少女が巻き起こした風は吹き荒れ、土鬼達を翻弄し続けていた。
 いや。それだけではない。
「うわあ、なんですかこの風っ。いたたっ」
 頭を抱えて地面に突っ伏すカイト。一瞬遅れた茶色の髪の毛がふつり、と風の中で千切れ、空へと舞い上がった。
 その隣で立ち尽くしている少女もまた、髪に挿していた鳥の羽が途中からなくなっており、その外套にも数箇所、鋭利な刃物で切られたかのような切れ目が出来ていた。
 おかしい、と思いながら、何気なく頬に手をやる。そうして、何かぬるっとした感触をそこに覚えたエスタスは、手についた血を見て目を真ん丸くした。
「げっ、切れてたのか」
 そう気づいたところで改めて辺りを見回すと、吹き荒れる風に耳障りな悲鳴を上げる土鬼達の体にもまた、無数の切り傷が見てとれた。風が吹くたびにそれは増えていき、辺りに血の飛沫が飛び散る。
「おい、この風っ!」
 慌てて少女を振り返ると、少女はひょい、と肩をすくめて答えた。
「頼み方を間違えた」
「またかっ!!」
 思わず怒鳴るエスタス。その後ろでは、地面からそろそろと顔を上げたカイトが、何やら思いつめたような表情でぶつぶと呟いている。
「ん?」
 意味こそ聞き取れないものの、何かいやな予感がして振り返るエスタス。その瞬間、カイトは妙にすがすがしい顔で最後の一言を放っていた。
「さあ、いきますよぉっ!」
 次の瞬間、大地を割って姿を現したのは、鋭いとげをもった茨。エスタス達を囲むように出現した茨は、急速にその腕を伸ばして土鬼達に絡みつき、その自由を奪う。もがけばもがくだけ茨のとげが突き刺さり、あっという間に数匹が身動きのとれない状態に追い込まれた。
「上出来だ!」
 足元からは絡みつく茨、空からは見えざる風の刃。すっかり恐慌状態に陥った土鬼達を、エスタスが一匹、また一匹と仕留めていく。
 そうして辺りがようやく静かになった時、辺りはすっかりその様相を変えていた。木々はその葉を散らし、大地には茨がのたくり、一体ここで何があったのか訳がわからない状態になっている。
「やり過ぎ」
 虚空に向かって、少々怒ったような声を出す少女に、そよ風がそっと三人の周りを舞った。先ほどとは打って変わって穏やかな風に髪を揺すられて、エスタスは苦笑をもらす。
「確かに、ちょっとやり過ぎだな。でもまあ、助かったよ」
 言いながら、カイトが起き上がるのに手を貸してやる。やれやれ、と埃まみれの神官衣を叩きながら立ち上がったカイトは、土で汚れた顔をぐい、と拳で拭いながら、にっこりと笑ってきた。
「ほら、僕だって役に立つでしょう?」
 まあな、と答えかけて、エスタスの顔が歪んだ。
「どうしました?」
 首を傾げるカイトの背後でうごめくのは、敵を無力化して役目を終えたはずの、茨―――。
「うわぁっ!なんでまだ動いてるんですかあっ!」
 慌てて逃げ出すカイトを、茨はその緑の腕をひゅん、と伸ばして追いかけていく。その間にも、別の茨がエスタスや少女にまで迫ってきた。
「あほー!やっぱり失敗してたな、このすっとこどっこい!」
「……ふう」
「そんなぁ〜っ!」
 かくして、二回戦はカイトの涙声と共に幕を開けた。

* * * * *

 こみ上げてくる笑いをかみ殺して、店主は憮然とした顔の神官を盗み見る。
 長い話を終えたカイトは、最後のくだりでわざと面白おかしく茶々を入れてきたエスタスを睨みつけながら、必死に抗議をしていた。
「僕だって失敗したくてやったんじゃないんですから、そんなに言うことないじゃないですかぁ」
「当たり前だろ。わざとやったんだったら張り倒してるところだ。水妖より手強かったんだからな、あの茨」
 それはまさに不毛な戦いだった。絡みつく茨を切っては捨て切っては捨て、それでも続々と地面から生えてくる茨に、最後には少女が大地の精霊に働きかけて茨を土中深くに埋め、ようやく事なきを得たのである。おかげで余計な体力を消費してしまい、森の中で一晩明かす羽目になった。夜が明けてからは念のため森の中を見回って土鬼の生き残りがいない事を確認し、夕方になってようやく村へ帰りついたわけだ。
「でも、何とかなってよかったですよ。ほら、終わりよければ全てよしって言うじゃないですか」
 うまく話をまとめようとするカイトに苦笑しつつ、ふとエスタスは思い出したように店主へと向き直った。
「そうだ、親父さん。土狼のことは、出来れば村の人達には言わないでおいて欲しいんだ」
 外界から隔絶された聖域で、ひっそりと暮らしていた土狼達。少女のおかげで再び閉ざされた地下空洞で、彼らはこれからも奥に眠る『何か』を守って暮らしていくのだろう。
 エスタスの真摯な瞳に、店主は真面目な顔で応える。
「ああ。余計な事を言って、村人をいたずらに怯えさせる事はねえ。それにその洞窟、土砂で埋まっちまったんだろ?ならそいつらが今後、人里まで出てくることもないだろうしな」
 しかし、その土狼達が守っているものってのは何だったんだろうな? と首を傾げている店主に、カイトはにやり、と笑ってみせた。
「まあ、憶測にしか過ぎませんけどね。多分、今この辺りを襲っている地震の根源がそれなんだと思います。ほら、確かこの地方には、ある伝承が伝わってましたよね? あれですよ、あれ」
 カイトにしては珍しい、遠まわしな物言い。さっぱり意味が分からないエスタスだったが、言われた店主の方は目を細め、ほぉ、と呟いた。
「……そいつぁ、ますます黙っておいた方がよさそうだな」
「ええ。それにきっと、しばらくしたら地震も治まるんじゃないかと思いますよ」
「それはありがたいこった」
 訳知り顔で話をする二人。実際、二月ほど経った後に地震はすっかり治まり、人々は安堵の息を漏らすことになる。その後、付近一帯は自然の恵みに溢れ、やがて人々の間にはとある噂が流れた。曰く、『大地の竜が目を覚ましたのだ』と。
 それは遠い昔からこの地方に伝わる、眠れる竜の伝説。太古の昔、傷ついた竜がこの地へと降り立ち、深き眠りについた。そのため辺りは不毛の大地と化し、生き物達は僅かな土地にしがみついて生きる事となった。
 しかし、竜が目覚める時、枯れた大地は肥沃の土地へと生まれ変わり、永久の恵みがこの地にもたらされるのだ、と―――。
 そんな話を、この土地の者でもないエスタスが知るはずもない。一人頭を捻る彼に、店主は懐から取り出した小袋を無造作に放リ投げる。
「わっ。なんだよ?」
 咄嗟に片手で受け止めると、金属が触れ合う音とずっしりとした重みが手のひらに伝わってきた。
「約束の報酬だ」
「報酬って……随分多くないか、これ」
 小さな麻袋をつまみ上げて首を傾げるエスタス。重さからして、恐らくは当初の二倍はあろうかという成功報酬に、店主は豪快に笑う。
「なに、土鬼退治のところを、水妖やら土狼やらの相手をさせちまったんだからな。……大丈夫だ、村人には言わないさ。その金も半分は俺のへそくりだ。ほれ、感謝の気持ちってやつだな」
 遠慮なく受け取ってくれと言われて、思わず笑みがこぼれる。これで当分は路銀の心配をしなくて済みそうだ。
「これで旅が続けられますね」
 嬉しそうなカイトに頷きながら、袋を開ける。予想通りかなりの枚数が詰め込まれた小袋から金貨を取り出すと、エスタスは机の上でそれを分配し始めた。まずは当面の生活費その他を差し引いて、残った金額はきっちり等分して個人の取り分とするのが彼らのやり方だ。そうして三等分された金貨を小袋に戻し、エスタスは少し離れた席でぼんやり外を眺めていた少女へと放った。
 突然目の前に降ってきた小袋に、きょとんとする少女。不思議そうに見上げてきた彼女に、エスタスは笑って
「君の分だ」
 と答える。途端に首を傾げ、少女は小袋をそっとつまみ上げた。
「私はいらない」
 袋を返そうとする少女に、カイトが首を横に振る。
「三人でやり遂げた仕事なんだから、報酬だって三人で分けるのが筋ってものですよ」
「そうそう。大体、カイトより君の方が働いてたしな。三等分じゃ割に合わないだろうけど、まあそこは勘弁してくれよ」
 相手が若い女性だからいい格好をしようとしているわけでも、また仲間に見捨てられた少女を憐れんでいる訳でもなかった。一時的とはいえ仲間として共に依頼を成し遂げた彼女を一人の「冒険者」と認めたからこそ、二人は報酬を分け合おうと提案する。
「受け取って下さい。ね?」
「もとは君達が受け取るはずだった報酬なんだからな。遠慮する事はないさ」
 そう言ってくる二人の顔、そしてさり気なくこちらの様子を見守っている店主の顔を見回して、ようやく少女は頷いた。ほんのちょっとだけ嬉しそうに頬を緩めて、渡された小袋をぎゅっと握り締める。
「分かった」
 少女がようやく報酬を受け取ったので、エスタスとカイトは小さく笑いあって、それぞれの取り分を財布にしまい込む。そして夕飯の注文でもしようか、と口を開きかけた矢先に、目の前にあつあつの食事が載った皿が差し出された。
「腹減っただろう? 大したもんは出せねえが、たんと食っとくれ」
 そう言って並べられた皿の数々に、思わず喉を鳴らす。香草を詰めて焼かれた鶏肉、野菜と腸詰の煮込み、焼きたてのパンに酢漬けの胡瓜、そして極めつけは、この地方名産の黒麦酒。
「さあ、お嬢ちゃんもこっち来て食いな。なに、俺の奢りだ」
 器用に片目をつむってみせる店主に、少女は素直に頷いて二人の隣に腰掛ける。そして猛然と食事を詰め込み始めた彼らの横で、彼女もまた食事を口に運んでいった。
 次第に店も混んできて、彼らが食事を終える頃には、店内は一日の仕事を終えた村人達でごった返していた。そんな彼らに店主が土鬼が退治された事を告げると、村人達はエスタス達を褒め称え、はたまた泥だらけの彼らを見て随分手間取ったんだな、などと揶揄し、あちこちで杯がぶつかって白い泡がこぼれた。
 畑を荒らす土鬼が退治されたとあって、いつも以上に盛り上がる店内。そんな片隅で、動けなくなるほど夕食を腹に収め、くつろいでいたエスタス達のもとに、ようやく注文が一段落して手が空いたらしい店主がやってきた。そんな彼の手には一本の槍が握られている。
「ほらよ、お嬢ちゃん」
 差し出された槍を受け取って、少女はありがとう、と呟く。先ほどから村人に勧められるまま、かなりの酒を煽っていたはずだったが、彼女は顔色一つ変えていなかった。酒にめっぽう弱いカイトなどは一口の麦酒でひっくり返っているというのに、少女は相変わらずの無表情で、それでもどこか嬉しそうに槍の柄をそっと撫でる。
「それにしても、お嬢ちゃんを置き去りにしてったあの二人はとんでもない奴らだなあ」
 冒険者の風上にも置けない野郎どもだ、と憤慨する店主に、同感だと肩をすくめるエスタス。その二人組は未だに帰ってこないというが、恐らくはそのまま別の場所へ向かったのだろう。仲間を見捨てて逃げてきて、おめおめとここに顔を出せるほど面の皮が厚い連中ではなかったらしい。
「どういう仲間なのかは知らないがよ、あんなのとつるんでたらいい事ないぜ?  この際……」
「仲間じゃない」
 きっぱりと告げる少女に、店主だけでなくエスタスも思わず目を丸くした。そんな二人に少女は続ける。
「頼まれて、手を貸していただけ」
 少女が彼らと知り合ったのはつい数日前。街道を歩いている途中に、強引に誘われて行動を共にしていたという。そこまでして仲間に引き入れておきながら、いざという時に見捨てていくとは、ほとほと呆れた連中である。
「じゃあ、これからどうするんです?」
 唐突に上がったカイトの声に、エスタスはぎょっとして横を見た。そこには、つい先ほどまで麦酒に酔って机に突っ伏していたはずのカイトが、すっかりいつもの顔に戻って少女を見つめている。
 そんな問いかけに、少女は答えようとはしなかった。いつの間にか空になっていた麦酒の杯をとん、と机に置き、すいと立ち上がる。
「あ、あの……?」
「寝る」
 そうとだけ言って、スタスタと食堂を出て行く少女。遠ざかる背中を見つめながら、カイトは小さくため息をついた。
「悪いこと聞いちゃいましたかね?」
「さあな。まあ、彼女にも彼女なりの事情ってもんがあるんだろうし」
 そう答えて、少しだけ残っていた麦酒をぐい、と飲み干す。そうして、ほどよく酔いが回った頭で椅子を立つと、傍らに立てかけておいた剣と荷物を担ぎ上げた。
「今日は疲れた。オレ達もそろそろ休もうぜ」
「そうですねえ。僕、足が痛くて足が痛くて」
 立ち上がった二人を見て、店主がすかさず鍵を放ってくる。
「前と同じ部屋だ。風呂も使えるから、ゆっくり休んでくれ」
「ありがとな、親父さん」
 ぱし、と鍵を空中で受け止めて、エスタスはカイトと共に食堂を後にした。


 流石に疲れていたのだろう。二人が目を覚ましたのは昼近くになってからだった。
 窓から漏れてくる光の眩しさにようやっとエスタスが起き出して、隣の寝台ですやすやと眠っているカイトを叩き起こす。そうして旅装束を整えた二人が階段を下りていくと、ちょうど食堂に続く扉から出てきた店主と出くわした。ごつい体躯には似合わない首飾りが、窓から差し込む光を反射してきらりと光る。
「よお、ようやく出発か」
 二人を認めて声をかけてくる店主に、エスタスはああ、と頷いた。
「世話になったな、親父さん」
 部屋の鍵を差し出そうとするエスタスに、店主はちょっと待ってな、と食堂へ引き返していく。そうしてすぐに戻ってきた彼の手には、小さな籠が握られていた。
 首を傾げるエスタスの手から鍵をつまみ上げ、空になったその手に籠を握らせて、店主は片目をつむってみせる。
「昼飯だ」
「親父さん……」
「今から出れば、夕暮れには次の町に着くだろう。あの街道も最近は何かと物騒だからな。気をつけていきな」
「はい。ありがとうございます。親父さんも、お元気で」
「それじゃあ、またいつか」
 そう言って歩き出す二人を、店主は懐かしいものを見るような瞳で見送っていた。
 冒険者達は「さよなら」を言わない。たとえ今生の別れと知っていても、彼らは決別の言葉を口にしない。
 夢を追いかける彼らは、絶望の先に希望を見出す。「絶対」などという言葉が通用しない世界を、彼らは生き続ける。
 だから、さよならは言わない。零に限りなく近い可能性であっても、彼らはそれを信じて突き進むから。
 そして、偶然が積み重なった未来、再会の時が巡ってきたら、彼らはにやりと笑ってこう言ってくるのだ。
「ほら、また会えたろ?」と―――。
「元気でやれよ、ひよっこども」
 首飾りを弄びながら呟いた店主は、階段から聞こえてきたひそやかな足音に、ひょい、と視線を上げた。
「おお、お嬢ちゃんも出発するのか?」
 鮮やかな外套を身にまとい、手には槍。戦いの中で駄目にしてしまった髪飾りは、違う色の羽根に替わっていた。小さな荷物を手に、少女は無言で鍵を差し出してくる。
「ほいよ。お前さんにも弁当だ」
 少女にも小さな籠を手渡して、店主はふと彼女が自分の胸元を見つめている事に気づいた。正しくは、そこに揺れる首飾りを、だ。
「なんだ? これが珍しいか?」
 下げていた首飾りを示して尋ねると、少女は小さく頷く。
「あの二人と同じ」
「そうかい?」
 飾りを持ち上げて、店主は目を細める。そこに刻まれているのは剣と水晶を象った紋章。長い年月の末に錆びつき、すっかり磨り減っているものの、見るものが見れば一目でそれが何を意味するものか分かるだろう。
 それはライール山脈の向こう、小さくも偉大なる王国に生まれ育った者達の誇り。とうの昔に廃業し、こんなところで店の親父に収まってはいるものの、心は今でも夢を追いかける大馬鹿者のままだ。だからこそ、『後輩』に対してはついお節介を焼いてしまう。
「なあ、お嬢ちゃん。もし新しく仲間を探すなら、あいつらと組んでみるのもいいかもしれないぜ?」
 そんな言葉に、すりよってきた猫の頭を撫でていた少女は小さく首を傾げる。小鳥のような仕草に冗談だ、と笑ってみせてから、店主は視線を逸らして続けた。
「仲間を見捨てていくような奴に冒険者を名乗る資格はない。だが、悲しいかなそんなクズ野郎が横行してるのが現状だ。でもな、あいつらは本物だ。いや、まだひよっこだからな。これから時間をかけて、きっと本物になるさ。その証拠に、あいつらはお前さんを見捨てなかったろう?」
 どうだい、と問いかける店主に、しかし少女は何も言わずに踵を返す。その様子に苦笑いを浮かべて店主は肩をすくめた。
「ま、あんたの道はあんたが決めるもんだ。元気でな」
「それじゃ」
 振り返らずに答えて、少女は扉の向こうに消えていく。その先に広がるのは世界。足元に伸びるのは、明日へと続く道だ。しかしてその道は険しく、時に危険を伴う。一人では乗り越えられない壁にぶつかる事もあろう。
 そんな時、共に歩む者がいるだけで、不思議と足取りが軽くなる。行く手を遮る山や谷すらも、難なく越えられる。
 一人で出来ないのなら二人で。二人でも駄目なら三人で。
 力を合わせれば、どんな困難にも立ち向かっていけるから。
「仲間ってのは、いいもんだ」
 小さくなっていく後姿にそう呟いて、店主は食堂へと消えていく。
 そんな言葉に答えるかのように、少女の羽飾りがひらり、と揺れたのを、猫だけが目ざとく見つけてにゃあ、と鳴いた。

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