第四章[4]
 歌が聞こえる
 心の奥底 記憶の彼方から
 歌が聞こえる
 夢と現実との狭間から


 それは 出会いと別れを歌う しらべ
 それは 喜びと悲しみを歌う 旋律
 知らないはずの 古の言葉で
 見たことのない 懐かしい風景とともに


 歌が 聞こえる

 それは
 月に捧ぐ歌
 愛しいあなたに捧げる、歌――



 目を開ける。
 薄暗い部屋。朽ちかけた天井。僅かに開いた扉の隙間から差し込むほのかな明かりが、朝の到来を告げている。
「夢、か……」
 目をしばしばさせながら上体を起こせば、長椅子の上に金色の頭が見えた。
(目覚めてみれば檻の中、にならなくて良かったな)
 苦笑を浮かべつつ、辺りを見回す。長椅子と机、そして揺り椅子が置かれただけの質素な部屋。主のいない揺り椅子が、薄闇の中にぼんやりと佇んでいる。
 老人の姿はどこにもなかった。そればかりか、もう一人の同行者の姿も見えないことに気づいて、そっと起き上がる。
(二人して朝の散歩にでも行ってるのか……?)
 すぴすぴと脳天気な寝息を立てている少女を起こさないよう、足音を忍ばせて扉へと向かう。次の瞬間、腐りかけた床板を踏み抜きそうになって、飛び出しかけた悲鳴をぐっと飲み込んだ。まったく、この小屋の傷みようときたら、昨夜の嵐で倒壊しなかったのが奇跡と思えるほどである。
(あのじいさん、よくこんなところで暮らしてるな……)
 そんなことを考えつつ、これまた立て付けの悪い扉を押し開けた途端、視界が真っ白に染まった。
「うわっ……」
 朝靄立ち込める広場。まだ日は昇っていないのだろう。薄明かりに流れる靄は、まるで幾重にも連なる紗幕のように村を包み込んでいる。
 押し寄せる冷気に身震いしつつ、慎重に歩き出す。足音すら靄に吸い込まれて、まるで夢の中を歩いているようだ。
「おーい、ローラ――」
 呼びかけて、ふと口をつぐむ。
「……歌?」
 幻想的な世界にこだまする、幽かな歌。
 聞いたことのない言葉、知るはずもない旋律に、なぜか心が揺れる。
(この、歌は……)

 冴え渡る月明かりの下で聞いた、歌。
 刹那、脳裏に翻る夢。青白い月が照らす静寂の世界。どこからか響く歌声。
(そうだ、この歌――)
 前にも、同じ夢を見た。あの時も分からなかった歌詞が、何故か胸に突き刺さる。
 あれは子守歌だった。愛しい幼子をその腕に抱き、健やかな眠りへと誘う、優しい母の歌――。

「用心棒?」
 唐突な呼びかけに思わず身構えてしまってから、逆に驚いて目をまん丸にしている声の主に、ほっと胸を撫で下ろす。
「ローラ、お前か」
 いつからそこにいたのやら、目の前でしげしげとこちらを見上げているのは、紅茶色の髪を揺らした王女ローラその人だった。
「ああ、びっくりした。どうしたんだ? こんなところでぼーっと突っ立って」
「それはこっちの台詞だ。朝っぱらから何やってる」
 咄嗟に動揺を押し隠せはしたが、構えた手の所在に困って、とりあえず目の前の頭をわしっと掴む。何をするんだ、と抗議の声を上げながらその手を引き剥がしにかかる王女は、いつもは編んでいる髪を下ろしているせいか、どこか大人びて見えた。
「早く目が覚めてしまったんで、散歩をしていたんだ。しかしこの靄では村の様子を見て回るどころじゃないな」
 やっとのことでラウルの手から逃れて、ふうと辺りを見回す王女。少しずつ薄れてきているとはいえ、未だ辺りは夢と現の狭間というような有様で、足元すら窺えない靄の中に佇んでいると、平衡感覚すら危うくなりそうだ。
「そう言えば……お前、歌を聞かなかったか?」
 思い出して尋ねてみると、王女はちょっとだけ照れたような顔をして、ああと頷いた。
「聞いていたのか。あれは私が歌っていたんだ」
 それは、遠い昔に聞いた歌。歌詞の意味も、何を歌っているのかも分からないけれど、今も時折見る夢の中で、その歌声は清かに響き渡る。
 蒼い闇の中、満月を背に佇む、あれは――あの人は――。
「月夜に響く子守歌、か……」
 何気なく呟かれた言葉に、紫色の瞳が光を帯びた。
「――なぜ、知っているんだ」
 僅かに震える声に、おや、と思いつつも、気づかない振りをして答えを返す。
「俺も見たからな。しかもこれで二度目だ」
 そう。この旅が始まる前、まだエストにいた頃。夢の中で同じ歌を聞いた。
 冴え渡る月明かりの下、どこからともなく響く歌声。
 ――あれはそう、月に捧ぐ歌。
 歌われているのは、月への想い。狂おしいほどに愛おしい、あの蒼き月への――。
「どうして、同じ夢を見たんだろう?」
 しきりと首を傾げる王女に、ラウルはさあな、と肩をすくめてみせた。
 心当たりがないわけでもない。ユークは闇、すなわち夜を司る神。故に夢もまた、ユークの管轄だ。
 しかし、出会う前から同じ夢を見たなどと、まるで何か――
「運命的だな! なんだか物語みたいで素敵じゃないか!」
「……言うと思った……」
 覚悟していたとはいえ、実際に瞳をキラキラさせながら力強く言われると、なんだか無性に疲れを感じる。
「とにかく、小屋に戻るぞ。そろそろチビも起き出す頃だろう」
「そうだな。私もお腹が減った」
 くるりと踵を返し、スタスタと歩き出す王女。ようやく薄れてきた朝靄の向こうから差し込む光が、その軽やかな足取りを照らす。
「今日はいい天気になりそうだな。絶好の旅日和だ」
「あー、そうだな」
 気のない返事をしつつ、ゆらゆらと揺れる紅茶色の髪を追いかけて歩く。
 その時、ざあ、と背後から駆け抜けていった風が、僅かにくゆる靄を一気に拭い去った。
 清廉な朝の光が照らし出す、村の全貌。
 一枚の絵画のようなその光景は、後々まで彼らの心に深く刻み込まれることになる。