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第一章[9]

 エルドナの街に来るのは久しぶりだった。とはいえ、この街にはあまり良い思い出がない。
「らうっ! あれなにっ!」
 広場に面した時計台を指差す少女は、街に入る前から興奮冷めやらぬ様子で、見るもの全てに興味深々である。街壁に囲まれた街や高い石造りの建物、そして石畳が敷き詰められた広場やそこを忙しなく行き交う馬車も、少女にとっては初めて目にするものだ。はしゃぐのも無理はない。
「時計台だ。鐘つき堂のすごい奴だな」
 いたく適当な答えを返しながらも、久しぶりに見る活気溢れる街に、ラウルもどこか上機嫌だった。彼が育ったラルスディーンとは比べ物にもならないほど小さな街ではあるが、雑多な街並みはどこか故郷を思い出させる。
 エストから徒歩五日。このエルドナはローラ国東部で一番大きな街だ。主要街道の中継地点だけあって、ここには旅人も多く集まる。
 エルドナから首都ローレングまでは乗合馬車を使って二十日ほど。その乗合馬車の受付が広場に面した建物にあると聞かされて、ラウルと少女、そしてエスタスは広場にやってきていた。行くところがあるというアイシャとカイトとは、後で落ち合うことになっている。
「あそこ、なに? いっぱい、ひと、いるの」
 次に少女が指差したのは、広場の一角で行われている青空市だった。露店が立ち並び、食料品や雑貨などが売られている。その賑やかな様子が気になったらしく、今にも駆け出して行きそうな少女に、
「あれは市場だな。色んな物を売ってるんだ」
 ラウルはそう答えながら、はしっとその首根っこを捕まえた。
「ふらふらすんな! 人が多いんだ、はぐれたら困るだろ!」
「いやぁ、あっち、いく〜!!」
「だめだ!」
 駄々をこねる少女を抱き上げて逃げられないようにしてから、やれやれとラウルは隣のエスタスを見た。乗合馬車の受付で乗車の手続きをしていた彼は、不満げな顔をしている少女のほっぺをつついてやりながら、受付の男に再度確認をする。
「それじゃあ、夕の一刻にまたここに来ればいいんですね」
「ああ、そうだ。乗り遅れないように注意しとくれよ」
 ローレング行きの乗合馬車は十日に一便しか出ていない。エルドナに着いた今日が馬車の出発日とうまく重なったのは幸運だった。
(この街に十日もいたくねえからな)
 エルドナにいい思い出がないのもあるが、ラウルがここに長く滞在したくない最大の理由が一つある。
「……ところでそこの兄さん、もしかして、エストの神官さんじゃないかね?」
 期待のこもった眼差しに、ラウルは引きつった笑いを浮かべた。
「はあ、そうです……」
 そう。ラウルがここに留まりたくない最大の理由。それこそがこの街での、いやに高い知名度であった。
「やっぱりそうだったかい。いやね、あっしはあの時、領主の屋敷が火事だってんで慌てて様子を見に行ってねえ、その時アンタをちらっと見てるんだよ。酷い有様だったなあ、ありゃあ。しかし、元気そうで何よりだ」
 喜色満面で喋り続ける受付の男。こんなやり取りを、この街に入ってもう何度繰り返しただろう。
(勘弁してくれよ、ほんと……)
 もううんざりだ、と心の中で呟いたラウルに、肩に担がれたままの少女がくすりと笑った。

 去年の初冬、この街で起こった一つの事件がある。このエルドナの領主が『影の神殿』とかいう怪しい連中と結託して、辺境の村の神官を誘拐・監禁した事件だ。
 神官は仲間によって救出され、領主は自らの屋敷に火を放って逃げ遂せようとしたものの、警備隊によって捕縛された。当然の如く領主は交代し、年明けにようやく新たな領主を迎えたばかりである。
 領主に手酷い拷問を受けながら、その命を賭してまで竜の卵を守らんとした神官ラウル=エバスト。領主の悪行が明るみになり、同時にラウルの名も広く轟いた。彼は英雄の如くもてはやされ、その名は「卵神官」という愛称と共に広まっている。
 当時、実際に彼を見た者は少なかったが、北大陸では珍しい黒髪に黒い瞳はただでさえ人目を引く。そうして、街の入り口を守る警備兵に始まって、その辺を駆けずり回っていた子供、はたまた広場でのんびり日向ぼっこをしていた老婆までが、彼を見て声をかけて来る始末だ。最初はそれでも愛想良く対処していたが、こうも立て続けだといい加減に疲れる。
「……そういや、竜の卵は無事孵ったんだって? 良かったじゃないか。でも寂しいだろう、折角手塩にかけて育てたもんがいなくなっちまうってのは。あっしもこの間、娘を嫁にやってねえ……」
 先日エストを訪れた伝令ギルドの配達人ティーエが流したものなのか、彼が命を賭して守り抜いた竜の卵は無事に孵り、そして去っていったという話が街でもしっかりと定着していた。さすがに遠縁の子供を引き取って云々はさほど広まっていないようだが、それでもいちいち竜の行く末について聞かれないことはありがたい。
 あらぬ方向に脱線していく男の話を聞き流しつつ、ラウルは首を捻って肩の上の少女に視線をやった。荷物のように担ぎ上げられたままの彼女は、涙ながらに話す男の口調や仕草が面白いのか、ラウルよりも真剣に耳を傾けている。
(まさか、これがその竜だとは思わないだろうなあ……)
 心の呟きが聞こえたのか、少女がぷぅっと頬を膨らませた。その顔があまりにも面白くて、ラウルは笑いながら少女を地面に降ろしてやった。
「……ところで、ローレングへは何しにいくんだい?」
 ようやく嫁いだ娘の話を終えた男の言葉に、ラウルはただ仕事ですとだけ答えた。男もそれ以上は詮索しようとはせず、代わりにこんなことを言ってくる。
「そうそう、今ローレングを騒がしてる盗賊の話、知ってるかい?」
「盗賊?」
 眉をひそめるラウルに、男はにやり、と笑ってみせた。
「ああ、その名も怪盗《月夜の貴公子》ってんだな、これが」
「怪盗?」
 近年あまり耳にしなくなったその言葉は、聞く者をときめかせる不思議な響きを持っていた。

 怪盗《月夜の貴公子》。その名前は今年に入ってから、人々の口に上るようになった。
 黒い外套を翻して夜の首都を飛び回る、謎の盗賊。その手口は極めて鮮やかで、これまでに貴族や豪商の屋敷など合わせて十軒ほど被害に遭っている。
「その話、さっき寄った本屋でも聞きましたよ。被害総額も結構な額に上ってるみたいですしね、守備隊はやっきになってその怪盗を捕まえようとしてるらしいですよ」
 広場近くの食堂に落ち着いて軽食を取りながら、ラウル達は先ほど聞いた怪盗の話に花を咲かせていた。合流したカイトやアイシャも、街のあちこちでその話を聞いたという。
「でも、御伽噺の怪盗と同じ名前だなんて、ちょっと捻りがないよなあ」
 苦笑いを浮かべてそう言うのはエスタスだ。それは、東大陸では割と有名な物語らしい。ラウルは聞いたことがなかったが、エスタスと同郷のカイトは勿論、なぜか南大陸出身のアイシャまでもがその話を知っていた。
「一体どんな話なんだ?」
「確か……「美の守護者」とか名乗って、芸術品や宝石なんかを華麗に奪っていくんですよ。こう、薔薇かなんかを口にくわえて、夜空に高らかな笑い声を響かせながら去っていく感じの、気障な怪盗だったような……」
「……現実にそんなのがいたら変態だぞ」
 まあ口に花をくわえているかどうかはともかくとして、今首都を賑わせている《月夜の貴公子》もまた、洗練された手口で鮮やかに盗みを働いているという。家人に危害など加えることもないし、狙う家といえば全て、日頃からいい噂の聞かない金持ちだったり貴族だったりするものだから、街の人間はむしろ喜んでいるくらいだ。
「しかも毎回、手紙を残していくんだそうです。『宝剣はいただいた 姫に相応しきもの すべてを我が手に 《月夜の貴公子》――』とか……」
「姫に相応しきもの?」
 なんだそりゃ、と首を傾げるエスタスに、カイトは待ってましたとばかりに口を開く。
「なんでも、この怪盗はローラ国建国の祖である初代ローラ姫ゆかりのものばかりを狙っているそうなんですよ。ローラ姫というのは、三百年ほど前にこの国を興したといわれる、勇猛にして華麗な剣の使い手と名高い姫将軍でして……」
 かつて北大陸は一つの国家によって統治されていた。しかし三百年ほど前、苛烈な後継者争いが内乱へと発展し、国は大いに乱れたという。その争いを収めたのが年若い双子の姫ローラとライラ。二人は国を二つに分け、西側を姉のライラ、東側を妹のローラが治めるようになった。以来北大陸には平和がもたらされ、三百年の長き時を平穏に過ごしている。
「初代ローラ姫って、ローラって名前の姫がそんな何人もいるのか?」
 素朴なラウルの疑問に、カイトは大きく頷いた。
「初代以降、第一王女には必ずローラという名を付けるのがしきたりとなっているんだそうです。だから現在の王女もローラ姫というんですよ」
「王女ねえ……」
 ラウルが王家の話を耳にするのはこれが初めてのことだ。何しろ辺境のエストには首都の話題すら伝わってこない。ましてそこに暮らす王族など、雲の上の存在もいいところだ。
 現在のローラ国王はヴァシリー三世。今は亡き第一王妃との間に王子が一人、そしてこちらも今は亡き第二王妃との間に王女が一人いる。二人の王妃をどちらも急の病で亡くした国王は、彼女らの残した子供達を目に入れても痛くないほどに慈しんでいるという。
「ローラ殿下は今年で十五歳になるお姫様で、あまり国民の前に姿を現さないらしいんですけど、かなりの美貌を誇る姫で、清楚で可憐なその御姿を描いた肖像画は大人気らしいですよ」
 まあ、王族を描いた肖像画ほど当てにならないものはないから、実のところは人並みか、それ以下ということも十分あり得る。とはいえ、美貌の姫という表現には心そそられるものがあった。
「そんなに美人だってなら、一目拝んで見たいもんだな」
 しまらない顔のラウルに少女が顔をしかめる。と、窓の外を見つめていたアイシャがすい、と席を立った。
「時間」
 そう言ってスタスタと歩き出すアイシャ。見れば、窓の外に見える時計台の大時計は、もうすぐ乗合馬車の出発時刻が迫っていることを示していた。
「そろそろ行かないとまずいですね」
 荷物を担ぎあげるエスタス。ラウルも少女をひょい、と椅子から降ろすと、走り出そうとする少女をがしっと捕まえて言いつける。
「いいか、馬車の中ではくれぐれも大人しくしてるんだぞ」
 二十日間に及ぶ馬車の旅。乗合馬車であるからして、勿論彼ら以外にも乗客がいる。そんな中でこの少女が果たして大人しくしていられるか、不安で仕方がない。
「らうっ! ばしゃっ、のるっ。たのしい〜」
 一方の少女は初めての馬車の旅にいたく浮かれており、そのはしゃぎっぷりは馬車が動き出し、その揺れに彼女が気分を害するまで続いた。
 雪解けからそう時間が経っていないこともあり、街道はいたく道が悪かった。当然、そこを走る馬車は揺れに揺れる。
「……おまえ、仮にも「アレ」だろうが……頼むから馬車で酔うなよ……」
「あう〜……」
 かくして、二十日間の旅路は少女にとって、まさに苦難の道中と成り果てた。

「……るふぃーり、ばしゃ、きらい〜」
 膝の上に寝転がって呟く少女に、ラウルは呆れ果てつつも、少しでも気分が良くなるようにと安らぎをもたらす聖句を唱えてやる。
 そんな微笑ましい二人の様子に、同乗していた老婦人が、
「まあ、優しいお父様ですこと」
 などとにっこり言ったがために、その場の空気が引きつったことは言うまでもない。
 とにもかくにも、首都までの二十日間は比較的穏やかに過ぎ去って行った。

 そうして、二十日目の朝。
「ほらお嬢ちゃん、見てごらん。あれが首都ローレングだ」
 御者台に乗せてもらっていた少女は、御者の言葉にうわぁと目を輝かせた。先ほどまでの憔悴ぶりはどこへやら、身を乗り出さんばかりに前方を食い入るように見つめている。
 道の先、まだ霞んで見えるほど彼方に、首都ローレングの街壁が見える。その向こうに見える尖塔は白亜の城ファトゥールだろうか。朝日に照らされた尖塔はまるで、黄金のように光輝いている。
「らうっ、まち! まち、みえたっ!」
 御者台から身をよじって馬車の中へと報告する少女に、ラウルはああ、と自らも窓から身を乗り出して、前方に広がる光景を眺めた。
「あれがローレング、か……」
 目的地が見えてきたことで、馬車内が俄かに沸き立つ。ラウル達の他に乗客は三人。彼らはみな首都に暮らす人間だ。それまで疲れた顔を見せていた三人も、瞳を輝かせて窓から外を覗き見ていた。
「はてさて例の怪盗騒ぎはどうなったことやら」
 首都で乾物屋を営んでいるという男の呟きを聞きつけて、御者が苦笑いを浮かべた。
「こっちとしちゃあ、捕まってて欲しいですな。何しろ、あいつが出るようになってから出入りが厳しくなってるんだ。着いてもすぐには中に入れないと思って、覚悟しといて下さいよ」
 やれやれ、と肩をすくめる男に、仕方ないことですよ、と穏やかに笑う老婦人。御者の男は手綱を握り直し、最後の一踏ん張りと張り切って馬を繰る。速度を上げて街道を疾駆する馬車。長かった旅もようやく終わりが近づいてきた。
「ともあれ、ようやく馬車の旅も終わり、か……」
 これで当分彼女の苦しそうな顔を見ないで済むな、と、ラウルはほっとした顔で、まだ遥か彼方にそびえる街壁を見つめていた。

第一章・終
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