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番外編・神殿長の呟き


 扉を叩く控え目な音に、はっと顔を上げる。
 山のような書類を片付けているうちに、どうやら居眠りをしてしまったようだ、腕の下でぐしゃぐしゃになった書類を丸めて屑籠に放り込んでから、もっともらしい声で入室を許可する。
「入りたまえ」
「失礼致します」
 茶器の載った盆を携えてやってきた侍祭は、神殿長の顔と机の上とを見比べて呆れたような表情を浮かべながらも、何事もなかったようにその前へ進み出る。そして、辺りを憚るように声を潜めて切り出した。
「彼の乗った船は、無事ヴェルニーを出航した模様です」
「そうか」
 呟いて、神殿長ダリス=エバストは安堵の息を漏らす。
「どこかで仕掛けてくるかと思ったが、流石にそこまでの度胸はなかったか」
「ウェストーク卿の『お見舞い』が効いたみたいですね。今頃、布団の中で震え上がっているんじゃありませんか。ざまあみろですよ」
 珍しく軽口を叩く侍祭に、面白そうに眉を上げるダリス。
「お前がそこまで言うなんて珍しいこともあったものだな、オーロ。これは、今日辺り雹でも降るかな」
「失礼しました、つい……」
 慌てて畏まるオーロに構わん、と手を振って、窓の外へと目を向ける。
 漆黒の空。分厚い雲に阻まれて、月も星もその輝きを失っている。それでも、この街が真の闇に包まれることは決してない。
 眼下に煌く街の明かりに目を細め、ダリスは呟いた。
「卿には改めて、礼を言わんとなあ」
「ああ、そのことで卿から伝言です。『ベルトラム産の二十五年物で手を打とう』だそうで」
 酒飲みの友人らしい言葉に、思わず苦笑いを浮かべる。ベルトラム産の二十五年物といえば、市場にはなかなか出回らない極上の蒸留酒だ。そして、ダリス秘蔵の一本でもある。
「いささか高くついたな。まあいい、そのうち酒瓶を下げて遊びにでも行くとしよう」
 それはそれで楽しみだ、と笑う神殿長に、小さく息をつくオーロ。
「それにしても、ラウルに何も言わないで良かったんでしょうか?」
 不本意な謹慎を食らった挙句に、いきなり北大陸の分神殿へ飛ばされたのだ。納得が行くはずもない。それでも渋々ながら従ったのは、彼なりの意地だったのだろう。あそこで自棄を起こして神官を辞めるなどと言えば、逆に神殿のお偉い方を喜ばせる結果となる。それに、彼は口で言うほどユークを、そしてその神官である自分を嫌ってはいない。
「きっと今頃、船の上で不貞腐れてますよ」
 オーロの言葉に、ダリスはわざとらしく鼻を鳴らす。
「不貞腐れる余裕があればいいがな。きっと今頃、船酔いでボロボロだぞ」
「そんな、貴方じゃあるまいし」
 鋭く切り返されて、誤魔化すように視線を彷徨わせながら、ダリスはふと数日前の出来事を思い返した。
 旅立ちの日。最後に振り返ったラウルの縋るような瞳が、今も脳裏に焼きついて離れない。あれほどに弱さをさらけ出した彼を見るのは初めてだった。
 それでも、ダリスは何も言わなかった。本当のことを言えば、あの黒髪の養い子は断固として北大陸行きを拒否したに違いないから。
 ふう、と溜め息を漏らして、ダリスは忠実なる部下へと視線を戻す。
「言ってどうなるものでもあるまい。……それに、そんな事を言ってみろ、あいつは嬉々として迎え撃とうとするに決まってる。そうなったらまた問題がややこしくなってしまうからな」
「……そうですね」
 その様子を想像してしまい、かつての教育役であった侍祭はくすりと笑みをこぼした。

* * * * *

 そもそも、事の発端はオーロが小耳に挟んだ噂だった。
「エンベルク伯爵の屋敷に、ここ数日怪しい風体の輩が出入りしている」
 これだけならとりたてて気に留めるものでもなかったが、その「怪しい風体の輩」が、公爵の一人息子と何やら良からぬことを企てているらしいと聞いた途端、オーロの脳裏に閃くものがあった。そして。
 数日後、息を乱して執務室に飛び込んできたオーロがもたらしたのは、
「エンベルク卿のご子息が、闇討ちを計画しているようです」
 というとんでもない報告だった。
「闇討ち? 随分と物騒な話だな」
 さしものダリスも一瞬目を見張ったが、すぐにいつもの表情に戻って呟く。誰を、と聞かなかった辺りが、いかにも彼らしい。
「話してみろ」
 面白そうに促すダリスに、オーロは険しい表情で話し始めた。
「ここ数日、怪しい人間が屋敷に出入りしているという噂を耳にしまして、屋敷の召使いにそれとなく話を聞いてみたんです」
「おや、最近のユーク侍祭は間諜の真似事もするのかね」
「人聞きの悪い。召使いの中にたまたま、知り合いの知り合いがいただけの話です」
 しらっと答えて、オーロは続けた。
「その出入りしている輩というのが、どうやら傭兵崩れの連中らしいんですが、五人ばかり膝をつき合わせて、やれ武器はどうの後始末はどうのと、それはもう物騒な話し合いを繰り返しているそうですよ」
「たかが神官一人に、よくもまあ……」
 呆れたもんだ、と呟いて、ダリスは顎を掴んだ。
「小僧は今、どうしている?」
「言いつけ通り、自室で謹慎しています。表向きはね」
 先日、恋人を取られたと息巻いて決闘を申し込みに来た貴族の息子、それがエンベルク伯爵の一人息子、ヴィラードだった。その挑戦を渋々受けて立ち、うっかり怪我をさせてしまった人物こそがラウル=エバスト。本神殿長ダリス=エバストの養子であり、本神殿に仕える神官の一人でもある。
 彼は決闘の翌日より自室での謹慎を申し渡され、部屋の前に監視までつけられているにも関わらず、夜な夜な神殿を抜け出しては繁華街へと繰り出している。普段ならこっぴどく叱ってやるところなのだが、今回は問題が問題だけにオーロもあまり口やかましいことを言えないでいた。
 何しろ、怪我をした原因はヴィラードが「決闘」の最中、僅かな段差に足を取られて転倒したからで、ラウルが直接危害を加えたわけではない。そんな彼を医務室まで運び、手当てをしてやったのは誰であろうラウルであり、『腕が痛くて歩けない』と訳の分からないごね方をするヴィラードを彼の馬車まで運んでやったのもラウルである。勿論、別れ際にちょっとばかり脅し文句を付け加えることを忘れはしなかったが。
 とまあ、本来なら感謝されて然るべきところを、「貴族のご子息に怪我を負わせた」として謹慎させられているのだから、ラウルにしてみればたまったものではないだろう。
 とはいえ、今回ばかりは相手が悪かった。
 何しろ、ユーク本神殿の運営費用は主に王族や貴族からの寄付金で賄われている。特にエンベルク伯爵家とはラルス建国以前から親交があり、その血筋は現ラルス王家にも繋がる。いわばユーク本神殿の「お得意様」なわけだからして、徒や疎かには出来ない。
 しかし、一番の懸念材料となるのは、伯爵家にまつわる黒い噂の数々だ。そのうちのいくつかを思い出して、オーロは強張った顔を誤魔化そうと口を開いた。
「そういえば、エンベルク伯爵は今日もいらしたそうですね」
「ああ、毎日毎日ご苦労なことだ。親馬鹿もあそこまで行くと大したものだな」
 「決闘」の翌日、息子に怪我をさせた神官を引き渡せ、と乗り込んできたエンベルク伯爵に、ダリスはまず丁重なお見舞いの言葉を述べた後、のらりくらりと伯爵の怒声をかわし、処分は神殿が責任を持って行うと約束してお引き取り願った。それから十日、ラウルの処分は宙に浮いたまま、自室での謹慎もさして意味を成していない。
 神殿内部にはラウルの処分を求める声だけではなく、ダリスを非難する声も高まっており、このまま行けばダリス自身の地位も危ういものとなるだろう。
 そんな中、業を煮やしたエンベルク卿は毎日神殿に顔を出しては「処分はどうなった?!」と迫り、その息子は人を雇ってまで闇討ちを計画しているときた。
「やれやれ、どうしてくれようか」
 ほう、と息を吐いて、ダリスは腕組みをする。
 そも、神官位の剥奪という辺りが不穏ではないか。神官である以上、ラウルの身は神殿によって保護されている。つまり、神官である限りは迂闊に手出しが出来ないわけだ。
 しかし、神官位を剥奪してしまえば、彼は何の後ろ盾もない二十五歳の青年でしかない。まして、普段から素行が悪いことで知られているからして、突然「姿を消して」しまってもおかしくはない、とそんな筋書きだろうか。
(馬鹿な男だ。人数を集めれば何とかなると本気で思っているのか?)
 しかし、そう呑気に構えてもいられない。何しろ、その連中が本当に「傭兵崩れ」なのかも怪しいところだ。裏社会との繋がりを噂される伯爵家だけあって、腕利きの暗殺者を雇うことも造作ではない。そうなれば、いかなラウルとて一溜まりもないだろう。
「……して、いかがなさるおつもりですか?」
 おずおずと尋ねるオーロに、ダリスは苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「小僧をどこかの分神殿に飛ばす。それが一番波風を立てずに済むだろう」
 その言葉に、小さく驚きの声を上げるオーロ。つまりは左遷というわけだが、これまた思い切ったことを考えたものだ。
「しかし、ラウルが納得するでしょうか? ただでさえ謹慎処分に腹を立てているのに」
「納得してもらうしかない。今回の一件だけではない、この本神殿に留まり続ければ、いずれまた同じようなことが起きるだろうからな」
 ダリスをよく思わない輩が多い本神殿において、その養い子であるラウルの立場は輪をかけて苦しいものとなっている。あれだけの才能を持ちながら、この年まで神官の座に置かれているのが何よりの証拠だ。
 それにな、とダリスは僅かに笑みを浮かべた。
「世界を知り、己を知る、ちょうどいい機会なのだろうよ」
「神殿長……」
 オーロは知っている。かつて、このダリスもまた諸国を回り、神官としての腕を磨いていったことを。彼は各地で多くの人々を救い、様々な奇跡を起こした。そして、その功績を認められて本神殿へ招かれた彼は、異例の若さで現在の地位まで上り詰めたのだ。
 だからこそ、ダリスは知っている。神殿にこもって書物を漁るだけが修行ではないことを。自ら掴み取った知識や力は、何物にも変えられない貴重な宝であることを。
「しかし、今ここで神殿を離れれば、相手方の思う壺ではありませんか? 道中を襲われたらひとたまりもありませんよ」
 オーロの言葉に、ダリスはにんまりと笑ってみせた。
「なぁに、手は打つさ。ここはひとまず、彼の力を借りるとしよう」
 どこか嬉しそうに呟くダリスの顔といったら、まるで新しい悪戯を思いついたヤンチャ坊主のようで。
 すぐさま思い当たって、オーロは複雑な表情を浮かべた。
「ウェストーク卿ですね? あの方に何をお願いするつもりです?」
 それは、ダリスの飲み仲間である侯爵の名だった。お互い身分を隠して下町の酒場で飲んでいるうちにすっかり意気投合したという彼は、猛者揃いで知られるロリナール騎士団を束ねる人物でもある。豪胆を絵に描いたようないかつい武人で、その剣の腕は帝国内でも五指に入ると言われるが、彼が有名なのはそれだけではない。
「なに、将来有望な若者を一人、推薦するだけさ」
 その言葉に、思わず顔を引きつらせるオーロ。巷では言うことを聞かない子供に対し、『あんまり聞かないと、ロリナール騎士団に入れちまうよ』という脅し文句が使われているほどだ。噂によれば、一度見習いとして入団したが最後、一角の騎士となって家に戻ってきた時には人相が変わっているという。
「ロリナール騎士団からのお誘いとあらば、伯爵とて無下にはできんだろう。まあ、時間稼ぎには十分だろうよ」
 そうして、ダリスはおもむろにペンを取ると、とんでもない内容の手紙を嬉々として綴ったのだった。

* * * * *

「……それにしても、卿は本当に彼を入団させるつもりなんでしょうか?」
 茶を入れながらふと呟くオーロに、ダリスはさあな、と嘯いた。
「重要なのは前置きの方だったからな」
 ウェストーク卿は、ダリスが送った「台本」を実に巧く演じてくれた。
 『偶然』怪我のことを耳にしたウェストーク卿は、何の前触れもなく屋敷を訪れると、まず『お主は相当に腕が立つと聞き及んでいる。そんなお主にこれほどの手傷を負わせるとは、相手の神官とやらはよほどの腕前だったのだろうな。これは一度、私も手合わせ願いたいものだ』と真顔で冷やかし、『最近、こんな噂を耳にしてな。どこかの子息が己の力量も弁えずに無謀な挑戦をしたばかりでなく、負けた腹いせに相手を闇討ちにしてやろうなどと、実に卑劣なことを画策しているというのだよ。実に嘆かわしいことだ。まあ、お主は立派な紳士であるからして、よもやそのような……いや、私としたことが馬鹿なことを言った。エンベルク卿のご子息たる者が、そんな事を考えるはずもない』と畳みかけた挙句、青ざめた顔のヴィラードに『此度の決闘は不本意な結果に終わって、お主もさぞや悔しいであろう。怪我が治った暁には、是非とも我が騎士団に参られるがいい。共に剣の道を究めようではないか。なに、遠慮することはない』と止めを刺したのだ。
「まあ、どう転ぼうと私の知ったことじゃない。せいぜい、訓練中にまた腕を折らんよう祈ってるよ」
 そう言い切って、差し出された茶器を危なげなく受け取る。なみなみと注がれた紅茶を一口味わって、ダリスはふと手元の手紙に目をやった。
「ローラ国、エスト村、か」
 北の地から神殿に寄せられた手紙には、神官を新たに派遣して欲しいという村人の願いが切々と綴られていた。現在分神殿に勤めている司祭はかなりの高齢で、ここ数年は業務にも支障を来しているという。
「噂では、随分と寂れた村らしいですね。ラウル、怒ってましたよ。よりにもよってそんな僻地に飛ばすことないだろう、ってね」
「下手に賑やかなところに飛ばせば、またぞろ騒動を引き起こしかねないからな。ま、ほとぼりが冷めるまでは我慢してもらうしかあるまい」
 ぐい、と紅茶を飲み干して、お代わりをねだるダリス。はいはい、と二杯目を注いだオーロは、どこか寂しげなダリスの横顔にそっと呟く。
「彼がいなくなって、一気に静かになりましたね」
「そうだな」
「……本当は寂しいんでしょう?」
「何を言う。むしろ、頭痛の種がいなくなって清々したというものだ」
 わざとらしく言ってのけ、ダリスはふと、手の中で揺れる琥珀色の液体に目を落とした。
「……ま、晩酌に付き合う奴がいないのは、少し寂しいか」
 独り言のようにぽつりと呟くダリス。その素直ではない物言いに苦笑を漏らし、オーロは自らの器に残りの茶を注いだ。
「ラウルが戻るまでは、これで我慢してください」
 器をぐい、と突き出し、不器用に片目を瞑ってみせる。
「ラウルの前途を祝して」
「乾杯、だな」
 乾いた音が部屋に響く。すっかりぬるくなった茶を一気に飲み干し、そうして二人は窓の外に広がる漆黒の空を見上げた。
 今頃、遠い海の上で。彼もまた波に揺られながら、同じ夜空を眺めていることだろう。
 たとえ遠く離れても、この空は、この絆は―――そう、きっとどこまでも繋がっているから。
「お前なら、きっとうまくやるだろう」
 どこへ行っても、何があっても。そう呟いて、ダリスは大きく伸びをした。
「さて。小僧がいない間に、神殿内の大掃除をしておかんとな」
「大掃除、ですか」
 言葉の裏に秘められた意味を汲み取って、オーロは小さく頷いた。
「微力ながら、お手伝いいたします」
「ああ、大いに期待しているぞ。何しろ、お前の諜報能力は今回の件で実証済みだしな」
「神殿長! 人聞きの悪いことを言わないで下さい」
 優秀なる部下の抗議を右から左に聞き流し、ダリスは手元の時計をちらりと盗み見る。
「―――時間だ」
 鳴り響く深夜の鐘。闇の二刻を告げる音色は、礼拝の時刻を告げるもの。
 彼らは闇に願う。真なる安息を、そして新たな日々を。
「行くぞ、オーロ」
 黒衣を翻し、颯爽と歩き出す。その足取りには、一片の迷いもない。
「どうした、早くしないと遅刻するぞ?」
「は、はいっ」
 そう返事をしてから、はっと気づく。
「遅刻って、もう遅刻してるじゃないですか!」
 ―――闇の二刻を告げる音色は、礼拝の「開始」時刻を知らせるもの。
「はっはっは、ほら急げ」
「笑い事じゃありません! 全くもう、あなたって人は―――!!」
 廊下を駆け抜けるけたたましい足音は、新時代の到来を告げる音、だったかどうかは定かではない。



 というわけで、ラウル左遷の裏事情でした(^^ゞ
 つまるところ、この左遷はラウルの身を案じる神殿長の親心だったわけですが、これを本人が知ったらきっと「余計なお世話だ!」と烈火のごとく怒り出すのでしょう(^^ゞ 守ることも、そして守られることにも慣れていない人間ですから、彼は。
 ラウルの教育役だったオーロ侍祭、実は「外伝2・Present」で出てきた神官だったりします。その人の良さから、度々ラウルに騙されて授業をすっぽかされてました(^_^;) 現在は侍祭に昇格して、神殿長の秘書をしています。
 この後、神殿内部は改革の嵐が吹き荒れることになりますが、それをラウルが知るのはだいぶ後になってからの話です。

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