第三章[8]
「では、その旅人が怪盗と王女であることに間違いないのだな」
 公爵の問いかけに、水鏡の向こうで畏まったナジードはごく真面目な顔つきで『はあ』と答えた。
 どうにも気の抜けた返事に、傍らから怒声が飛ぶ。
「なんだ、そのいい加減な返答は!」
「やめたまえ、ヴァレル」
 声を荒げる近衛隊長を制し、傍らの机から一枚の地図を取り上げる。国内の地理が詳細に書き込まれた地図の一点、現在ナジード率いる捜索隊が滞在している宿場町から真上へ伸びる一本の道を目で辿りながら、公爵はふむ、と顎を掴んだ。
「奴は旧街道を使って北を目指している、となると……」
 北へ向かう怪盗と王女。その行動は、捜索が開始された直後に公爵自身が提示した可能性を裏付けるものと言えた。即ち――。
「やはり、秘宝か……」
 苦々しく呟く公爵に、ヴァレルもぐっと拳を握り締める。
「おのれ怪盗……!」
 王家に伝わる秘宝。それは莫大な金銀財産とも、はたまた魔法大国時代に製造された巨大兵器とも言われている。どちらにせよ、一個人の手には余る代物だ。
「奴は一体、何を企んでいるのか……」
 考え込む公爵に、ふと壁際に控えていた魔術士が歩み寄り、何事かを耳打ちをする。それに手を振って応え、公爵は改めてナジードへと向き直った。
「もう一人の少女についても気になるところだ。怪盗の仲間なのか、それとも王女と同様に何らかの目的で誘拐されたのか……。その件も含め、入念な捜査を頼む」
『承知しました。すでに北の街道沿いにある街や村には伝令を飛ばしてあります。本隊も直ちに北上し、捜査に当たります』
「よし。頼む。くれぐれも慎重にな。まず王女を無事にお救いすること、そして怪盗を生きたまま捕らえることが重要だ」
『仰せのままに』
 畏まるナジードの姿が徐々にぼやけ始める。そうして水面が再び執務室の天井を映し出したところで、ようやく公爵は水盤から目を離し、天鵞絨張りの椅子に深く背を預けた。それでもどこか遠慮が見られるのは、この椅子の主が現在も昏睡状態に陥っているからであろう。
 本来ならば国王が座るべき椅子。そこに彼が腰掛けているのには、勿論理由があった。
 事件直後、恐慌状態に陥った城内。本来ならば王に代わり臣下を統率する立場にあるはずの宰相は、知らせを聞いた直後に卒倒して現在も療養中。他の家臣達も似たり寄ったりの状況で、更に頼みの綱のロジオン王子もまた、事件後体調を崩して寝込んでいるときた。
 この緊急事態に立ち上がったのが、ロジオン王子の叔父にあたるノレヴィス公爵だった。彼はそのまま城に留まり、焦燥感に苛まれる臣下達を激励しながら、自身は深夜まで続く政務代行を黙々とこなしている。ここ数日に至っては、恐らく一睡もしていないはずだ。
 公爵もすでに四十近い。その横顔に浮かぶ疲労の色に、ヴァレルは遠慮がちに口を開いた。
「公爵、少しお休みになってはいかがですか」
「……いや、大丈夫だ」
 大きく息を吐き、心配そうに見つめてくるヴァレルを見上げる。若き近衛隊長もまた、連日の不寝番で目の下に大きな隈をこさえていた。
「休んだ方がいいのはお互い様だな」
 なんのこれしき、と張り切ってみせる近衛隊長に苦笑を浮かべ、公爵はさて、と呟いた。
「ナジードの報告をどう思う、ヴァレル」
「は……。怪盗が連れている少女というのも気になりますが、旅人達の目撃証言がどうも腑に落ちません」
 ナジードは報告の中でこう述べた。
『目撃情報によれば、その三人組は仲睦まじく旅しているように見えたとのこと』
 だからこそ街道を行く旅人達から怪しまれることもなく、故にこれまで捜索隊の耳に入ってこなかったんでしょうがね、という彼の言葉はもっともなのだが、何故さらわれたはずの王女が怪盗と仲良く旅をしているというのか。
「恐らくは、脅されでもして表向きそう振舞っているだけなのだろうが、その少女というのも引っかかる。仲間にしては少々幼すぎるし、王女と同様に誘拐されたのであっても、その目的が分からない」
「ええ……。それに、王女はともかく五、六歳の子供に「仲の良いふりをしろ」と命じたところで、素直に聞き分けるとも思えません。子供連れでは何かと不便でしょうし、一体……」
 黙り込む二人。しん、と静まり返った執務室に、二人分の溜め息だけが響く。
 と、扉の向こうから、控え目な声が上がった。
「失礼します」
 重苦しい静寂を破った侍女の声に、弾かれたように応えるヴァレル。
「何用だ」
「王立研究院からの書状をお持ちしました」
 その言葉を聞いて、二人は顔を見合わせた。
「入りたまえ」
 ゆっくりと扉が開き、現れた侍女は扉のすぐ側に佇んでいた魔術士の姿に怯えたような様子を見せながらも、足早に公爵の前まで進み出て一通の書簡を差し出した。
「至急、公爵様へとのことです」
 おずおずと述べる侍女の手から書簡を受け取り、封蝋を切るのももどかしい様子でそれを広げる。そして――。
「……なるほど……」
 感嘆のこもった呟きに、ヴァレルは怪訝そうに眉を潜めた。
「王立研究院が何を言ってきたのですか?」
 十五年前に廃止された宮廷魔術士制度に代わり、かつての宮廷魔術士達が研究に特化して作り上げた総合研究の場、それが王立研究院である。魔術士や学者を集め知識の粋を結集した研究院は、ヴァレル曰く「国家予算を使って益体もない研究に没頭している頭でっかち集団」だ。
 一連の騒動に関し、独自の視点から真相究明に全力を注いでいる彼らだが、これまでにろくな成果を上げてこなかった。しかし公爵の表情からして、今回ばかりは朗報と見て間違いない。
「怪盗の脱出経路についての推論だ。見てみるといい」
 公爵が机の上に広げた書状には、ローレング市内を走る地下水路と城内の見取り図が記されていた。城の設計図から起こしたという見取り図には、ヴァレルも知らない抜け道や通路がいくつも記されており、そのうちの一つが地下水路に繋がっていることを示している。
「こんな抜け道が……?」
「王族専用の脱出経路だろう。こういった城には付き物だからな」
 王城ファトゥールは建国間もない時期に建てられた古城である。当時は大陸の情勢も不安定で、王族の命を狙う輩も後を断たなかったと聞く。そんな時代に造られた城だ、王族のみに伝えられる秘密の抜け道や隠し部屋の一つや二つあってもおかしくはない。
「このような図面が残っていたとは驚きだ。しかし、これで怪盗がどうやって姿をくらましたのか、その謎は解けた訳だ」
 そう言って、公爵はヴァレルの肩を力強く叩いた。
「そなたらの警備体制に不備があったわけではない。奴は恐らく王女を脅し、抜け道を案内させたのだろう」
 脱出経路は分かった。足取りも掴めた。分からないのは、肝心の目的だ。
(一体……奴は何を企んでいるというんだ……?)
 再び考え込むヴァレルを横目に、公爵は退出の時機を逸して困ったように控えていた侍女へと声をかけた。
「下がってよい。いや待て……そうだな。ヴァレルを食堂へ連れて行き、きちんと食事をとり終えるまで見張っておくように」
「は?」
 目を丸くする近衛隊長の隣で、侍女は心得ました、と一礼する。
「公爵、私は腹など……」
 くぅぅ、という音に遮られ、顔を歪めるヴァレル。思わずくすくすと笑ってしまった侍女は、同じく苦笑を漏らした公爵と目が合って、慌てて口を押さえた。
「腹が減ってはなんとやら、だ。しかと言いつけたぞ」
「かしこまりました。ヴァレル様、参りましょう」
 そう促され、渋々ながら退室するヴァレル。その後に続いて扉をくぐろうとした侍女は、扉の横に控えていた魔術士をちらと窺い、そのまま横を通り過ぎようとした。
 そんな侍女の態度に、何食わぬ顔で頭巾に手をかける魔術士。そして目深に被っていた頭巾が後ろに払われた瞬間、侍女は小さく悲鳴を上げてその場に立ちすくんだ。
 その恐怖に彩られた顔に、魔術士はおや、と呟いてみせる。
「失礼、驚かせてしまいましたかな」
 ぼそぼそとした声で謝罪する魔術士の顔は、その半分ほどが醜く爛れていた。左目から頬にかけて、変色し引き攣れた皮膚をつるりと撫でて、魔術士は何事もなかったかのように頭巾を被り直す。
「し、失礼しました!」
 退出の挨拶もそこそこに、逃げるように執務室を去っていく侍女。その後姿にやれやれと肩をすくめ、閉め忘れていった扉をゆっくりと閉じて、魔術士は公爵を振り返った。
「女子供には、この顔はいささか刺激が強すぎますな」
 苦笑を浮かべる魔術士に、公爵も小さく息を吐く。
「ならばわざわざ見せずとも良いだろうに、お前も人が悪い」
「なに。こう年をとりますと、底意地が悪くなるというものですよ」
 その言葉とは裏腹に、その魔術士はまだ壮年の域にあった。魔術士というと兎角『腰の曲がった年寄り』と思われがちだが、現在『北の塔』の三賢人を務める姉妹のように、年若くとも優秀な術者は数多く存在する。
「何しろこの城の連中ときたら、この頭巾の下が気になって仕方ないと見える。ああも不躾に視線を送られれば、嫌がらせの一つもしたくなります」
「そなたの趣味をとやかく言うつもりはないが、ほどほどにしておくのだな」
 陰湿な笑い声を漏らす魔術士に嘆息して、公爵は再び机の上の書面に視線を戻す。
「王族専用の脱出経路か……」
 王女がそこを通ったのはほぼ間違いない。この地図を詳細に調べれば市街地への抜け道だけでなく、市外への脱出経路すらも見出せよう。水路の行き着く先は市外を流れる川。地下水路は市外へ続くもう一つの道と言っても過言ではない。
「王立研究院も、たまには役に立ちますな」
 ぼそり、と呟く魔術士。その口調から、彼もヴァレルと同様、王立研究院に良い印象を抱いていないことが読み取れる。
 元宮廷魔術士が設立した王立研究院も、現在では半数ほどが一般の研究員や学者に占められていた。もともと魔術に対する関心が薄いローラ国では魔術士ギルドの勢力も極めて弱く、拠り所がない故か魔術士もあまり居つかない。ノレヴィス公爵が魔術による定期報告を提案した際も、王立研究院にその術を使える魔術士が殆どおらず、こうして公爵の知り合いである彼――青焔の魔術士と称されるジェドーが呼ばれる運びとなった。
 そんな彼は城に一室を用意されていたが、常に頭巾を目深に被ったその姿と、何より魔術士自体に馴染みがないこともあって、城内の人々からは敬遠されている。宮廷魔術士が存在した十五年前であれば考えられないことだが、今では魔術士を間近で見たことがある人間の方が少ないのだから無理もない。
「ところで、魔術による探査はどうなりましたかな?」
 期待のこもらない声色で尋ねて来る魔術士に、公爵は黙って首を振る。
「幾度も試みたそうだが、掴めないそうだ。研究員達も首を捻っているよ」
 魔術の中には特定の人物を探し出すものがある。王立研究院では王女誘拐の知らせを聞き、早速その術を使って王女の居場所を特定しようとした。ところが、その術をもってしても王女の行方が掴めない。
「術は成功しているというのに、全く反応がないそうだ」
 こんなことはありえない、と断言した研究員は、公爵の一睨みで「ただし」という前置きから始まる台詞を飲み込んだ。魔術が成功しているのにもかかわらず反応がない。それが意味することは、唯一つ――。
「しかし、目撃証言が出てきたのですから、王女が生存していることは確かだ。つまりは、研究員の腕が悪いか、探査に用いた王女ゆかりの品に問題があったかのどちらかでしょう」
 なんなら私めが、と申し出る魔術士に首を振って、公爵は手元の地図に再び目を落とす。
 彼らが目指すのは北の大氷原。凍てついた北の大地は、彼らを暖かく迎えることはないだろう。待っているのは絶望、そして――。
「ところで、ロジオン王子のご容態はいかがですかな?」
 不意に話題を替えた魔術士に、公爵は渋面を作って答えた。
「相変わらずだ」
 もともと体の弱いロジオンだったが、今度ばかりは精神的な衝撃があまりにも大きかったようだ。現在も典医がつきっきりで看病を続けているが、季節の変わり目ということもあってなかなか平癒に至らない。
 暇を見つけては見舞いに訪れている公爵だったが、床に伏したロジオン王子はあまりにも弱々しく、今にも陽光の中に溶けてしまいそうな錯覚さえ覚えるほどだった。そんな儚さが、彼の実母であり公爵の姉でもある故エディセラ王妃と重なる。
 かの女性もまた、硝子細工のように繊細な人物だった。それ故に、裏切りとも思える王の行動に胸を痛め、失意のまま病に倒れてこの世を去った。それが十年前のことだ。
 母の棺の前で涙を流す王子と悲しみに暮れる王。そして、第一王妃の死が理解できず、いつものようにはしゃぎまわる幼い姫の笑い声と、それを穏やかに諭す第二王妃の妖艶なまでの喪服姿が、今も脳裏に焼きついて離れない。
「私は三人の子供を儲けたが、ついぞ息子には恵まれることがなかった。そのせいもあるのだろうな、姉の忘れ形見である王子を実の息子のように思っている。だからこそ、王子が不憫でならない……」
 慈父の瞳で切々と語る公爵に、魔術士は静かに頷きを返す。その感慨深い面持ちに、そういえばと公爵は呟いた。
「そなたにも子がおったな。確か一人娘だと……」
「はい。とんだお転婆娘ですが、離れて暮らしているせいでしょうか。時折ですが、無性に娘のことが思い出されてなりません。やはり年ですかな」
 おどけたように肩をすくめてみせる魔術士に、ようやく公爵も表情を和らげる。
「元気にしているのか?」
 問われて、魔術士の口元に笑みが浮かんだ。
「ええ。つい先日、久方ぶりに連絡を寄越してきまして。新しい生活も順調にいっているようで、一安心です。もう少ししたら嬉しい報告が出来るかもしれない、などと言っておりましたが、どうなることやら」
「そうか。それは良いことだ」
 穏やかに微笑んで、公爵はおもむろに机上の呼び鈴を取り上げた。軽やかな音色が響き渡り、ほどなくして一人の侍女が姿を現す。
「お呼びでしょうか」
「ああ、すまないが何か軽い食事と飲み物を。そなたはどうする?」
「私はこれにて下がらせていただきます。あの術を行使した後はひどく疲れますものでな」
 長衣の裾を引き摺りながら扉に向かう魔術士。同じく扉をくぐろうとする侍女の脇をわざとゆっくり通り抜けてから、無反応な彼女におや、と眉を上げた。
「お前は私を恐れないのかね?」
 大概の人間ならば、廊下の端と端とですれ違っただけでも怯えた様子を見せるものだが、この侍女は違った。魔術士の問いかけにも、素っ気ないほどの言葉を返してくる。
「危害を加えられたわけではなし、恐れる必要がどこにあります」
 それとも、と続ける侍女の瞳は、まるで猫のようにきらきらと光っていた。
「貴方は誰彼構わず人を呪い殺して回るような、悪い魔法使いなんですか?」
 呆気に取られて、目の前の相手をまじまじと見詰める。そして乾いた笑いを浮かべた魔術士は、口の中で小さく何かを唱えると、おもむろにとん、と杖を突いた。
 途端、廊下を吹き荒れる生暖かい風。被っていた白い帽子が彼方に飛ばされ、風に乱れる亜麻色の髪を押さえようとする侍女に、魔術士はにやりと笑って嘯く。
「恐れを知らぬ女だ。本当に私が悪い魔法使いだったら、今頃お前は消し炭になっていただろうよ」
 その度胸に免じて、消し炭にするのは止めておこう、と笑いながら廊下の向こうに消えていく魔術士を見送って、侍女もまた厨房へと向かって歩き出した。