第四章[11]
 嗅ぎ慣れない、しかし心落ち着く香の匂いに、頭よりも鼻が先に反応したのは、それこそ術士の性というものだろう。
 続いて感じ取ったのは、複数の気配。そのうちのいくつかは仲間のものだが、すぐ近くに佇む藍色の気配は、一体誰のものか。
「お、気づいたか」
 聞きなれない声。その言葉に弾かれたように、遠巻きにしていた仲間達が駆け寄ってくる音がする。
「……ユークの安息香……万年蝋、カミツレ……あとひとつ、いや、ふたつ?」
 掠れた声で呟けば、驚いたような声が返ってきた。
「正解。エルダーとメラルーカだな。起きたなら着替えてくれ」
「ショウ! 三日も寝込むなんて、心配したんだよ!」
「本当に、どうなることかと気を揉みましたよ」
「医者が病気になるなんて笑い話だよ、まったくもう」
「ほらほらあんた達、うるさくするなら外に出てな!」
 座長の一喝に、しゅんと小さくなる仲間達。そうして真紅の炎をまとった美女はつかつかとそばまでやってくると、まったくもうと息を吐く。
「本当に、心配したよ。お医者さまが通りかかってくれなかったらどうなってたことか」
「すいません」
 思わず謝ると、バカだねと小突かれた。
「あんたが悪いわけじゃないだろ。あんたの体調不良を見抜けずに、興行を続けたあたしにも責任はあるんだから」
「違いますよ座長、悪いのは、札の在庫が減ったからって寝る間も惜しんで増産させたセイルが」
「しきりにくしゃみをしてたショウを『よっ、あちこちで噂されてるなんて、憎いねこの色男』とか言って茶化したシェオール君が」
「どっちも悪い」
 互いを指差して言い合う二人を張り倒す、無愛想な精霊使い。それを見て笑う子供達。変わらない光景にくすりと笑みをこぼせば、傍らの『藍色』がこほん、と咳払いをした。
「仲睦まじくて結構だが、峠を越しただけで治りきった訳じゃない。周りではしゃぐと、中てられてまた熱が上がるぞ」
 その言葉に、ぎゃーぎゃー騒いでいた仲間達はぴたりと口を閉ざし、「それじゃ」「またあとで」などと言いながらすごすごと退散して行く。
「やれやれ。騒がしい連中で悪いね」
「いいや、賑やかなのは慣れてるが、病人には毒になるからな」
 ぶっきらぼうだが、穏やかな声色。年の頃は二十代半ばだろうか。きれいな共通語の発音は中央大陸で育った証だし、焚き染められた香はユーク神殿で独自に調合しているものだ。旅の医師か、それとも神官か。なんにせよ、不覚にも倒れてしまった自分を救ってくれた恩人には違いない。
「あの――」
「ああ、あんた、ショウだったか。腕のいい符術士なんだってな」
「いえ、まだまだ未熟者です。病を防ぐことすら出来なかったのですから」
 ショウは盲目の術士。呪符を使った符術を得意とするが、治療の術も幾つか使えることから、一座の医者としても活躍をしていた。
「自分の状態は分かるだろうが、一応説明しておくか?」
「いえ……。これは、流感ですね。最近、この辺りで性質の悪い風邪が流行っているという話は聞いていたので、気を配っていたつもりでしたが……お恥ずかしい限りです」
 気にすんな、と声がして、ばさりと替えの寝巻きが降ってくる。
「術士だって生き物だ、病気にだってなるし怪我だってするさ。幸い、一座のほかの連中にはうつってなさそうだ。あんたはあと二日は安静にしてろ」
「はい。ありがとうございます。ところで、あなたは……?」
「おっと。名乗るのが遅れたな。俺は……ラズ=ウルク。旅人だ」
 それは古い言葉で『藍色の狼』を意味する名前だったから、思わずああ、と呟くと、なぜか青年の呼吸が僅かに乱れた。
「良い名ですね。あなたの魂と同じ色をしている」
 慌てて付け足すと、今度は驚いたように問いかけてくる。
「――あんた、何が見えてる?」
「私の瞳はこの通り、光を失っております。その代わりと言ってはなんですが、生き物の気配というのでしょうか、魂が発する力のようなものを感じ取ることが出来るのです。あなたの魂は、深遠なる闇のような深い青――。とても心安らぐ色です」
「そりゃどうも」
 ぶっきらほうな声に照れを感じ取って、小さく笑みをこぼす。その拍子に込み上げて来た咳に、しなやかな腕が伸びてきて背中をさすってくれた。まったく、この座長ときたら、いつまで経っても人を子供扱いするから困る。
「ほら、早く着替えな。寝巻きが汗でびしょびしょだ。これじゃ余計に具合が悪くなっちまう」
「あ、わ、フィオーナさん、着替えは自分で出来ますからっ……!」
「病人が遠慮なんかするもんじゃないよっ!」
 問答無用とばかりに寝巻きを剥ぎ取られ、新しいものを着せ掛けられる。ついでにと敷布も取り替えられて、太陽の匂いに包まれていると、再び眠気が襲ってきた。
「もう少し眠ってろ。飯時には起こしてやるから」
 穏やかな声に頷いて、押し寄せる心地よい波に体を預ける。
「――おやすみ。よい夢を」
 それは遥か昔、両目の光を失う大病を患った幼き頃に聞いた、少年神の声に似て。
 ああ、やはり彼は青き闇の使いなのか、と納得しながら夢へと潜れば、どこかで笑う声がしたような、そんな気がした。