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「……それで、お兄様の思い人はどなた?」
 単刀直入な問いかけに、危うく茶を吹き出しそうになったダリスは、どうにか体裁を取り繕うと、引き攣った顔で問いかけた。
「ドロシー、お前は一体何を……」
「面倒がって進展させる気もないんでしょう。私が代わりに口説いてくるから、どこのどなたか教えて」
 淡々と迫る妹に絶句して、ひとまず茶器を机に戻す。
「あのなあ――」
「オーロさんも結婚されると聞いたわ。そうなったらお兄様の世話ばかりしている訳にも行かなくなるのよ。ラウルだって正神官になればどこの神殿に配属されるか分からない。そうしたらお兄様はどうするの? この執務室で書類の山に埋もれて生きていくつもり?」
「ちょっと待て。お前のその理屈はおかしいぞ。いくら結婚したとして、妻に執務室を掃除させるわけにはいかないだろうが」
「たとえ話に決まってるでしょう。何かあった時、そばにいて支えてくれる人が必要だと言っているのよ」
 ぴしゃりとやられ、思わず頭を抱えるダリス。援護を求めて左右を見回すが、そのどちらからも冷ややかな視線を返されて、やれやれと肩をすくめる。
「四方八方敵だらけだな」
「自業自得だろ」
 ふふんと鼻で笑うラウルに向き直り、ずいと迫るドロテア。
「ねえラウル、あなたは? お母さまが出来たら嬉しい?」
 急に話の矛先を向けられて、ラウルは大きく目を見開いた。
(そうか……じじいが結婚したら、その人は俺の母親ってことになるのか)
 父親が出来たことすら未だに実感が沸かないのに、母親が出来ると言われても、どうにもピンと来ない。
「……母親、ねえ」
 孤児だったラウルに両親の記憶はない。唯一覚えているのは、幼い自分を抱きしめて『ごめんね』と繰り返していた『誰か』の泣き顔だけ。あれが母親なのだろうか、だとしたら自分は母に捨てられたのかと、そう考えるたびに、沸き上がる感情を胸の奥に押し込んで、気づかないふりをしてきた。
 しかし、そのおぼろげな母への思いと、新たに養母が出来ることとは、また別の問題だ。
「……正直、よく分かんねえ。それに、もし本当にじじいに思い人がいたとして、こんなこぶつきじゃ相手も困るだろ――って……そっか、そうだよな」
 いくら養父に「早く結婚しろ」と迫ってみたところで、それを妨げているのが誰であろう自分自身の存在だとしたら――。
 急に勢いを失くしたラウルを横目に、ダリスは胸を張ってきっぱりと断言した。
「その程度で困っているようでは、そもそも私と付き合うことなどできんだろうよ」
「じじい……」
 自身の扱いにくさを正確に理解しているあたりは評価すべきところだが、『その程度』扱いされたことには抗議すべきだろうか。悩むラウルを横目に、オーロが苦笑を漏らす。
「素直に言ったらどうです。ラウルを邪魔者扱いするような人間など、こちらから願い下げだと」
 図星を刺されてそっぽを向くダリスに、今度はドロテアが真正面から追撃を加えた。
「ラウルを除け者にせず、なおかつ取扱いの難しいお兄様をうまく転がしてくださるような、そういう方に心当たりはあるの?」
 これまた身も蓋もない言い方だが、言い得て妙である。
 ぐっと言葉に詰まるダリスに、ドロテアは穏やかな笑みを浮かべて続けた。
「あのね、お兄様。私、何が何でも白状させてやる! と思ってやって来たけど、ここに来るまでの間に、ちょっとだけ気が変わったのよ」
 思いがけない発言に、ぎょっと目を瞠る三人。彼らの視線を一身に受けながら、薫り高い茶をゆっくりと飲み干したドロテアは、すいと姿勢を正すと、改めて兄へと向き直った。
「……ずっと心配していたわ。家を飛び出したお兄様が幸せに暮らしているのか。辛い目に遭っていないか。……もしかして、とっくの昔に、誰も知らない場所で一人寂しく朽ち果てているんじゃないかって」
 残された家族に出来ることは、ただひたすら無事を祈ることだけ。便りのないのは元気な証拠と笑い飛ばしてみても、心のどこかではいつも不安と闘っていた。
「本神殿に勤め始めてからも、ろくに手紙も寄越さないし、かと思えばいきなり養子を迎えたとか言い出すし。それなのに身を固める気はないとか、一体何を考えてるの? って、ずっと思ってたの」
 でもね、と机の上で手を組み、どこか晴れ晴れと笑うドロテア。
「今日、ここに来る前に、お兄様と親しくしている人達とお会いして、お兄様がこの町でどんな風に暮らしているのか少しだけ分かったの。誰よりも熱心に神官としてのお勤めを果たしていることも、それ故に大勢の人から慕われていることも。それに、一番心配だったラウルも、こんなに真っ直ぐな良い子に育っているんですもの。何も心配いらなかったわね」
 思いがけず手放しの称賛を浴びせられて、揃って挙動不振に陥る親子を、オーロが楽しそうに見つめている。
「だけど、これだけは教えて欲しいの。どうして結婚したがらないのか、その理由を。それできっと納得するから」
 お願い、と見つめてくるドロテアの、その幼い頃とちっとも変らない真っ直ぐな瞳に、小さく息を吐いたダリスは降参とばかりに両手を挙げた。
「……お前には負けるよ」
「ふふ、お兄様は結構、私に甘いわよね」
 嬉しそうに笑う妹に、まったくもうと頭を掻いて、ダリスはつい、と窓の向こうに目を向ける。青く澄み渡る空、その遥か彼方を見通すように。
「――待っている人がいる」
 そっけない言い回しだが、その横顔にはどこか照れがあった。こんな表情の彼を見るのは、この中で一番付き合いの長いオーロでさえ初めてだ。
「詳細は事情があって言えない。ただ、そうだな……。これは、私の壮大な片思いなんだろうな」
 苦笑混じりに語るダリス。しかしその琥珀色の双眸に宿るのは、力強い決意の光だ。
「叶わないかもしれない。だが、諦めるつもりは毛頭ない。これが、私が独り身を貫いている理由だよ」
 納得してくれるかい? と尋ねる兄に、ドロテアはそうねえ、と少しだけ考えるふりをして、そしてぷっと吹き出した。
「そんな、叱られている子供みたいな顔しないで。分かったわ。納得しました」
「……本当に?」
 驚いたような顔で問いかけるダリス。彼もまさかこれくらいで妹が引き下がるとは思ってもいなかったのだろう。
 確かに、ここに来る前のドロテアなら、こんな曖昧な説明では到底、納得などできなかったはずだ。「また、そうやって煙に巻こうとしてるのね」と糾弾したかもしれない。
 しかし、今は違う。兄の本音を、こうして自分の目で確かめられたから。
「お兄様が嘘をついてないって、ちゃんと分かるもの」
 ね、とラウルに向けて片目を瞑ってみせ、そしてドロテアは満足げな顔で立ち上がった。
「それじゃ私、帰るわね」
「ええ!?」
 綺麗に揃った男性陣の声に、朗らかな笑い声で応えながら、ドロテアは手際よく身支度を整えていく。
「こう見えても私、忙しいのよ? ほんとはね、今回は半分仕事で来てるの。このあと取引先を回って、明日の昼にはここを発たないと」
 最後に帽子をきゅっと被って、澄ました顔で優雅に一礼してみせるドロテア。
「ごきげんよう、皆様。次は仕事抜きで来るわ!」
「次からは事前に連絡すること。そうすれば、ちゃんと予定を空けておくから」
 兄の威厳を保とうと精一杯に真面目ぶった顔は、最後までもたずに笑み崩れる。
「またのご訪問を心よりお待ち申し上げております。お手紙もお待ちしておりますよ。ちゃんと間を空けずに返事を書くよう、私がしっかり見張っておきますので」
 隣でダリスが潰れた蛙のような声を出したことなど知らんぷりで、差し出された手をしっかりと握りしめるオーロ。
「次に来た時は、とびきりの場所に案内するよ。えっと――」
 『叔母さん』と呼ぶのもしっくりこないし、しかしいきなり名前を呼び捨てにするのも躊躇われる。口ごもるラウルの手をぎゅっと握って、ドロテアは朗らかに宣言した。
「ドロシーと呼んで。親しい人はみんなそう呼ぶの」
 あなたもそのうちの一人よ、と力いっぱい宣言されたようで、なんだか気恥ずかしい。
「じゃあ、ドロシー。また来いよ。じじいがとんずらしそうになったら、俺がちゃんと捕まえておくから」
 照れくささを隠すように、わざとそんな憎まれ口を叩いてみたが、ダリスは目を細め、オーロはおやまあと驚いてみせ、そしてドロテアは嬉しそうに大きく頷いてみせた。
「頼もしいわ。じゃあ、お兄様をお願いね、ラウル。オーロさんも、ご迷惑おかけしますがよろしくお願いいたします」
 最後に深々と一礼し、そして春嵐のような彼女は、旅装の裾をひらりと翻して軽やかに執務室を後にした。
「……! 待ちなさいドロシー、前に来た時、神殿内で迷子になったのを忘れたのか!」
 一瞬遅れて、慌てふためいた様子で追いかけるダリス。何やら賑やかに交わされる兄妹の会話が廊下に響き渡り、そして遠ざかっていく。
 そして、思いがけず取り残されたラウルとオーロは、どちらからともなく顔を見合わせ、そして同時に吹き出した。
「じじいの慌てる姿が見られるなんて、今日は雪だな!」
「お手紙を拝見していて、愉快な方だとは思っていましたが、いやはや本当に……さすがあの方の妹君ですね」
「兄妹って面白いもんだな。見た目は全然似てないのに、中身はそっくりだ」
 不思議がるラウルを楽しそうに見つめて、オーロは「ええ、本当に」とだけ答えてやった。
「……さて、エバスト高司祭の『結婚しない理由』が判明したところで、お稚児疑惑に関してはどう対処しましょうかね」
 嫌なことを蒸し返されて、苦虫を噛み潰したような顔になるラウル。
「素直に『高司祭には実は思い人が』と言ったところで、信じてもらえそうにないし……ああ、そうだ。こういうのはどうでしょう」
 嫌な予感がして思わず身構えるラウルに、オーロはぴっと人差し指を立ててこう続けた。
「あなたが女好きだという噂を流せばいいんですよ」
「おい、ちょっと待て!」
「おや? 女性が嫌いでしたか?」
「好きだよ! 好きだけど!」
「それなら好都合です。あなたが『女の子と見たら声を掛けずにいられない根っからの女好き』だという認識が広まれば、お稚児疑惑などあっという間に吹っ飛びますよ」
 確かにそうかもしれない。そうかもしれないが、何か根本的なところでずれている気がする。
「そもそも、真実なんてさほど重要ではないんです。ほかに突けるところがないから、そんなどうしようもない噂を吹聴して、あなたが激昂するのを見て楽しんでいるだけです。相手の思惑にわざわざ乗ってやる必要などありません」
 淡々とした言葉に、噴き上がった怒りがゆっくりと鎮まっていく。そしてどうにか普通の顔色に戻ったラウルは、やれやれと息を吐いた。
「あんたも大概、とんでもない奴だよな」
「そうでないと、あの方の秘書など務まりませんからね」
 しれっと答えて、まあ冗談はともかく、と笑うオーロ。
一体どこからどこまでが冗談だったのか、追及するのが恐ろしくて口を閉ざしたラウルは、深く嘆息すると、茶器の片付けを手伝うべく、手近にあったお盆を取り上げた。
「……まあ、努力してみるさ」
 ぼそりと呟いた言葉は、誰に対してのものでもなかったが、ばっちり捕捉されたようだ。
「はい。私も出来る限り協力しますから」
「いや、いい。怖いからいい」
「遠慮しなくていいのに」
「全力で遠慮する!」
 傍から見れば実に楽しそうなやり取りに、ようやく戻ってきた執務室の主は、琥珀色の双眸をきらりと輝かせて、やあやあと声を張り上げた。
「親愛なる息子ならびに腹黒秘書よ、今度はどんな悪だくみの相談だ?」
「何が『親愛なる』だ、気持ちわりい!」
「腹黒とはなんです!」
 抗議の声を右から左に聞き流し、二人の肩にがしりと腕を回す。
「まあ、これからも一つよろしく頼むよ、お二人さん」
「おいやめろ懐くな! 重いんだよ!」
「やめてください、茶器が壊れます!」
 邪険にあしらわれ、わざとらしく傷ついた顔をするダリスに、ようやくその腕を振りほどいたラウルがげんなりした顔で喚く。
「時と場合を考えろってんだ、このくそじじい!」
 その言葉を聞いて、それはもうにんまりと笑うダリスに、ああこれはマズイことを言った、と思ったが、時すでに遅し。
「そうか、時と場合を考えればいいんだな。実は、ドロテアが来るならと夕飯を用意しないでもらっていたから、今日はこのままミラベルの店にでも繰り出すとしようじゃないか」
「なっ、おい、夜の礼拝はっ……」
「そうですよ高司祭、しかも今日は説法当番の日じゃありませんか!」
「なに、ユーク様はそんな、一回くらいお祈りを抜かしたくらいで目くじらを立てて怒るお方じゃないさ」
「ユーク様はそうでも、副神殿長が黙っていませんよ!」
 秘書の叫びを聞かなかったことにして、すたすたと歩き出すダリス。これはもう何を言っても無駄だと判断し、オーロは傍らの少年へと囁いた。
「先に行っていてください。私はどなたかに説法の代行をお願いしてから向かいます」
「分かった。ちゃんと来いよ!」
 背中をばしんと叩いて、弾むような足取りで養父の後を追いかけるラウル。
「おい待てよ、じじい!」
「なんだ、店まで競争か? まだお前に負けるつもりはないぞ」
「そうじゃねえって! こんな時間に行ったって、まだ店は開いてないっての! おい、聞けって!」
 賑やかに去っていく二人には、これから盛大な規律違反をするという意識すらないのではないか。
「やれやれ……。明日は雁首並べて罰掃除、で済めばいいんですけどねえ」
 とほほ、と溜息をつきながらも、その目は笑っている。
 そうして、有能なる秘書は茶器を載せたお盆を取り上げると、そそくさと執務室を後にした。
終わり