第四章[6]
 青々とした草原を愛でるように撫でる、柔らかな風。
 ゆったりと流れる雲の合間から顔を出した太陽が、風だけが行き過ぎる街道を柔らかく照らす。
 丘の向こうから伸びる街道は気紛れに蛇行しながら、それでも一目散にシグルの町を目指している。
 風景画のような光景。そこに溶け込むようにして佇む人影は、かれこれ二刻余りをその場所で過ごしていた。
 町に向かうでもなく、街道を辿るでもなく。道のど真ん中に立ち、ただ一点を――丘の向こうを凝視するその長身は、呼吸さえも忘れてしまったかのように静止し、長くくねる髪や外套が風になびいていなければ、彫刻でも置いてあるのかと錯覚してしまうほど。
 気紛れに飛び交う小鳥達も、そんな彼を木の一種とでも思っているのか、鍔の広い帽子に止まってみたり、肩に乗ってみたり。それでも微動だにしない彼にやがて興味をなくし、飛び去って行く。
 雲の影が通り過ぎ、風が変わり。太陽が中天から西へと移り行けば、地面に落ちた背高の影はますます背を伸ばして、道端へと伸びていく。
 その引き伸ばされた影が触れた途端、がさりと揺れた野薔薇の茂みにも、男は関心を向けることなく、ただひたすらに道の先を見つめていた。
 たなびく雲が太陽を覆い隠す。たちまち色を失い、立ち尽くす人影。次の瞬間、気紛れな風が薄雲の衣を剥ぎ取り、再び現れた太陽が大地を照らす。
 途端、まるで人形が命を吹き込まれたかのように、男の体に生気が戻る。どこか虚ろだった瞳には叡智の光が灯り、地面に根を下ろしていたかのような足は軽やかに一歩を踏み出し――。そして、止まった。
「――来た」
 低く、ただそれだけを呟いて、青緑の瞳をすいと細める。
 そうして、再び石像の如く動きを止めた男の背後で、野薔薇の茂みが大きく揺れた。


 絵に描いたような初夏の青空の下、はじけるような笑い声が街道に響く。
「わぁーい! おひさまー! かぜー! くもー! ひばりー!」
 目に付くものをいちいち言葉にしながら、全速力で駆け抜けて行く少女。遥か後方から諌める声が響いてくるが、少女の耳にはまったく届いていないようだ。
 丘を登り、杉の木の脇を通り抜けて、なだらかに下降する道を一気に駆け下りる。
「しろつめくさー! つりがねそうー! えーっとえっとー、みずたまりっ――!?」
 水溜りを一気に飛び越そうとして、手前の小石に蹴躓く。あわや水溜りに顔から突っ込みそうになった少女は、伸びてきた手にひょい、とすくい上げられて、難を逃れた。
「??」
 自分の身に何が起こったか分からず、きょとんとする少女。しかしすぐに顔を上げると、ぱあ、と笑みを浮かべる。
「ねしうす!」
「前を見て歩け、小さな光よ」
 間近で紡がれた声、そしてその呆れ顔は、確かに少女の見知ったものだった。だから少女はてへへ、と笑って、素直に礼を言う。
「ありがとー! るふぃーり、こんどから、きをつけるっ!」
「そう願う。いつも都合よく助けられるとは限らない」
 生真面目にそう応じながら、すたすたと歩き出す青年。子猫のように抱えられたままの少女は、再びきょとんとして問いかけた。
「ねしうす? どこ、いく?」
「安全な場所に」
「あんぜん? どこ?」
「遠い――遠い、場所だ」
 青緑色の瞳が僅かに翳る。しかし少女は気づかずに、大きく頭を振った。
「るふぃーり、らうの、とこ、もどらなきゃっ」
 彼方から伝わってくる、心配と怒り。早く戻らねば、またこっぴどく叱られてしまう。
「その必要はない」
「ねしうす?」
 次の瞬間、視界を覆うように翻る、暗い色の外套。
 そして二人の姿は、街道から掻き消えた。