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野薔薇に寄す

 数日後――。
「だああっ! なんなんだよてめえっ」
 辺りに響き渡った悲鳴交じりの怒声。すわ何事かと振り返った人々は、目抜き通りのど真ん中で始まった「愁嘆場」に目を丸くした。
「ローザ!! ここにいたのか、俺はお前をずっと探して――」
「いい加減にしろっ、誰がローザだっ!」
 迫ってくる髭面をぐい、と押し返して怒鳴り散らしている黒髪の青年は、言わずと知れた「不良神官」ラウル=エバスト。そのラウルに縋りついているのは、随分とやつれた風情の中年男。その異色の取り合わせと怒声の内容に、一人、また一人と野次馬が増えていく。しかし当人達は周囲の状況に気づく余裕もないのか、どうにも噛み合わない押し問答を続けていた。
「ああもう、だから離せっつーの!」
「離すものか、ようやくお前をこの腕に抱くことが出来たんだからな。しかしローザ、お前随分と痩せたんじゃないか? この尻の辺りなんか……」
「だぁぁ、撫でるな気持ち悪いっ!」
 いつもなら絡んでくる人間の一人や二人、軽くあしらうことの出来るラウルだったが、今日は小脇に荷物を抱えているせいで思うように動けないでいた。それがまた悔しいやら気色悪いやらで、頬がかあっと熱くなるのが自分でも分かる。
(くっそぉ、何で俺がこんな目に!)
 人込みの中、真正面からやってきた男に気づかなかったのは不覚だった。目の前でよろめいた男に、彼と気づかず手を伸ばしてしまったのも。
 結果、歓喜の声を上げて抱きついて来た男は、ラウルの抗議も何処吹く風で、涙に咽びながらの抱擁を止めようとしない。
「いい加減にしろってんだ!」
 ジタバタもがいて、やっとのことで男の腕を引き剥がす。そうして、ようやく自由の身となったラウルは、困惑した表情で立ち尽くす男をぎろりと睨みつけた。
「てめえ、昼間から酔っ払ってんのか!?」
「何を怒ってるんだ、ローザ。ああそうか、長いこと一人にしたから、拗ねているんだな。すまなかった、もうお前の側を離れるもんか」
「あのなあっ!」
 思わず怒鳴りつけてから、はたと気づく。今日の彼からは、酒精の気配が感じられない。となれば素面でこの有様かと眉を潜めるラウルに構うことなく、男は再び取り縋ってくる。
「許してくれローザ、俺は――」
「いい加減にしろ。俺はあんたの恋人でも何でもないんだ!」
 しつこく伸びてきた手をぱん、と打ち払い、ラウルは強い口調で言い放った。
「ロ、ローザ……」
 打ちのめされたように、よろよろと地面に崩れ落ちる男。まったく、と呟きながら踵を返したところで、ラウルはようやく、自分達を取り囲むように出来上がった人垣の存在に気づいたのだった。
「なっ……なんだよお前ら」
 突き刺さるような視線にたじろぐラウル。しかも、どよめきの中から聞こえてきた「痴情のもつれ」だの「別れ話」だのという恐ろしい単語が、彼を凍りつかせる。
「ばっ、馬鹿言うなっ!! 誰がこんなおっさん相手にするか! 俺はなあ――」
 我に返って抗議の声を上げたものの、野次馬達は好奇の視線を向けながら「神殿じゃあよくあることだって言うし」「じゃあアイツ、両刀だったのか?」「えー、うそぉ。あのラウルが!? でも、それもありかもーっ」などと、勝手なことを囁きあっている。流石のラウルもこれには黙っていられず、真っ赤な顔で啖呵を切った。
「てめぇら、いい加減に――」
「スウェンさん!」
 凛とした少女の一言が怒声を遮る。同時に、周囲のざわめきまでもがピタリと止んで、名を呼ばれた男だけがのろのろと、人垣から現れた声の主に向かって力なく「ああ」と答えた。
「スウェンさん、ここにいたんですね! もう、探しましたよ」
 野次馬達を掻き分けて二人の前にやって来た少女に、ラウルはおや、と目を瞬かせる。
「あんた、『山羊の蹄亭』の……」
 その言葉に、少女はぺこりと頭を下げた。緑色のおさげ髪が、その小さな背中で弾むように揺れる。
「すいません、父に頼まれてスウェンさんのお世話をしていたんですけど、ちょっと目を離した隙にいなくなってて」
「へぇ……あんた、あのおやっさんの娘だったのか」
 ここ一月で見慣れた看板娘の正体に驚きつつ、先ほどの一声ですっかり気勢を削がれたラウルは、先ほどの抱擁でぐしゃぐしゃになった髪に手をやった。
「……で、これは一体どういうことなんだ?」
「その、実は……」
「ローザ、許してくれ。でもこうして帰ってきただろう?」
 ラウルと少女のやり取りなど耳にはいっていないのだろう、男は尚も謝罪の言葉を繰り返す。どんよりと曇った瞳に映るのは、不機嫌を絵に描いたような若き神官の顔。それも、彼にはかつての恋人が拗ねているかのように見えるのだろうか。
「なあローザ――」
「スウェンさん、ローザさんはもう亡くなったんですよ。昨日、お墓参りもしたでしょう?」
 悲しそうに眉を寄せて、子供を諭すようにやんわりと説く少女。しかし男は駄々っ子のように首を横に振り、同じような言葉を呟き続けている。
 その頃になって、ようやく周囲の誤解も解けたのか、興味を失った野次馬達は三々五々と散っていった。そんな人々の背中に一睨みくれてやってから、ラウルはそっと少女を窺う。
「このおっさん、酔っ払ってるわけじゃないんだろ」
「はい、普段はいたって普通なんですけど、ローザさんのことになるとこの調子で……」
 やれやれ、と肩をすくめ、ラウルはいつの間にか黙り込んでしまった男の顔をちら、と窺った。
 呆然と石畳を見つめている男。そのやつれきった顔に刻まれた幾多の皺と傷は、彼が過ごした年月を雄弁に物語っている。戦いに明け暮れる毎日、その凄惨な日々を豪快に笑い飛ばし、己の腕一本で道を切り開いてきたのだろう男。そんな彼と、かつていい仲だったという歌姫との間に、一体何があったというのか。
 人の色恋沙汰に首を突っ込む趣味はないが、ここまで迷惑を被っているのだ。せめて事の顛末くらいは教えてもらってもいいだろう。
「なあ、二人の間に何があったんだ?」
「ええと……私も、詳しくは聞かされていないんですけど……」
 よろめく男に手を貸しながら、少女はかつて『迅雷』と呼ばれた男の半生を語り始めた。


 思えば、えらく時間がかかったものだ。
 見送りに来てくれた恋人を前にして、スウェンはどこか気恥ずかしさを覚えて頬を掻いた。
 一方、目の前に立つ彼女はと言えば、肩掛けを手繰り寄せつつ、形の良い眉をぎゅっとしかめてこちらを睨みつけている。
「これから戦いに行くってのに、そのしまりのない顔はなぁに? まったく、だらしないったら」
 いつもに増して口調がきついのは、朝早くに叩き起こされたからか。それとも、冬の到来を告げる風が、その豊かな黒髪を無遠慮に撫で回して行ったからか。
 乱れた髪に手を伸ばしながら、スウェンは照れ隠しとばかりにわざと怒ったような声色を出した。
「そう言うなよ、ローザ。しばらく会えないんだから、笑顔で送り出してくれたっていいだろう?」
「戦いに行くのはあんたの勝手でしょう? こうして見送りに来ただけでも感謝して欲しいくらいだわ。ああもう、余計に乱れるからやめてったら」
 素っ気ない言葉を返しながら、武骨な手を頭の上から追い払うローザ。冷ややかな蒼い双眸に見つめられて、スウェンは謝罪の言葉をごにょごにょと紡ぎつつ、つんと澄ました恋人の顔を愛しそうに眺め回した。
 気高き薔薇。何人も手折れぬ孤高の花。それが、黒髪の歌姫ローザ。
 たまたま入った酒場で彼女の歌声を聴いたのは、もう三年も前のことか。足繁く通いつめ、顔を覚えてもらうまでに三ヶ月かかった。名前を呼んでくれるようになるまで、更に三ヶ月。同じ卓で酒を酌み交わすようになったのは、出会ってから二年も経った頃だった。
 口下手な彼が自らの思いを告げるまでは、更に一年の月日が必要で。とっくの昔に気づいていた彼女は、陸に上げられた魚のように口をぱくぱくさせる男を見て、呆れたように言ったものだ。
「《迅雷》の異名を取る男が、たった一言を言うのに三年も掛かっただなんてね」
 その名は戦場での戦いぶりを評してつけられたものだった。用兵の迅速さ、そして太刀筋の鋭さから《迅雷》と恐れられた彼は、無敵の傭兵隊長として敵兵からも一目置かれる存在だった。
 そんなスウェンがこれから赴くのは、大陸西部のアストアナ地方。かの地では現在、領主の後継者争いから端を発した大規模な反乱が起こっており、その鎮圧に借り出されたのである。
 既に戦端は開いており、スウェンら傭兵部隊が投入されるのは最前線のナイラム砦となっている。西方警備の要であるナイラムが落ちれば、反乱軍は帝都侵攻の足がかりを得ることとなるだろう。当然、熾烈な攻防戦が予想された。
「……ウェン、スウェン!? ちょっと、聞いてるの?」
 これから始まる過酷な日々に思いを馳せていたスウェンを、ローザの声が現実に引き戻す。
「あ、ああ。すまない」
 謝罪の言葉を口にして、スウェンは目の前に立つ恋人をそっと抱き寄せた。ほのかに漂う薔薇の香り。抱きしめるとより瑞々しい芳香を振りまき、まるで花束を抱きかかえているような錯覚すら覚える。
 それは風吹きすさぶ荒野に凛と咲く、鮮やかな花。誰に守られることもない、誰に頼ることもない。強風に煽られながらも力強く咲き誇る一輪の野薔薇。その芳しさを存分に味わって、スウェンはそっと腕を緩めた。
「当分お前と会えないかと思うと、寂しいな」
 名残惜しそうに髪を撫でてくる恋人、その肩口に顔を押し付けて、ローザは小さく呟く。
「あらそう? あたしには歌がある。だから、寂しくなんてないわ」
「そうか」
 あっさりとした返答に、スウェンは参ったなとばかりに頭を掻いた。他の男ならともかく、まさか歌に嫉妬するわけにもいかない。
 言葉に詰まる恋人の首にするり、と腕を絡ませて、黒髪の歌姫は艶やかな微笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい、隊長さん」
「行ってくるよ。薔薇の歌姫」
 啄ばむような口づけを交わして、スウェンは部下達の待つ正門前広場へと歩き出した。振り返れば余計に辛くなると分かっているから、決して振り返ったりはしない。それを知るローザも彼を引き止めたりはせず、その後ろ姿が見えなくなるまで無言のままに見送る。
 そうして今日も、足早に遠ざかっていく背中を眩しそうに見つめていたローザは、広場への道を曲がりかけたところでぴたり、と足を止めた男に、思わず眉をひそめた。
「なぁに、忘れ物でもしたの?」
 からかうような声にくるりと振り返り、スウェンはおもむろに息を吸う。
 そして。
「ローザ! 帰ったら、結婚しよう!」
 町中に響き渡るような大声で言い放ち、返答を待たずに踵を返す。そうして、そそくさと逃走した歴戦の勇士は、間一髪でローザの怒声を浴びずに済んだのだった。


「ところが、反乱は思いのほか長期化して、気づけば年を越していたそうです。そんなある日、とある噂話が舞い込んできて……」
 首都からやってきた増援部隊、そのうちの一人が夕食の席で漏らした、何気ない一言。
「なあ、知ってるか? あの歌姫が、とうとう……」
 ローザが貴族の男と結婚した。その噂は瞬く間に広まって、スウェンの耳にも届いた。
 口の悪い傭兵仲間に「とうとう見限られちまったなあ」とからかわれて、彼は力なく首を振り、仲間から離れて一人、遠い東の空を見つめていたという。
 その後まもなく反乱は鎮圧され、破格の報酬を得た傭兵団は無事、首都への凱旋を果たしたが、その中に隊長であるスウェンの姿はなかった。
「その後は他大陸に渡って、あちこちの戦を渡り歩いていたようなんですけど、半年ほど前に利き手を怪我して、傭兵稼業を続けられなくなったんだそうです。それで、ようやくラルスディーンに帰る決心をして、つい五日ほど前に戻ってきたんですけど」
 天涯孤独の彼にとって、帰る場所はここしかなかった。あれから十年、きっとローザは自分のことなど忘れて、幸せに過ごしているに違いない。彼女はとっくの昔に違う世界の人間となってしまったのだ。よもや会うこともあるまい、と自分に言い聞かせて戻ってきたラルスディーン。
 そこで彼を待っていたのは、衝撃の事実だった。
「もしかして……」
「ええ。ローザさんは結婚なんてしていなかったんです。なんでも彼女を見初めた貴族のお坊ちゃんが強引に結婚を迫って、でも結局のところ親族の反対があったかなにかで、身分を理由に婚約を破棄されたらしくって」
 彼女はずっとお前を待っていたんだ。かつての傭兵仲間が告げた真実は、スウェンを激しく打ちのめした。

「あたしには歌がある。だから、寂しくなんてないわ」
 帰って来ない恋人のことを聞かれるたびに、彼女は笑ってそう答えたという。そして歌うのだ、彼が愛したあの歌を。

 私はそう、荒れ野に咲く花
 誰にも縛られない 自由な花
 手折ろうとすれば きっと怪我をする……


「……そして、彼女は病に倒れた、か」
 薔薇に囲まれて眠っていたローザ。その穏やかな顔を思い出し、ラウルは小さく息を吐いた。
 声枯れるまで歌い続けた薔薇の歌姫。その笑顔も、麗しい歌声も、そしてあの時聞けなかった返事もまた、永遠に失われてしまった。
 そんな、切ない恋物語の主人公であるところのスウェンは、ラウルの視線に気づいてか、再び謝罪の言葉を紡ぎ始めた。
「なあローザ、許してくれ。お前のことを思わない日なんて一日もなかった。早くお前のもとに戻って結婚式を挙げようと、俺は……」
 うわ言のように繰り返される言葉は、空しく虚空に吸い込まれていく。その目に映っているのは過ぎ去りし薔薇色の日々か、それとも夢と現実が入り混じった虚構の世界か。
 虚ろな瞳で呟き続ける男を労わるように見つめて、少女は続けた。
「その話を聞かされてからこっち、悲しみのあまり酒浸りの毎日を送っていたようなんですけど、あの日は別の酒場で前後不覚になるまで飲んだ後、うちのお店に来たみたいなんです」
 そうして店の扉を開けてみれば、ローザに似た風貌のラウルがそこにいたというわけだ。
「なるほど……」
 つまりは間が悪かったわけだが、彼を責めても詮無いことだ。何とも言えない表情で頭を掻くラウルに、少女は深々と頭を下げた。
「本当にご迷惑をおかけしました」
「なに、気にすんな。あんたが謝ることじゃない。別に危害を加えられたわけじゃなし、問題ないさ」
「でも……」
 私の気が済まない、と言いたげな少女に、ラウルはそれじゃ、と片目を瞑ってみせた。
「お詫びの代わりに、今度の休み、一日付き合うってのは?」
 その言葉に目を見張り、面白そうに笑う少女。
「嬉しいお誘いですけど、マリアンさんに見つかったら怒られますよ?」
 恋仲と噂される踊り子の名前を出されて、しかしラウルは平然と言葉を返す。
「怒られても、俺は一向に構わないぜ? ……なんてのは冗談。あの姐さんにはちゃんといい人がいるんだ、俺はただの飲み仲間だよ。だから怒るわけがない」
 この台詞を信じたのかどうかは分からなかったが、少女はそういうことなら喜んで、とにっこり頷いてみせた。
「じゃ、そういうことで。出来れば翌朝まで付き合ってくれると嬉しいけどな」
「父の許しが出たら、考えてもいいですけど」
 澄ました顔で言ってのける少女に、そりゃ手ごわい、と肩をすくめるラウル。そのわざとらしい所作にひとしきり笑い声を上げてから、少女はそっと傍らの男を促した。
「スウェンさん、もう戻りましょうね。それじゃ、失礼します」
 もう一度ぺこりと頭を下げ、ゆっくりと歩き出す少女。そのほっそりとした手にすがるようにして歩き出した男は、何度も何度も後ろを振り返りながら、のろのろと角を曲がっていった。
「……ったく、傍迷惑な話だ」
 二人の背中を見送りながら、疲れた顔で呟く。恐縮しきっていた少女の手前「問題ない」とは言ったものの、男にあちこち撫で回されて嬉しいわけもない。
(くっそぉ、思い出しただけで鳥肌がっ……!)
 猫のように身震いをしたところで、夕の一刻を告げる鐘の音が辺りに響き渡った。
「おっと、もうこんな時間か」
 早く帰らないと、またあの養父にどやされる。荷物を大事そうに抱きかかえ、ラウルは足早にその場を後にした。

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