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[1]


「!!」
 寝台から跳ね起きて、ようやくそれが夢だと気づく。
「夢、か……」
 十年以上経った今も繰り返し夢に見る、それは彼にとって最低最悪の思い出。
「くそ、縁起の悪い……」
 夢の残滓を払うように小さく頭を振りながら、寝台を抜け出る。ぼさぼさの髪をかき上げながら窓に向かったその時、不意に扉を叩く音が響いた。
「ラウル、起きていますか?」
「―――なんだ、オーロか。起きてるよ」
 聞き慣れた声に、気だるげな答えを返す。律儀にも返事を待って扉を開けたのは案の定、顔馴染みの侍祭だった。
 扉の隙間から顔を覗かせて、侍祭はまだ眠そうな様子のラウルにやれやれ、と肩をすくめてみせる。
「その分だと、また夜中に抜け出しましたね? まったく懲りないんだから」
「なに、性分って奴さ。今度はあんたも一緒に行くか? オーロ」
 悪びれずに答えるラウル。自室での謹慎を申し付けられているにも関わらず、ラウルは巧みに監視の目を掻い潜り、部屋を抜け出しては街へ繰り出している。いつもなら小言の一つも言ってやるところだが、今回の謹慎はオーロにとっても納得の行かないものだったから、彼はそれ以上言及せずにそそくさと本題に移った。
「神殿長がお呼びですよ。急いで支度して下さい」
「くそじじいが?」
 その物言いに苦笑するオーロ。ラウルが本神殿長の養子となってから早十数年。しかしその間、彼が本神殿長を「父」と呼んだことは一度もない。
「ようやく謹慎を解いてくれる気にでもなったのか?」
「さあ、そこまでは……。とにかく、急いで下さい」
「分かったよ」
 急きたてるかつての教育役に手を振って、ラウルはのろのろと着替えを始めた。

* * * * *

「ようやく来たか」
 やってきた息子の姿に、本神殿長ダリス=エバストは手にしていた書類をぱさり、と置いた。
「こんな早くに呼び出す方がどうかしてる」
 欠伸交じりに答えるラウルに、呆れた奴だとばかりに溜め息をつく。
「……もうすぐ昼だぞ。まあいい。いい知らせと悪い知らせがある。どちらを先に聞きたい」
 にこりともせずに尋ねるダリス。いかにも彼らしい言い回しに、ラウルは躊躇せずに答えた。
「いい知らせかな」
「そうか」
 呟いて、ダリスはおもむろに机の引き出しを開けた。途端に溢れ出てくる書類の数々に、思わず顔をしかめるラウル。この養父と来たら、見かけによらず整理整頓が大の苦手と来ている。お陰で彼の机は他者が迂闊に触ることも出来ないほど荒れ果て、重要な書類を紛失させることもしばしばだ。
「いい加減整理しろよ」
「なに、十分片付いているさ」
 息子のぼやきを受け流して、尚も引き出しをかき回しながら、彼は独り言のように呟いた。
「―――プリムラ殿下の輿入れが決まったそうだ」
「は?」
 一瞬呆気に取られたものの、すぐに気のない素振りで相槌を返す。
「へぇ……あの跳ねっ返りがね」
「ああ。殿下も十七歳だ、おかしくはなかろう……ああ、これだ」
 ようやく目当てのものを探し当てて、ダリスは一通の手紙を差し出した。
「殿下から預かってきた」
 その言葉に鼻を鳴らし、ひったくるようにして手紙を受け取る。封蝋を引きちぎって中を覗けば、そこには一枚の手紙が収められていた。
 透かしの入った純白の紙に綴られていたのは、たった数行の文章。流麗な文字を目で追うラウルに、ダリスはさり気なく呟いた。
「なんだ、駆け落ちの相談か?」
「っ!」
 思わず吹き出しそうになって、ラウルはとぼけた表情の養父を睨みつける。
「馬鹿言え! あんなガキ、誰が相手にするか」
「そうだな、お前を相手にするほど殿下は馬鹿じゃない」
 さらりと言い返されて、尚も抗議しようとしたが、やめた。この男に何を言っても、澄ました顔でかわされるだけだ。
「……言ってろよ」
 むっとしながら、手紙を懐にしまい込む。そうして、ラウルは養父を横目にぽつり、と呟いた。
「律儀なもんだ。これが最後の手紙だとよ」
「ほう」
 最初の手紙は、たったの一行だった。ミミズがのたくったような文章に、眩暈がしたほどだ。それが回を重ねるごとに文字は整い、文章は洗練されていった。変わらないのはその短さだけ。
「はて、最初の手紙を受け取ったのはいつのことだったかな」
「……さあな」
 ふい、とそっぽを向くラウルに、ダリスはひのふのみ、と指折り数えて、ふむと頷く。
「もう十三年にもなるか。早いものだな」
(―――もう、そんなに経ったのか)
 何気なく窓の外を窺えば、そこには薄日の差す庭園。咲き競う花々が、春風にゆらゆらと揺れている。
 そう、あの日。少女は泣いていた。
 庭園の片隅で、あどけない顔をぐしゃぐしゃにして―――

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