<< ◇ >> |
野薔薇に寄す |
その日、彼は珍しく開店前にやってきた。 準備中の札を無視して入ってきた客に目を剥いた店主も、相手が常連客の一人と分かって肩をすくめる。 「まだ準備中だと、そう出てただろう?」 「いや、飲みに来たんじゃないんだ。ちょっとおやっさんに頼み事がね」 何やら大荷物を抱えてやってきたラウルは、しきりと辺りを気にしていた。それだから店主は「ははぁ」と呟いて、気難しい顔を装う。 「娘の件なら駄目だぞ。まだ子供なんだ、日暮れまでには帰してもらうからな」 その言葉に笑いながら首を振って、カウンター越しに耳打ちをする。途端に奇妙な顔をする店主だったが、頼むからと頭を下げられて、不承不承頷いた。 「まあ、別に構わんが……。一体何をする気だ?」 「ちょっと、ね。それじゃ奥の部屋借りるぜ」 何やら荷物を抱えて、店の奥に消えていくラウル。その後ろ姿を不思議そうに見つめていた店主だったが、すぐに気を取り直して開店準備に取り掛かった。夕の四刻を告げる鐘が鳴れば、店には仕事を終えた男達が喉を潤しに押しかけてくる。戦闘開始までは、あと半刻もない。 しばらくして、店を手伝うために二階から降りてきた娘は、狐につままれたような顔で杯を磨いている父の姿にきょとん、と首を傾げた。 「父さん、どうかした? そう言えばさっき、誰か来たみたいだけど」 「ああ、それがなぁ……」 ちょいちょい、と手招きされて、不思議そうに駆け寄る少女。そして耳打ちされた言葉に眉をひそめた少女は、奥に聞こえないよう小声で問いかけた。 「どういうこと?」 「よく分からんが、必要なことらしいんだ」 「ふぅん……」 二人して首を傾げていると、遠くから鐘の音が響いてきた。四回、そしてまた四回。哀愁を帯びた鐘声が夕の四刻を告げる。 「あらやだ、もうこんな時間?」 慌てて入り口に走り、準備中の札をひっくり返す少女。ほどなくして、『山羊の蹄亭』に本日最初の客が訪れた。 そうして、鐘の音と共に開店した『山羊の蹄亭』は半刻もしないうちにいつもの顔触れで埋め尽くされ、リゲルとジェットが連れ立ってやって来た頃には、隅の数席を残すのみとなっていた。 「うわー、混んでるなあ」 素早く三人分の席を確保し、酒とつまみを注文する。しかし、注文した品々が全て揃った頃になっても、最後の一席を埋める人間は現れなかった。 「遅いな、あいつ。今日も来ない気か?」 麦酒を傾けながらぼやくジェットに、苦笑いで応じるリゲル。 「やっぱ、あんなことがあったから近づきにくいんじゃない?」 「そんな繊細なタマかよ。ま、どうせまた何かしでかして謹慎中ってとこかな」 「ありえるなあ……って、あぁ!?」 リゲルが突然奇妙な声を上げたものだから、ジェットは摘んだ揚げ芋を取り落としそうになった。 「なんだよ、変な声出して」 「いや、あれ!」 たった今、彼らの脇を通り過ぎてカウンターへと向かった男性を指差して、しきりに目を瞬かせるリゲル。 「は? あのおっさんがどうしたよ」 「あれほら、確かラ――」 突如沸き起こったどよめきが、リゲルの声を掻き消した。 「え?」 思わず顔を見合わせ、人々の視線の先を辿る。 二人はそこに、一輪の薔薇を見た。 店の奥から姿を現したのは、一人の歌姫。リュートを手に舞台へと上がっていくその姿に、気の早い客が喝采を上げる。 すんなりとした長身を包む衣装は、目の覚めるような赤。薄紫の面紗からかすかに覗く形の良い唇は鮮やかに染められ、緩やかにうねる黒髪は絹のような光沢を帯びて肩を流れ落ちる。 それはまるで、舞台に咲く真紅の薔薇。艶かしい姿態、その匂い立つような美しさに、客席のあちこちから溜め息が漏れた。 「こりゃまた、別嬪さんだ」 尻上がりの口笛を吹くジェットに、リゲルが苦笑を漏らす。 「顔なんて見えないじゃないか。どうして美人だって分かるの」 「そこはそれ、男の勘ってやつさ」 二人がそんなやり取りをしている間に、歌姫は客席に向けて優雅に一礼すると、古びた舞台の中央にそっと腰を降ろした。手にしたリュートを軽く爪弾き、かすかな音の狂いを調整するその仕草に、幾人かの常連客がはっと息を飲む。 次の瞬間、ぽん、と響いた弦の音。そのかすかな音に、ざわめく店内がしん、と静まり返った。 「まさか……」 その光景に、カウンターの中で店主が呟く。 鳴り響いたのは、ただの一音。ただ一弦を弾いただけで、その場を支配する。そんなことが出来る人間を、彼は一人だけ知っている。いや、知っていた。 「まさか――!」 固唾を呑んで見守る聴衆を前に、歌姫はリュートを爪弾きながら歌い始めた。 旅人さん ひとつだけ忠告よ 棘のある花には ご用心! もしも 魅入られたなら たちまち絡めとられてしまうでしょう 嘘だと思うなら 教えてあげる さあ、私の歌を聞いて! それは十年も前に流行った恋の歌。歌声は思いのほか低く、それが逆に心地好い。 甘い歌声に酔いしれる人々。その中にあって、約二名ほどがぽかん、と口を開け、呆然と舞台を見つめていた。 「この声、まさか……!」 「ラウル!?」 何故か時折、言葉に西方の発音が混じるものの、この声を聞き間違うはずもない。 一体どういうことだ、と腰を浮かせかけた瞬間、背後から響いてきた轟音。 無粋な騒音に振向いた二人は、今まさに階段を転がり落ちてきたらしい人物に目を丸くした。 「おい、あれ――」 「まさか、迅雷の……?」 客の中からそんな声が上がる。 こけた頬、白髪交じりの髪。やせ細った腕で手すりにしがみつき、舞台を見つめる男。それは紛れもなく、かつて下町の英雄と謳われた無敵の傭兵隊長、『迅雷』のスウェンの姿だった。 掠れた声が唇から漏れる。それは次第に力を帯び、やがて雷鳴の如く店内に響き渡った。 「ローザ……ローザ!!」 私はそう、荒れ野に咲く花 誰にも縛られない 自由な花 手折ろうとすれば きっと怪我をする だけど ひとたび愛したならば 決して逃しはしない 夜を渡り あなたのもとへ ひそやかに その心に忍び込んで 秘密の言葉 そこに刻みましょう 静まり返った店内に響き渡る、懐かしい歌。その歌声に導かれるように、よろよろと歩を進めた男は、舞台の手前でがくりと膝をついた。周囲の客が慌てて手を貸そうとしたが、スウェンはそれらを振り払い、食い入るように目の前の歌姫を見つめ続ける。 穏やかな曲調から一転し、情熱的な旋律を奏でるリュート。朗々と歌い上げるその声が、いつしか張りのある女声に取って代わったことに、果たして何人が気づいたことだろう。 『薔薇よ、薔薇!』 情熱を謳う 艶やかな花 『薔薇よ、薔薇!』 甘い香りは 恋の媚薬 『薔薇よ、薔薇!』 茨の抱擁は 愛の痛み 『薔薇よ、薔薇!』 その言葉を 口ずさんだなら あなたはもう 私の虜 歌声が止む。一拍遅れて最後の弦が弾かれ、静かな熱気の中に溶けていった。 どっと沸く店内。歓声が上がり、嵐のような拍手が贈られる。そんな中、歌姫はゆっくりと立ち上がると、床に座りこんだままの男に手を伸べた。その拍子に面紗がするりと滑り落ちて、わずかに幼さの残る顔立ちが現れる。 「ラ――!」 思わず叫びそうになったジェットの口を、見知らぬ男の手が遮った。リゲルがその顔を見て素っ頓狂な声を上げたが、これらのやり取りは歓声に紛れ、舞台上の二人までは届かなかった。 「ローザ……」 おずおずと手を伸ばし、ほっそりとした腕にすがる。そうして立ち上がったスウェンは、目の前に佇む歌姫――ラウル――の体を、力の限りに抱きしめた。 「ローザ、ローザ!!」 縋りついて来る男の背中に腕を回し、静かに微笑む。見覚えのない笑顔。しかしそこに重なる面影は紛れもなく、彼が愛した歌姫のもの。 失われたはずの恋人をその腕に抱きしめ、スウェンは滂沱の涙を流す。 「すまなかった……。俺は、お前が貴族の男と結婚したと聞いて……。お前はこうして、長い間待っていてくれたというのに……」 何度、この言葉を繰り返したことだろう。目の前に現れては消える『彼女』は、決して答えを返してはくれず、謝罪の言葉だけが空しく響いた。 しかし今、歌姫は嫣然と微笑んで、そっと首を振る。 『あたしには歌がある。だから、寂しくなんてないわ。そうでしょ、スウェン』 懐かしい声で、彼女は男の名前を呼んだ。その響きが波紋のように広がって、心の奥底に潜んでいた記憶を呼び覚ます。 「あんたの名前はね、スウェン。私の故郷の言葉で「歌」って意味なのよ」 故郷を捨てて、このラルスディーンへ流れてきたという彼女は、そう言って笑った。それはもう嬉しそうに、何度も彼の名を呼んでくれた。 ――あたしには歌がある。だから、寂しくなんてないわ―― 歌い続ける限り、あたしはあなたと共にある。 それこそが、ローザの答え。 「ローザ……」 腕の中で小さく身じろぎをする彼女に、はっと力を緩める。その腕からするり、と抜け出して、歌姫は舞台の中央へと歩を進めた。いつの間にか歓声は止み、静寂の中で彼女は振り返る。 その紅唇が紡ぎ出す、かすかな言葉。 息を飲むスウェンの目の前で、歌姫はふわりと、まるで薔薇の花びらのように、その場に崩れ落ちた。 |
<< ◇ >> |