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第二章[2]

「遠いところをよく来てくれたね、エバスト神官」
 柔和な笑顔で手を伸べてきたハルマン高司祭に、ラウルは至って真面目な顔でその手を握り返した。それを緊張と受け取ったのか、高司祭は尚も穏やかにラウルの顔を見つめて続ける。
「報告書は一通り読ませてもらった。情けないかな、一連の事件を私が知ったのは全てが終わった後でね。首都の分神殿を預かるものがこの体たらくだ、君もさぞ失望したことだろう」
 自嘲めいた笑みを浮かべる高司祭は、髪も髭も雪のように真っ白な、いかにも好々爺といった印象を受ける御仁だった。もっと陰気臭い人物を想像していただけに、いい意味で裏切られた。ゲルクよりは大分若く見えるが、恐らくは八十近いのだろう。足を悪くしているのか、近くの壁には使い込んだ杖が立てかけられている。
「残念なことだが、この分神殿にも影に通じている者が存在したようでね。事件の後、徹底的に内部調査を行って分かったことなのだが」
 影の神殿に関する情報はおろか、ラウルが送った支援要請の手紙すらも全てその者達が握りつぶしていたのだという。彼らはすでに守備隊へと引渡し、現在はクストー神殿による法の裁きを待っているところだと付け加えてから、ハルマンは再び穏やかな瞳でラウルを真っ向から見つめ、そして言葉を続けた。
「ラウル=エバスト正神官。私からも改めて礼を言わせてもらう。よくぞ影の神殿を壊滅させ、そして悲しき宿命を負わされた一人の少女を解き放ってくれた。君の働きがなければ、六十年前の悲劇を再び繰り返すところだったのだ。どんなに言葉を尽くしても足りないほどだよ」
「いえ……私はユークに仕える者として、使命を全うしただけです。高司祭様よりそのような勿体ないお言葉をいただくなど……」
 畏まるラウルに、高司祭は謙遜せずともいい、と首を横に振る。そして、続けてとんでもないことを言ってきた。
「このことは国王にも報告済みなのだが、陛下が是非、当事者である君の口から事件の詳しい顛末を聞きたいと仰っておいででね。長旅で疲れているところを悪いのだが、すぐにでも王城へ出向いてもらいたいのだ。ああ、勿論私も同席するが」
「国王陛下が、ですか?」
 思わず驚きの声を上げるラウル。まさか、ここで国王が出てくるとは思わなかった。
(おいおい、冗談じゃないぞ)
 ただでさえ堅苦しいところは苦手なのに、よりにもよって御前報告をする羽目になるとは。しかし、嫌だと言ったところで聞き入れられるわけもない。
「ひとまず、先に城へ向かってもらえるだろうか。私はこれから人と会う約束をしていてね、遠方からわざわざ見えた客なので待たせるわけにも行かない」
 急な話で本当にすまないね、と心底申し訳なさそうに言ってくる高司祭に、ラウルは慌てて、とんでもない、と首を横に振る。
「国王陛下の御尊顔を拝する機会に恵まれるとは、光栄の至りです」
 口ではそう言ったものの、内心「めんどくせー」と呟いているラウルに、そんなことを知る由もないハルマンは柔和な笑顔を向けてくる。
「では、誰か道案内をつけよう」
 壁から吊るされた紐を引くと、どこか遠くで軽やかな鐘の音が響いた。まもなく足音が聞こえてきて、扉の前でひたり、と止まる。
「お呼びでしょうか」
 扉の向こうから響いてくる声に、ハルマンは入りなさい、と応じる。すぐに扉が開き、神殿長の執務室に現れた人物を見て、ラウルは一瞬顔を強張らせた。
「失礼します」
 一方、入ってきたその人物も、神殿長と向かい合っているラウルを見るなり表情を変え、それどころかあからさまに睨みつけてくる。
 年の頃は三十を少し越えたほどか。くすんだ茶色い髪と瞳の、どこか陰気な印象を与える男。黒い神官衣に飾られた紐の色は司祭を示す緑色をしていた。そんな彼はラウルの腰紐に視線を走らせ、一瞬だけ口の端を吊り上げる。
 そんな彼らの態度に気づくことなく、ハルマンはやってきた人物を手招きすると、手短に言いつけた。
「ドゥルガー副神殿長。彼はエストからやってきたラウル=エバスト神官だ。すまないが、彼を王城まで案内してくれるかね」
「……承知しました」
 ラウルを睨みつけたまま押し殺した声で答えるドゥルガー。ラウルもまた、珍しいものを見るような顔つきで彼を見つめたままだ。
「どうした?」
 とても初対面同士の態度ではない二人にようやく気づいて、ハルマンが眉をひそめる。と、澄ました顔でラウルは深々と、それはもうわざとらしく頭を下げて言ってのけた。
「お久しぶりです。本神殿では色々とお世話になりました」
 多分に棘のある言葉に、ドゥルガーも慇懃無礼に言葉を返す。
「元気そうで何よりだ。本神殿から転任したことは聞き及んでいたが、まさかここでまみえることになるとは思いもよらなかった」
「なんと、君達は知り合いかね?」
 目を丸くするハルマンに、ドゥルガーはふい、とラウルから視線を逸らす。
「かつて共に本神殿に籍を置いていた、それだけの間柄です」
「本神殿ということは、もしや君は……?」
 恐る恐るといった様子で尋ねて来るハルマンに、ラウルはつとめて簡潔に答えた。
「本神殿長ダリス=エバストの養子になります」
 その言葉にドゥルガーの眉間に皺が寄るが、ハルマンはそれに気づくこともなく顔を輝かせる。
「なるほど、名を聞いてそうではないかと思ってはいたが、やはり本神殿長の御子息であったか。血の繋がりはないとはいえ、流石は――」
「神殿長」
 と、ドゥルガーが半ば強引に割り込んだ。呆気に取られるハルマンに、ドゥルガーは無表情に続ける。
「彼を王城へと案内すればよろしいのですね」
「ああ、頼む。城にはもう知らせてある」
 それだけ聞けば十分とばかりに、彼はくるりと踵を返す。
「ではエバスト神官、参ろうか。それでは失礼致します」
 足早に部屋を去っていくドゥルガー。いつもの彼とどこか違う態度にハルマンは一瞬眉をひそめたが、人を待たせていることを思い出してすぐにラウルへと声をかけた。
「それでは、また後ほど王城で会おう」
「はい」
 丁寧に会釈をして、ラウルは扉を開けて待っているドゥルガーの元へと歩き出した。


 無言で歩き出したドゥルガーは、ラウルを引き離そうとしているかのようにスタスタと廊下を突き進んで行く。置いていかれてはたまらない、とこちらも速度を上げるラウル。そうして神殿の通用門に辿り着いたところで、辺りに人気がないのを確認して、不意にドゥルガーは足を止めた。
「おっと」
 ラウルも慌てて立ち止まる。何なんだ、と目の前の人物を見ると、彼はあからさまに侮蔑の表情を浮かべ、口を開いた。
「……二度とその顔を拝むことはないと思ったがな、ラウル=エバスト」
 憎々しげなその言葉に、ラウルはふん、と鼻を鳴らす。
「それはこっちの台詞だ。まさか、あんたがここの副神殿長に収まってるだなんてな、リヒャルト=ドゥルガー司祭。親子揃って副神殿長たぁ、よっぽどその立場が好きなんだな」
 ドゥルガー。それは、ラウルが本神殿にいた頃、副神殿長を務めていた高司祭の名だった。そして目の前にいるリヒャルトはその一人息子に当たる。かつては共に本神殿務めをしていたが、数年前にどこかの分神殿に転任して、それきり噂も聞かなくなっていた。まさか、このローレングで副神殿長の座に就いているとは。
「報告を受けた時は同姓同名の者かと思っていたが、まさかお前本人だったとは……。なぜ、お前ごときが……」
 苦々しく呟くドゥルガーの言葉を聞いて、ラウルは大仰に肩をすくめてみせた。
「そりゃあもう、神のご意思って奴じゃないのか?」
 その言葉に、ドゥルガーの顔が一瞬にして憤怒の表情に彩られる。
「貴様がっ!」
 物凄い剣幕でラウルの胸倉に掴みかかるドゥルガー。とはいえラウルの方が身長も高く、ましてドゥルガーは腕っ節の強い男という訳でもないから、掴まれたところでどうということもない。というわけで、間近に迫ったかつての同僚の顔をまじまじと見ながら、余裕の表情で次の台詞を待ってやる。
「貴様がその言葉を口にするべきではない! どこの馬の骨とも知らぬ浮浪児の分際で、本神殿長の息子と名乗ることすらおこがましいものを、今度はなんだ、ローラ国を救った英雄気取りか! いい気なものだ!」
 先ほどまでの冷静さはどこへやら、感情を爆発させて詰め寄ってくるドゥルガーに、ラウルは盛大なため息をついてみせた。
「変わってねえな、あんた」
 本神殿にいる頃から、この男はいつもそうだった。副神殿長の息子であることを鼻にかけ、また養子とはいえ神殿長の息子であるラウルに対し、一方的に敵対心を燃やしてくる。
 実力ではラウルに及ばないことが余計に嫉妬を煽ったのか、何かにつけてラウルを陥れようとしていたドゥルガー。転任が決まった時はこれでうるさい奴が一人減ったと小躍りしたものだが、こんなところで再会するとは思いもよらなかった。
「年長者に向かってその口の利き方はなんだ! それに! 私は司祭だぞ、お前よりも階級が上なのだ!」
「それがどうした。俺は相手を見て喋ってるんだ、敬って欲しかったらそれなりの態度を取れよ」
 いきり立っているドゥルガーに「俺だって今度司祭になるんだぞ」とは流石に言えず、ラウルはそう受け流す。しかし彼はラウルの言葉など聞く耳持たず、更に怒声を浴びせる。
「しかも何だ! 白粉の匂いを漂わせて神殿にやって来るなど、聖職者として許される行為だと思っているのか!」
 顔をしかめて言ってくるドゥルガーに、おや、とラウルは袖元を鼻先に近づける。
「そんなに匂うか?」
 悪びれた様子もなく言うラウルに、ますます目を吊り上げるドゥルガー。
「恥を知れ、恥を!」
「うっせえよ。俺がどこで何をしようが、あんたには関係ないはずだろ。第一、こっちはあんたの父親をはじめ本神殿のお偉方のせいであんな僻地に飛ばされて、以来一年近くも女っ気のない生活を強いられたんだ。このくらい大目に見ろっての」
「そんなこと……自業自得だ! まったく、どうしてこのような俗物が本神殿長の養子になど……いや、そもそもあのような成り上がりが神殿長を務め――」
「おい」
 凄みのある声に、ドゥルガーは言葉を途切れさせる。そうして目の前のラウルを見たドゥルガーは、その眼差しの鋭さに思わず体を硬直させた。
「俺のことはいい。だがな、あのじじいをどうこう言うんじゃねえ。分かったか」
 それまでのへらへらとした態度はどこへやら、その威圧感に思わず掴んでいた手を離すドゥルガー。ラウルはふん、と鼻を鳴らすと、再び口元に薄笑いを浮かべてみせる。
「ほら、いつまでこんなところで突っ立ってるつもりだ。とっとと案内しろよ、副神殿長殿」
 どこまでも人を小馬鹿にしたようなラウルの物言いに、ドゥルガーは憎々しげにラウルの顔を睨みつけたが、相手にするだけ無駄だと言わんばかりに口を閉ざし、王城までの道のりをひたすらに歩き出した。

* * * * *

 扉が開く音に、椅子に腰掛けていた人物はすっと視線を上げる。
「待たせて済まなかった、ネシウス殿」
 入ってきた分神殿長ハルマンに、ネシウスと呼ばれた長身の男はいいや、と首をゆっくり横に振る。
「突然尋ねてきた私が悪いのだ、お前が気にすることではない」
 穏やかな口調。しかしその声音は若い男のものだ。そんな彼が、齢七十五のハルマンに対して不遜ともとれる言葉遣いで接しているのに、ハルマンはそれを咎めようともしなかった。杖を手放して椅子に腰掛け、親しげに言葉をかける。
「久しぶりだな。かれこれ、二年ぶりになるか」
 彼はハルマンにとって古い友人だった。知り合ったのはもう十年以上も前のことだというのに、このネシウスの姿かたちは髪の筋一本たりとて変わっていない。本人は詳しく語らないが、長命を誇る森人の血を受け継ぐ者なのだろうとハルマンは解釈していた。
「しばらく南の方を旅していた。久しぶりにこちらへ戻ってきたら、ある噂を聞きつけてな。お前なら詳しく知っているだろうと思い、来てみたのだが」
「噂、というと?」
 首を傾げてみせるハルマンに、ネシウスはすい、と鋭い視線を突きつける。
「竜の話だ」
「おお、そのことか。やれやれ、どこからその話を聞いた?」
 昨年起こった、影の神殿による一連の事件。これは同じユーク神を崇める彼らにとっては身内の恥も同然の忌々しい事件だった。まして、彼らは邪法によりこの世界を破滅へと導かんと画策していたという。これが広まればいらぬ混乱を呼ぶと、一連の事件はユーク神殿とローラ国王との協議により国民には伏せられていた。事件が起きた辺境地域では顛末を知る者もいるだろうが、この首都においては人々の口にも上らない。
 それなのに、この友人は一体どこで噂を聞きつけてきたのだろうか。不思議がるハルマンにネシウスは、なに、と嘯く。
「旅をしていれば珍しい噂話には事欠かない。それで……その竜はどうなった。卵の状態で神官に保護されたとは聞いたが、その後の噂をまったく聞かないが」
 詳しいことは語ろうとせず、単刀直入に聞いてくるネシウスに、ハルマンは肩をすくめてみせる。
「無事に卵から孵って、何処かへと飛び去ったそうだ」
 年末に特別便で届けられたエストからの報告書には、ただそうとだけ書いてあった。ユーク神殿からすれば、重要なのは影の神殿が起こした事件の顛末であって、竜の卵に関する情報は二の次だったから、せいぜい「滅多に見ることの出来ない竜の姿を拝めたとは、稀有な体験をしたものだ」程度にしか考えていなかった。
 そんなハルマンの答えにネシウスはしばし俯いて考えを巡らせていたようだったが、ふと顔を上げてハルマンを見つめた。その瞳は青とも緑ともつかない不思議な色合いで、この双眸を見る度にハルマンは故郷の海を思い出すのだ。どこまでも深い、天気によって印象をがらりと変える雄大な海を――。
「そうか」
 ただ一言そう呟いて、彼は瞼を伏せる。そんなネシウスにハルマンは、そうだ、と言葉を続けた。
「ちょうど、その当事者がこの街に来ている。彼なら詳しい話をしてくれるだろう。会うかね?」
 その言葉に、ネシウスは少しだけ表情を動かした。
「そう……だな」
「ならば、すまんがしばし時間をもらえるかね。そうだな……今日は恐らく無理だろうから、明日の昼にもなれば……」
「分かった。待とう」
 そう答えて椅子に深く座り直すと、ネシウスはようやく、用意されていたお茶に手を伸ばした。すっかり冷めてしまったそれを口に含みつつ、向かいでこちらをじっと伺っているハルマンに静かに問う。
「……なんだ」
「いや、貴殿が世間の噂に興味を持つなど、珍しいと思ってね」
 ハルマンの言葉に、ネシウスはふ、と口の端を引き上げる。
「なに、私とて精霊使いの端くれ、竜に興味を持つことはそれほどおかしくないと思うが」
 竜は上位精霊、そしてその竜と交流を持つことは、全ての精霊使いにとって憧れなのだという。
「なるほど、そういうものか」
「ああ……竜は神の眷属、人の世に関わらぬ定め。それを破りしものは……」
 最後の呟きは小さすぎて、ハルマンの耳には届かなかった。
 この風変わりな友人の独り言にはもう慣れている。余計な詮索を彼が厭うことも。だからハルマンは、何も聞かずに杖を取った。
「すまないが、これから王城へと出向かなければならないのでね。客間の用意が出来るまで、ここで待っていてくれるかね」
「そうしよう」
 そう言ってハルマンが退室するのを見送って、ネシウスはお茶を飲み干すと窓辺に立つ。応接室の窓からは、ローレングの街並みが一望できる。そこで繰り広げられる人々の営みを、彼は冷ややかな瞳で見つめていた。

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