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第二章[13]

 頭上の蓋をぐい、と持ち上げると、月明かりがわずかに差し込んできた。
「ここ、どこだ?」
 板を横にずらし、隙間から顔を出してそっと辺りを窺う。どうやらどこかの路地らしい。間近に迫る建物の壁は煉瓦造りで、少し離れたところには年季の入った木箱が堆く積み上げられていた。
「西地区だな。多分、金槌通りだと思う」
 ラウルの隣からひょこっと顔を出したローラはそう言って、ラウルを押しのけるようにして地上へと体を持ち上げる。
「早く上がって来い」
「言われなくてもそうするさ」
 むっとしながら体を引き上げ、石の蓋を元通りに閉める。悪臭に慣らされた体に、地上を渡る夜風はこの上なく清浄に感じられた。
「で、こっからどうするんだ」
 市外へ抜ける道を見失い、仕方なく手頃な出口から地上へ出てきたものの、街から外に出るには市門をくぐる以外に方法はない。
「市門は日の出にならないと開かないからな、それまではどこかで身を潜めているしかない」
「どこかって、どこだ」
「だから、どこかと言っている。私も街にはあまり詳しくないんだ」
「……!」
 顔を引きつらせるラウルの横で、王女はうーん、と顎を掴んで考え込む。そんな彼女を見て何か言いかけたラウルは、はっと耳を澄ませた。
 遠くから響いてくる喧騒、そして複数の足音。夜の静寂を破って響き渡るそれらの騒音が意味するものは、即ち――。
「おい、やばいぞ」
 怪盗《月夜の貴公子》を捕らえるため、すでに守備隊が動き出しているのだろうと推測し、表情をこわばらせるラウル。しかし当本人である王女はのんびりと、
「困ったなあ〜」
 などと呟いているではないか。
「てめぇ……そんな呑気なこと言って……!」
「大声を出すな、見つかるだろう」
 素早くラウルの口に指を突きつけて黙らせてから、王女はひとまず積み上げられた木箱の陰に身を屈めた。それに倣ったラウルは、仕方なしに声をひそめて王女に食って掛かる。
「大体、地下道でお前が迷ったからいけないんだろうが。もうちょっと綿密な計画を立ててからやれってんだ」
「仕方ないだろう、時間がなかったんだ。それに計画を狂わせたのは神官、お前だぞ」
「俺のせいにする気かよ」
「あんなところでお前に会うとは思っていなかったからな。余りにびっくりしたものだから、頭の中に叩きこんだ抜け道がすっ飛んだんだ」
「あのなぁっ……」
 思わず怒鳴りそうになった瞬間、
「おい、何か聞こえなかったか?」
 路地の向こうからそんな声が聞こえてきて、二人は慌てて口をつぐんだ。
 月明かりが差し込む路地に、三人ほどの兵士の影が伸びてくる。
「ん? そうか?」
 路地を覗きこんで、うず高く積み上げられた木箱にため息をつく兵士。
「ったく、路地に荷物を積むなって何度言ったら分かるんだ、あそこの鍛冶屋は」
「仕方ないだろ、店が狭くて中に置けないんだとよ」
「倉庫を借りるなり何なりすりゃいいのに……ほら、さっさと行くぞ。早いところ怪盗をとっ捕まえないとな」
「ああ……。しかし、まさかあの神官がねぇ……」
「人は見かけに寄らないって言うだろ。なんだ、まだ気になるのか?」
「あ、ああ。いや。きっと気のせいだな」
 一応ぐるりと辺りを見回して、兵士は肩をすくめた。闇のわだかまる路地には、何の気配も感じられない。
「さ、隊長にどやされないうちに行こうぜ」」
「ったく、交代したばっかだったってのに隊長も人使いが荒いよなあ」
「ぼやくな。ほら、行こうぜ」
 欠伸交じりの会話と共に足音が遠ざかっていく。
 そうして彼らの足音が聞こえなくなるまで待ってから、木箱の陰に潜んだ二人は揃って息をついた。
「やっぱり勘違いされたか……」
「……そうみたいだな……」
 しかし、ここで馬鹿正直に出て行って「濡れ衣だ」と言ったところで、耳を貸すものはいないだろう。肩をすくめながら、ラウルは小さく開呪の言葉を口にする。途端に辺りを覆っていた闇が薄れ、本来の薄暗い路地が姿を現した。
「……なにはともあれ、今はなんとか守備隊の目を欺いて街の外に出ることだな」
 ここで口喧嘩をしていても始まらない。言いたいことは山ほどあるが、それらをすべて心の片隅においやり、ラウルは務めて冷静にそう言った。
「ああ。しかし……」
 闇が薄れていくのを目を見張って眺めていた王女は、途端に表情を曇らせる。
「どうすればいいのだろう」
 街にはさほど詳しくないという王女に、今日この街に来たばかりのラウル。これでは動きようがない。
「……ったく、参ったな」
 そう呟きながら、ふとラウルは懐にしまった地図のことを思い出した。着の身着のまま巻き込まれたせいで、現在ラウルが所持しているのは腰に差した小刀とユークの聖印、そして懐に入れたまま忘れていた地図の三点だけだ。
 その地図を取り出し、月明かりの下で広げる。詳細な書きこみのされた地図に驚嘆の声を上げた王女は、すぐさま身を乗り出して地図の一点を指し示した。
「今私達がいるのは、多分この辺りだ」
 そこは首都ローレングの西地区に位置する職人街の一角だった。《金槌通り》という名前の通り、鍛冶屋や金属細工の工房が立ち並んでいる。先ほどの兵士も鍛冶屋がどうのと言っていたから、恐らく間違いないだろう。
「一番近い門は西門だが、あの様子では市門全てにも通達が行っているだろう。市壁を越えるにしても……」
 呟く王女を横目に、ラウルは現在地から『幻獣の尻尾亭』までの距離を目算して小さく舌打ちをした。
「駄目だな、遠すぎる……」
「何がだ?」
「仲間がここに泊まってる。俺が仕事で遅くなることを伝言してもらえるよう頼んだからな、下手すればあいつらのところにも兵が行ってるかもしれない」
 あの三人組は心配いらないだろうが、問題はもう一人、いや一匹だ。ただでさえラウルが帰らないことでむくれているだろうところに、『怪盗《月夜の貴公子》の仲間だな!?』などと踏み込んで来られたら、どうなることやら。
 頭を抱えるラウルに、王女は沈痛な面持ちで呟いた。
「すまない……こんなことになるなんて、思っていなかったんだ」
 本当なら、彼女一人で華麗に城を脱出し、今頃は目的地へと向かっているはずだった。それがどこをどう間違ったのか、この神官に怪盗の濡れ衣を着せかけ、更にその仲間にまで迷惑をかけている。
 しゅんとして俯く王女に、ラウルは何か言い掛けて、すぐに止めた。
(そう素直に謝られちゃ、頭ごなしに怒れないじゃないか……ったく)
 王女というからには、我侭で気位ばかり高い姫君を想像していたのだが、この少女ときたらそんな「王女像」からは大分かけ離れている。もっとも、怪盗の真似事などしている時点で相当変わっている、というよりは尋常ではない。
(……ま、あの王の子供じゃ、普通なわけないか)
 大臣達が聞いたら激怒しそうな感想を抱きつつ、穏やかな口調で語りかける。
「謝る暇があったら、さっさと打開策を考えろ」
「でも、そのせいでお前の――」
 なぁに、とラウルは笑ってみせた。
「事情を話せばきっと分かってくれる。気のいい連中だし、それにあいつらならおいそれと守備隊なんかに捕まったりしないだろうしな」
 守備隊の実力にケチをつける気はないが、あの三人組はそこそこ腕の立つ冒険者だ。その腕前はラウルも一目置いている。万が一兵士に捕らえられるようなことがあっても、恐らくは事情を察して上手く立ち回ってくれるだろう。
(問題はあのチビだが……、まあ、あれだけちゃんと約束させたし、エスタス達の言うことを聞いてくれりゃなんとかなるだろ)
 そのルフィーリがすでに彼らの手を離れ、ラウルの元へひた走っていることなど露知らず、ラウルは地図に視線を戻した。市門が開く朝まで、せめてどこか安全な場所に身を潜めている必要がある。
 ――と。
 地図の上で何か光ったような気がして、ラウルは思わず顔をぐい、と地図に近づけた。
 ラウルの頭が月光を遮ったことで、光が強くなる。それはとある店を囲った丸のすぐ横に記された小さな印だった。明るいところで広げた時には何もなかったそこに、今は何かを象った印が浮かび上がっている。そして、その印の意味を察したラウルは小さく息を呑んだ。
「? どうした、神官」
 不思議そうに覗きこんでくる王女に、ラウルはぼそりと、
「鍵と縄。この二つが示すものを知ってるか」
 と問い掛ける。訳が分からず首を傾げる王女に、深いため息をつくラウル。
「あの糸目親父……そうならそうと、最初っから言えっての」
 そう言えば、地図を渡した時に彼は言っていなかったか。確か、「困った夜には、地図をよく見てみるといいですよ」とか何とか……。
(こういうことだったのか。それにしても……)
 地図上に記された丸を睨みつける。闇の中でのみ浮かび上がる特殊な顔料で描かれた意匠。それを掲げる「店」は歓楽街の片隅にあった。昼間はそうと知らずに足を踏み入れていたそこは、入り組んだ首都ローレングの片隅に存在する夜の街。
「行くしかないな」
 そう呟いて立ち上がるラウルに、つられて立ち上がりながら王女が尋ねる。
「どこへだ?」
「専門家のところへだ」
 道順を頭の中に叩きこみ、地図を懐にしまう。そうしてラウルは王女を振り返ると、にやりと笑ってみせた。
「あんたみたいなお嬢ちゃんを連れて行くにはちょっと早いんだがな。まあ、仕方ないだろ」
「? どういうことだ」
「行けば分かるさ。ほら、さっさと行くぞ」
 そう言って走り出すラウル。置いていかれてはたまらないと、王女は慌ててラウルの背中を追いかけた。

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