第四章[10]
 雑多に詰まれた大道具の狭間から、ぱらり、と紙をめくる音が響く。
「えーとなになに、『怪奇!? 旧街道を覆う漆黒の闇――五の月二十六日、セイシェルの森近くで旧街道の一部が突如暗闇に閉ざされた。奇怪な闇は半径三ディムクレイルの半球状で、街道を遮断するように展開。近くの村に逗留中の魔術士により消し去られるまで、一刻あまり街道を覆い続けた』と。ふむふむ、妙なこともあるもんですねえ」
「なに呑気なこと言ってるんだい。瓦版なんて読んでないで、さっさと道具を片付けちまいなよ!」
 座長の鋭い一喝に飛び上がったセイル=ディーは、それでも瓦版を手放さずに呑気な声を出した。
「だってフィオーナさん、気になりませんか? 街道に突如出現した闇ですよ? これが自然発生したものでないことは一目瞭然です。恐らく、何らかの術によるものと――」
 いつもながらの饒舌ぶりに、フィオーナと呼ばれた南国の美女はやれやれ、と肩をすくめてみせる。
「そんなだから、いつもルースの学者さんに間違えられるんだよ」
「そうそう。貧相な体格に気弱な面構え、これで腰の剣がなきゃ完璧だね」
 茶化すような声にむっとするでもなく、振り返るセイル。そこには天幕の入り口をぐいと押し上げた黒髪の少年が、呆れたといわんばかりの顔を覗かせていた。
「おやシェオールくん、外の片付けは終わったんですか?」
「まあね」
 澄ました顔で答えた少年は、そんなことより、とフィオーナに向き直る。
「姐さん、ショウの熱、また上がったみたいだよ」
 その言葉にフィオーナは眉をひそめ、セイルはひいふうみ、と指折り数えて溜息をついた。
「もう三日ですよ。やはり、お医者さんに診せた方がいいと思いますけどね」
「その医者が倒れたから困ってるんだろ」
 苦々しく切り返すフィオーナに、いやあその、と頬を掻くセイル。
 七色の声と謳われる歌姫率いる《ローゼル一座》、その裏方兼専属治療師を務めるショウが高熱を出して倒れたのは三日前。その時、彼らは旧街道から少し外れたこのルドレ村で一日限りの興行を終え、出立の準備をしているところだった。
 人口百人に満たない村には医者などおらず、一番近くの町までは歩いて三日の距離。しかし無闇に動かしては体に障るだろうと村長に諭され、逗留を余儀なくされている。
 先ほど、村に手紙を届けにきた空人の配達員が、配達のついでに医者を呼んできてあげるよと言ってくれたが、それもいつになることやら。
「まったく、よりにもよってこんなところで医者が寝込むとはね。この一座も、いよいよもってケルナ様から愛想をつかされたんじゃない?」
「こういうのをなんていうんでしたっけ。『泣きっ面に蜂』? それとも『医者の不養生』かな」
「それってちょっと違うんじゃ――」
 呆れ顔で反撃しようとした矢先、天幕の外から歓声が響いてきた。
「なんだい、どうしたって――」
 シェオールをぐいと押しのけて天幕から顔を出したフィオーナが、ぎょっと体を引き戻す。
 次の瞬間、天幕に飛び込んできたのは、威勢のいい少年の声。
「毎度どーも! お医者さん、連れてきましたよ!」
 つい一刻ほど前に見た顔が一旦引っ込んだかと思ったら、代わって派手な布を巻いた頭がぐいっと天幕に押し込まれてくる。
「わっ、おい、そんなに押すなって!」
「うわあ、天幕というのはこんな風になってるのか。すごいなあ」
 そうして目の前に現れたのは、ずれた頭の布をぐいぐい直しながら文句を垂れている青年と、好奇心に満ちた瞳で天幕の中を見回している少女。
 賑やかな来訪者に目を丸くするフィオーナに、最後に入ってきた空人の少年は興奮冷めやらぬ様子で、頼んでもいないのに一部始終を語ってくれた。
「いやあ、次の配達先に向かう途中、旧街道を歩いているこのお二人に声をかけられましてね。ラサの町へ行くにはこの道であってるかって聞かれて、地図を見ながら色々話してるうちに、この方が実はお医者様だっていう話になりまして! こういうのをまさに、ケルナ様のお導きって言うんでしょうね!」
 なおも喋り続ける少年を横目に、フィオーナは所在無げに立ち尽くす二人へと目をやった。
「……本当にお医者様なのかい?」
 フィオーナが訝るのも無理はない。細身を埃まみれの旅装束に包んだ青年は、医者というよりは砂漠の盗賊といった風情だし、連れの少女は物怖じすることなくセイルやシェオールに話しかけてはしきりと感心しており、まるで世間知らずのお嬢様といった雰囲気だ。
 品定めするような視線に、青年は苦笑いを浮かべて答えた。
「ま、そうは見えないだろうがな。医者といってもかじってる程度だが、簡単な治療なら出来る。とはいっても、俺はガイリアの神官じゃないからな。術でぱぱっと治したりは出来ないぜ」
 ぶっきらぼうな口を利くが、その響きに嘘はない。そう判断して、フィオーナは小さく微笑んだ。
「それでも、今のアタシらにとっちゃ神様みたいなもんさ。こっちへ来ておくれ。うちのモンなんだけど、三日前から熱が下がらないんだ」
「分かった。案内してくれ」
 フィオーナに連れられて天幕を出て行く青年。その背中を見送りながら、セイルとシェオールは顔を見合わせて呟いた。
「こんな辺鄙な村にお医者様が通りかかるとは、まさに『天から銅貨、棚から蜜菓子』って感じですかね」
「ま、『捨てる神あれば拾う神あり』ってとこじゃない?」