第三章[12]
「アイシャ、起きて大丈夫なんですか?」
「どっか痛いとこないか? あ、腹減ってるだろ、今――」
 驚きと喜びで慌てふためく二人に、アイシャは静かに首を振る。
「大丈夫」
 久しぶりに聞いた声は、相変わらず感情のこもらないものだった。それでも、喋ってくれたことが嬉しくて、二人は我先にと寝台へ駆け寄る。
「ああ、良かった! えっとえっと、とにかくまずは食事ですね、三日もまともに食べてないんですから、ちゃんと食事しないと倒れちゃいますよ」
「そうだ、これ。アイシャ、果物好きだったよな? 今洗ってくるからちょっと待ってろ」
「あ、僕が行きますよ! ついでに食堂で何か食べ物貰ってきますっ」
 苺の入った籠をエスタスからひったくるようにして、大急ぎで部屋を出て行くカイト。
 あの調子じゃ食堂に辿り着くまでに何度転ぶことやら、と苦笑しつつ、エスタスは寝台の上の少女へと視線を戻した。
「……もう、大丈夫か?」
 こくん、と頷いてから、おずおずと辺りを見回すアイシャ。
「笛、は?」
「ああ、ここだ」
 エスタスは机の上に置かれた小袋をそっと掴み取った。泣き疲れたアイシャが眠ってしまった後、カイトが「魔法でなら完璧に修復できるかもしれませんし」と言って細かな欠片までも拾い集めて持ってきた笛の残骸。それが収められた袋を受け取って、アイシャはぐっと拳を握り締める。
 再び黙りこくってしまった彼女に、エスタスが困り果てた顔で何か言いかけたその時、アイシャは淡々と語り出した。
「ずっと、考えてた。あの言葉の意味」
 男は言った。人と竜は違う世界に生きるもの。決して交わってはならぬ。それが掟だ、と。
「谷が滅びた理由。呼びかけても、返ってこない答え」
「アイシャ……」
 かつて彼女が語ってくれた竜使いの末路はこうだ。かつて、アイシャの先祖は南大陸の谷で、竜と共存を果たしていた。しかし谷は火山の爆発で壊滅し、人々も竜も散り散りになった。そしてアイシャの一族は、灼熱の砂漠を彷徨う流浪の民となったのだ、と。
 谷を襲った火山の爆発。それは、果たして自然の為せる業だったのか、それとも何者かが故意に引き起こしたものなのか、今となっては知る由もない。
 そして、竜。彼女の先祖と固い友情で結ばれていたという炎の竜キーシェは、昨年の騒動の折、アイシャの笛に導かれて北の大地を訪れ、彼らに力を貸してくれた。そのキーシェが一件以降、一向に姿を現さない理由とは――。
 恐らくは、笛を壊されるずっと前からアイシャを悩ませていたのだろう二つの疑問。しかし、アイシャは顔を上げ、力強く言葉を紡ぐ。
「でも――私は、信じる。竜と、父と、一族と――私を、信じる」
 それが、三日間かけてようやく辿り着いた答え。決意のこもった瞳に頷いて、エスタスはわざと明るい声を出す。
「そうだな。あんな胡散臭い奴の言うことを真に受ける必要なんてないさ。大体、竜と人が違う世界に生きるものだってなら、あのチビはどうなるんだ。違う世界どころかべったりじゃないか」
 卵から孵って以来、ラウルにくっついて離れない光の竜。きっとこの瞬間もラウルを辟易させているのだろう少女を思い出して、二人の顔に自然と笑みが浮かぶ。
 と、思い出したようにエスタスはアイシャの握り締める袋を指差して、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「そうだ、その笛――。何とか修復できないかって、カイトと二人で色々当たってみたんだけど」
 こんな小さな町に都合よく楽器職人だの魔術士だのがいるはずもなく、駄目で元々、と大工のところに持ち込んだところ、一笑に付されてしまった。
「冒険者の店にいた吟遊詩人が、物凄く珍しい構造をしているから、普通の楽器職人じゃ直すどころか同じものを作るのも無理だろうって言っててさ」
 その言葉に、アイシャは少し悲しげに頷いてみせる。
「分かってる。竜笛の製法は一族の秘技。私も、それを知らない」
 だから、もういい。そう言おうとして、アイシャは続くエスタスの一言に目を丸くした。
「じゃあ、他の人を当たればいいんだな」
 あまりにもあっけらかんと言うものだから、彼女は一瞬、言われた言葉の意味を理解することが出来なかった。
「他の、人?」
 ぱちぱちと目を瞬かせるアイシャに、エスタスは軽い口調で言ってのける。
「竜使いの末裔は、何もアイシャだけじゃないんだろ? アイシャの一族はなくなっちまったけど、竜使いが全てこの世から消えちまったわけじゃない。それに、もし子孫がいないとしても、その知識を記した文献とか口伝とか、少しは残ってるだろうから、それを片っ端から当たればいいんだ」
「でも……」
 不安げな少女の額をこつん、と小突いて、エスタスは怒ったように続けた。
「この期に及んで、迷惑がかかるとか、自分の問題だからなんて言うなよ?」
「でも、ルーン遺跡の探索が……それに、知識の旅だって」
「遺跡は逃げないだろ。それに知識の旅だって目的だの期限だのは一切決まってないんだから、気にすることなんかないさ」
 それにさ、と頬を掻きながら、エスタスはぐい、と窓の外に目を向ける。
「今までの呼びかけが届いてないわけないんだ。きっと何か事情があって今は来られないだけで、暇になった途端すっ飛んで来るに決まってるさ。そしたらあの熱血竜に直接聞いてみるって手もあるだろ。竜を呼ぶ笛なんだ、作り方そのものは無理でも、その手がかりくらいは知ってるかも知れない」
 熱血竜、という単語に小さく吹き出すアイシャ。言った本人も、半年前のド派手な登場場面を思い出してしまい、くすくすと笑みをこぼす。
 そこに食事の盆を持ったカイトが戻ってきて、不満げな声を上げた。
「ああっ、なに二人して笑ってるんですか? 僕を仲間外れにするなんてずるいじゃないですかぁ」
 子供じみた抗議に悪い悪い、と手を振って、エスタスはカイトが運んできた食事の盆を覗き込んだ。
「お、うまそうだな」
「何言ってるんですか、さっき外で食べてきたんでしょう? これはアイシャの分なんだから、つまみ食いしちゃ駄目です!」
 伸びてきた手をぱしっと払いのけて、料理を机に並べる。途端、アイシャの腹が可愛らしい悲鳴を上げた。
「胃に負担がかかりますから、ゆっくり食べて下さいね」
 くすくす笑いながら言ってくるカイトに、少しだけ恥ずかしそうな顔をして、おずおずと席に着くアイシャ。宿の料理人が気を利かせてくれたのか、並んだ食事はどれも消化の良いものばかりだった。
 そっと匙を手に取り、湯気の立つ皿から燕麦の粥を掬い取る。甘い匂いが鼻を突き、空っぽだった胃と心の両方に染みこんでいった。
「――おいしい」
 一口食べた途端、それまで強張っていたアイシャの顔がほっと緩む。そうしてぱくぱくと粥を口に運んでいくアイシャに、カイトが慌てて制止の声を上げた。
「あー、そんなに掻っ込んじゃ駄目ですってばっ」
「おいしい」
「ああほらっ、こぼれてますよっ。もう、子供じゃないんですから」
 まるで母親のような台詞を吐くカイトに椅子を明け渡し、エスタスは窓枠へと腰掛けた。二階の窓からは活気ある大通りの様子がつぶさに観察できる。昼を過ぎても、行き交う人の波は途切れる様子すらない。
 そんな賑やかな、そしてありふれた光景をなんとはなしに眺めていたエスタスは、次の瞬間はっと息を飲んだ。
 午後の日差しの中、俄かに色彩を失って緩慢な流れを見せる人の群れ。
 その中にぽつん、と浮かぶ、鮮やかな鮮やかな「赤」――。
(あれは――キーシェ?!)
 まさか、と思って目を凝らしたものの、すぐにそれが人違いだと分かって苦笑いを浮かべる。赤毛の人間など、この辺りでは珍しくも何ともない。かくいう自分も、燃え立つような赤い髪がささやかな自慢ではないか。
(そうだよな、いくらなんでも……)
 『暇になった途端すっ飛んで来るに決まってる』などと言った矢先に、よく似た髪の色を見たから、つい錯覚してしまったのだろう。かの炎の竜は、それは見事な赤い髪をしていた。眼下を通り過ぎていく人物の髪も負けず劣らずの鮮やかさだったが、よく見ればそれは妙齢の女性で、あの「熱血竜」とは似ても似つかなった。
「? どうしました、エスタス?」
 急に押し黙ったエスタスを不審に思ったか、カイトが首を傾げる。そんな彼に、エスタスは大仰に肩をすくめて見せた。
「いや、別嬪さんが通りかかったんで、つい見惚れちまっただけ」
「やだなあ、ラウルさんじゃあるまいし、女の人ばっかり見てないで、もっと視野を広げてですねえ……」
「常に真正面しか見てないお前に言われたくはないぞ」
 そんな軽口を叩いている間に、その"別嬪さん"は雑踏に紛れてしまった。ちらとしか見えなかったが、色っぽい目をしてたなあ、と内心で呟きつつ、黙々と食事を続けるアイシャへと視線を移す。
「捜索隊は今日にもこの町を出るだろう。なんとか捜索隊の先回りをして、早目にラウルさん達と合流しないとな……アイシャ、動けるか?」
 エスタスの言葉に、残り少なくなった食事を口に運びながら頷くアイシャ。
「動ける。大丈夫」
「よし、じゃあ食事が終わったらオレ達も動こう。宿賃を清算してくるから、その間に荷物をまとめておけよ」
「は、はいっ」
 慌てて荷物の山に取り掛かるカイト。持ちきれない分はエストに送っちまえよ、と釘を刺したその瞬間、扉を叩く音が部屋中に響き渡った。
「はい、どな……」
 許可を待たずに開く扉。そして――。
「! あんたは……!」

* * * * *

 仕切りの向こうからひょい、と顔を出した男に、ヒューゴは眉を吊り上げて怒鳴りつけた。
「隊長! 朝からどこへ行ってらしたんですかっ!! さっき新しい情報が――」
「そう怒鳴るなよ。ここに来る途中で聞いた」
 ひらひらと手を振って、口やかましい部下の横をすり抜ける。途端にふわり、と漂った安っぽい香水の香りに、ヒューゴはあからさまに眉をしかめた。
「まさか、朝っぱらからいかがわしい所に出向いてたんじゃないでしょうねっ!?」
「いかがわしいって、お前も古いね……。これも一つの情報収集、仕事だよ」
 あっけらかんと肯定されて、ヒューゴの顔は真っ赤に染まる。若さから来る潔癖さだけではなく、半分以上が怒りによるものだろう。
「隊長っ!!」
 耳を劈く怒声をあっさりかわして、捜索隊長ナジードは近くにいた隊員から報告書を受け取った。
 インクも乾ききらないそれを手渡しながら、隊員はにやけた笑みをナジードに向ける。
「情報を持ってきたの、えらい別嬪さんでしたよ。綺麗な赤毛でねえ、目元のほくろがそりゃもう色っぽくて……」
「ほぉ、そいつは是非ともこの目で拝みたかったな」
「朝からここにいらっしゃれば存分に拝めたでしょうね」
 非難じみたヒューゴの言葉に、こいつは墓穴を掘ったな、と首をすくめながら、ナジードは報告書に目を通す。
「……彼らは街道を北上し、大氷原にある洞窟を目指している、か。目的は王家の秘宝、洞窟はその隠し場所、そんなとこか」
 ふん、と鼻を鳴らし、報告書を突き返す。そして手近にあった椅子にどっかりと腰を降ろしながら、誰にともなく呟いた。
「――話が違うな」
「え、何か仰いましたか、隊長?」
 律儀に聞き返してくるヒューゴに何でもないと手を振って、すまんが茶を一杯、と言いかけたナジードは、そこでふと鳶色の瞳を煌かせて、最近言動に遠慮がなくなってきた新入りをちょいちょい、と手招きした。
「はい?」
「ヒューゴ、お前もその美人を見たのか」
「ええ、ちらっとですけど」
「どんな感じだった?」
「隊長! 重要なのはもたらされた情報であって、もたらした人間の容姿じゃないはずです」
「そう言いなさんな。見覚えがなかったか、と聞いてるんだよ」
 その言葉に、きょとんとするヒューゴ。
「見覚えなんてあるわけないでしょう? 俺、この辺りに知り合いなんていませんよ」
「本当にこの辺りの人間ならな」
 この人は一体何を言い出すのだろう、と目を丸くするヒューゴを横目に、ナジードはやれやれ、と不揃いの顎鬚を撫でた。
「奴らの目的は、王家の秘宝なんてもんじゃない。それだけははっきりしてる」
「はぁ?」
 前後の脈絡がまるでないナジードの台詞にそろそろ着いていけなくなったヒューゴは、意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている隊長を上目遣いに見上げた。
「あの、隊長……? どういうことか良く分からないんですけど」
「考えろ、青少年。思考を惜しむとあっという間にボケちまうぞ」
 にやりと笑って言ってやってから、ナジードはふと真面目な顔を取り繕って続けた。
「いいか、ついさっき俺が仕入れてきた情報じゃ、奴らの目的地は大氷原なんかじゃない」
「え……それじゃあ、さっきの情報は間違いってことですか?」
 思わず声が大きくなり、それを聞きつけた先程の隊員が「別嬪さんだったのになあ」と筋の通らないことをぼやく。そんな部下に、おいおい、と苦笑いを浮かべるナジード。
「ユースフ、顔で信憑性をうんぬん言ってたら、俺の言葉なんぞ信憑性の欠片もないことになるぞ」
 そりゃそうだ、と爆笑する隊員達にこいつめ、と怒るふりをしてみせながら、ナジードは再びヒューゴに視線を戻した。
「間違いなのか、それとも我々を欺くための罠か。どちらにせよ、これ以上こんなところに居続ける理由もないからな。準備が整い次第、出発するぞ」
 そう言って立ち上がり、近くにいた隊員に撤収を命じるナジード。命を受けた隊員が小走りに天幕を出て行く中、ヒューゴは納得が行かないという顔で、懐をごそごそ探って煙草を取り出そうとするナジードに食って掛かった。
「こんなところって、この町にしばらく逗留して情報収集を、って言ったのは隊長じゃないですか!」
「だから、情報収集が終わったから動くんだ。ほら、とっとと片付けろ」
 最後の台詞は、天幕内にいた他の隊員に向けてのものだった。のろのろと立ち上がる彼らを尻目に、一人のんびりと煙草を口にくわえるナジードに、ヒューゴは尚も食い下がる。
「じゃあ、せめてこれだけは教えて下さい。動くって、一体どこへ行くんですか」
「そうさな」
 わざとらしく難しい顔を作って、ナジードは腕組みをしてみせた。そして、ごくりと喉を鳴らすヒューゴに向かって重々しく告げる。
「大氷原、だな」
「ええ!? 間違いだと分かっていて、なんで……」
「そりゃあ決まってるだろう。どのみち、このまま行けば大氷原だ。ま、それまでに新しい情報が入ることを期待しようじゃないか」
 甚だ他力本願な台詞を吐いて、ナジードはおもむろに外套の隠しから紙くずを取り出すと、ほれ、とヒューゴに手渡した。
「は? あの、これは」
「ゴミだ。適当に処分しておいてくれ」
 そう言ってふらり、と天幕を出て行くナジード。その背に翻る青い外套を見送って、ヒューゴは渡された紙くずを困ったように見つめた。
「自分で捨てればいいのに……不精なんだから」
 溜め息と共に、ぐしゃぐしゃに丸められたそれをゴミ箱に放り込もうとして、ふと手を止める。
(どうせ捨てるんなら、見てもいいかな……?)
 好奇心に勝てず、背中を丸めて慎重に紙を広げたヒューゴは、そこに踊る文字の羅列に息を飲んだ。

『過日の栄光を求めしもの 白亜に翳りをもたらさん
 月の真実を求め 若者らは野を駆ける』

「これって……隊長!!」
 紙を握り締め、血相を変えて天幕を飛び出ていくヒューゴを、残りの隊員達は慈愛のこもった眼差しで見送った。
「やれやれ、隊長も人が悪い。ちゃんと教えてやればいいものを」
「それだけ買われてるってことだろ。俺達には何の説明もないんだから」
「ま、毎度のことだがな」
 何にせよ俺達はついていくだけさ、とどこか自慢げに笑い合って、隊員達は撤収作業を開始した。
第三章・終