第四章[16]
 塔の一室は、そこだけが季節から取り残されたようだった。
 窓の外では春の花が咲き誇っているというのに、分厚い窓掛けが柔らかな陽光を遮り、石造りの壁には綴れ織りが所狭しと飾られて、まるで外界を拒絶しているかのようだ。
 部屋の主は長い間、この部屋から一歩も外に出ていない。冬の冷え込みに体調を崩し、寝込んでいる間に季節が変わってしまった。
 それでも、ここ数日は大分具合も良く、寝台から体を起こせるようになっていた。今日などは少しだけだからと言って、寝台の上で読書に勤しんでいるほどだ。
 とはいえ、難しい本を読むと熱が上がるという理由で、字よりも絵の多い本しか許してもらえなかったものだから、読書というよりは絵を楽しんでいるといった風情だ。
 だから、いつものように扉を叩く音を聞き逃すことなく、「どうぞ」と答えることができた。
「これは叔父上。ご無沙汰しております」
 やってきたノレヴィス公爵を見て、穏やかに微笑む。いつもよりは幾分か血色の良い顔に、公爵は驚きを隠すことなく足早に部屋を横切ると、寝台から出ようとする王子をやんわりと押し留めて親しげな笑みを浮かべた。
「今日は随分と顔色がよろしいようだ」
「ええ。今日は朝から調子がよいのです。おかげでほら、本も読めます」
 示された絵本を見やり、思わず苦笑いを浮かべる公爵。王子が幼少の頃よりお気に入りだった竜と少年の冒険譚は、読み込みすぎてぼろぼろになっている。一度は背表紙が破れて頁が落ちてしまい、製本し直してもらったほどだ。
「懐かしいものを持ち出してきましたね。あなたはその本が随分とお気に入りで、母上に読んでくれと何度もせがんでおられた」
 もう十年以上昔の話だ。庭園の東屋で、まだ髪が豊かだったヴァシリー三世がいて、艶やかな髪を結い上げた第一王妃エディセラがいて、小さな手で本を抱えて歩くロジオン王子に手招きをしていた。途中、足がもつれて転びそうになった王子をさっと抱き上げて窮地から救ったのは、まだ髭を蓄える前の公爵その人だ。当時はまだ当主が健在だったから、彼はトレバー子爵と名乗っていた。
 懐かしそうに語る公爵に、王子も頷いてみせる。
「あの頃の私は、竜の背に乗って冒険してみたいと本気で思っていましたからね。だから、ローラが本を破いてしまった時は本当に悲しくて泣きました」
 そう。思い出には続きがある。楽しそうな兄王子の声を聞きつけてやってきた幼い王女が、自分も読みたいと手を伸ばしてきて、本の取り合いになったのだ。
 端から見れば微笑ましい光景だが、結果として王子には悲劇が訪れた。容赦ない王女の力に、本は真っ二つに破けてしまったのである。
 号泣する王子に、同じく泣き出す王女。これこれ泣くでないと宥める国王に、なんてことを、と柳眉を逆立てるエディセラ。
 押っ取り刀で駆けつけた第二王妃ソフィアが大慌てで謝罪し、王女にも謝るよう言い聞かせたが、王女は頑として謝らずに泣き続け、泣き声の二重奏はしばらく止むことがなかった。
「王子があれほど泣いたのは初めてでしたから、みなびっくりして、宥めるのに必死でしたな」
「ええ。今でもよく覚えています。叔父上も、私を笑わせようと変な顔をしてみせて下さって」
「……それはできれば忘れていただけると嬉しいですな」
 今となっては笑い話だが、当時の子供達にとっては世界が終わるほどの衝撃だったのだろう。心優しい王子が三日もそっぽを向き続け、修繕から戻ってきた絵本を持って王女が謝りに来るまで部屋にこもりきりだったのだから。
「ローラには悪いことをしました。破けたのはローラだけのせいではなかったのだから」
 互いに引っ張ったからこそ破けてしまったのに、あの時の自分は「ローラのせいだ!」と妹をなじり、三日も口を利かなかったのだ。幼い王女は大好きな兄王子に無視され続けて、自室でこっそり泣いていたという。
「あの時の私は本当に頑固だった。ローラを許さなかったばかりか、叔父上がすぐに用意してくださった同じの本を、これじゃ嫌だと突っぱねたのですから」
 当時六歳だった王子は、すぐさま用意された新品をきっぱりと拒否して立てこもったのである。
「妙なところにこだわる子供だと思われたでしょうね。でも、私にとってはボロボロのこの本こそが大切な宝物だったのです」
 その後、第二王妃とローラ王女は城下の製本職人に本を修繕してもらい、王子の元を訪れた。たどたどしい謝罪の言葉と共に差し出された絵本を見た王子は飛び上がらんばかりに喜んで、修繕されたとはいえ傷みの残る本を大事に抱きしめたのだった。
 あの時と同じように、絵本を胸に抱きしめて、懐かしそうにその表紙を撫でる。あれから十数年、箔押しの文字は掠れ、あちこち傷んでしまったが、その本は今でも王子にとっての宝物だった。
 そんな様子を静かに見つめていた公爵は、ふと思い出したように口を開いた。
「そう……あの時は驚きました。戻ってきた宝物を、惜しげもなく王女に貸し与えたのだから」
 あの日。王子は大好きな絵本との再会を一しきり楽しんだ後、不安げに見つめてくる王女に、その本を差し出した。あの時は意地悪を言ってごめん。貸してあげるから読んでごらん。とても面白いからと。そして、まだ字が読めない王女のために、自ら絵本を読んで聞かせたのだ。
「それが兄妹というものでしょう?」
 楽しそうに笑う、その表情がふと曇る。
「――叔父上。ローラは見つかりましたか」
 静かな問いかけに、公爵は低い声でこう告げた。
「確たる証拠はつかめておりませんが、それらしき人物を目撃したとの情報が入りました」
「本当ですか!?」
「まだ確認中の段階ですが、ナジードによれば恐らく、怪盗とローラ王女であろう、と……」
 ぱあと顔を明るくしたものの、しかし、聡明な王子は勿論、それだけで満足はしなかった。
「ローラは元気でいると?」
「何分、旅人の証言ですので確かではありませんが、元気な様子だったと聞き及んでおります」
「そうですか。良かった……」
 深く安堵の息を吐き、そして手にした本をぐっと握り締める。
「ローラ、早く帰っておいで……!」
 記憶の中の彼女は、随分と小さな姿をしている。ここ数年は王子が伏せりがちなこともあって、ろくに顔をあわせることもなかった。それでも、大切な妹に変わりはない。
「ナジード率いる捜索隊が引き続き足取りを追っておりますが、何分にも怪盗の目的が未だ不明でして、それ如何で王女の身にも――」
 軽やかに扉を叩く音に遮られて、それまで淡々と言葉を紡いでいた公爵は僅かに眉を上げ、口を閉ざした。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
 場違いに明るいその声は、顔なじみの侍女のものだ。快く入室を許可した王子は、公爵に椅子を勧めると、自らも寝台から起き上がろうとする。
「殿下! まだ快癒しておられないのです、あまり無理をなさいますな!」
 珍しく慌てた様子の公爵に、目を瞬かせる王子。
「何も瀕死の重病人というわけではないんです。起きてお茶を飲むくらいは問題ありませんよ」
「殿下の御身に何かありましたら、国が滅びます」
 いつもなら冗談めかして言うだろう台詞を、公爵は至極真面目な顔で言ってのけた。
「国王は未だ目覚めず、王女は行方不明。かかる事態において、我々はあなたまでなくすわけには行かないのです」
 諭すというよりは、むしろ懇願に近い口ぶりに、やれやれと肩をすくめる王子。
「今日の叔父上は、随分と弱気なことを仰る。お疲れなのではありませんか?」
「お疲れになるのはあなたです」
 どこかかみ合っていない会話をよそに、てきぱきとお茶の用意を整える侍女達。そんな彼女らを労って退出させると、王子は妥協点だとばかりに布団から足を抜いて寝台に腰掛け、香り高い紅茶の注がれた器を優雅に持ち上げながらこう言った。
「叔父上。ローラはほどなく無事に戻り、父上も回復されて、国は元通りになる。私はそう信じています。だから例え私がここで倒れても問題ない」
 あっけらかんと笑う王子。この辺り、さすがあのヴァシリー三世の血を引いているだけのことはあるが、公爵にはこの冗談が笑えなかったらしい。茶器を傾けたその手をかすかに震わせて、その穏やかな天青石の瞳――母エディセラ譲りの双眸を見つめ、搾り出すように呟く。
「ご冗談はおやめ下さい。私は――もう、何も失いたくない」
 悲痛な声は、魂の叫び。実の姉を救えなかった若き日の自分を、彼は今でも責め続けているのかもしれなかった。
「叔父上、すみません。冗談が過ぎました」
 真摯な表情で謝罪し、でも、と小さく笑う。
「ローラ国の未来を支えるのは、きっと私ではない」
「王子!!」
 叫びを打ち消すかのように、重々しい鐘の音が鳴り響く。同時に扉を叩く音がして、緊張した面持ちの侍者が現れた。
「失礼いたします。ノレヴィス公、皆様がお集まりです」
「もうこんな時間か。長居をしてしまいました。これより会議がございますので、失礼いたします」
 足早に立ち去ろうとする公爵の背中に、おっとりと呼びかける。
「叔父上。叔父上こそ無理をなさらないで下さい。叔父上に寝込まれたら、私はそれこそ倒れてしまいますよ」
 茶化すようなその言葉に、公爵はようやく彼らしい、不敵な笑顔を取り戻して、
「では、王子にゆっくり静養していただくためにも、摂生に努めるといたしましょう」
 と答えたのだった。

 見舞い客が去ってしまうと、部屋は再び静寂に包まれる。
 布団に零さないよう慎重に茶器を傾けていた王子は、ふと顔を上げ、そして硬く閉ざされた扉の向こうへと声をかけた。
「シェリル。いるかい?」
「お呼びでしょうか、殿下」
 間髪入れずに返って来た声。ゆっくりと開いた扉の向こうから滑るように現れた侍女は、どこか楽しそうな瞳で笑いかける。
「殿下には敵いませんわ。でも何故、お分かりになりますの?」
 茶器を下げるため廊下に控えていたシェリルは、衣擦れの音すら立てていない。分厚い木の扉越しには、その存在を感知することなど出来るはずもないのだが、この王子はいつも、人物までぴたりと言い当てる。まるで扉の向こうが透けて見えているかのようだ。
 しかし王子は何でもないことのように、澄まして言う。
「この塔はとても静かだから、自分以外の人間がいればすぐに分かるのだよ」
 王子が暮らす東の塔は、王城で一番日当たりのよい場所に位置している。下の階には侍医が詰めているが、他には数人の召使いしかいない。騒がしいと王子の体に障るからという理由もあるが、王子自身が大仰な看護を拒んでいるからでもあった。
「それと、私自身の気配がひどく薄いから、余計に他人の気配に敏感なんだろうね」
 確かに、この王子は驚くほどに気配が薄い。まるで風か光のように、そこにありながらも、その存在を感じさせない。淡い金色の髪に水色の瞳、抜けるように白い肌という淡い色彩も相まって、いつの間にか空気に溶けて見えなくなってしまうのではないかと、そんな不安すら覚えるほどだ。
「だから私は、昔からかくれんぼが得意だったんだ。すぐに見つけてしまうから、ローラにはよく文句を言われたものだよ」
 くすくすと笑う王子の肩にふんわりと上着を着せ掛けて、シェリルは堅く閉ざされた窓を開け放った。それだけで、部屋の空気が一変する。
「ああ、もう緑の匂いがする」
 目を閉じて、うっとりと呟く王子。塔の窓から見下ろす城下町は、様々な花で埋め尽くされている。木々は日ごとに濃さを増し、じわじわと近づいてくる夏の気配を敏感に感じ取っているようだった。
「明日はお庭の散策をされますか?」
「そうだね。今日のように調子が良ければ。でも、君には別のことを頼みたいな」
 思いがけない返答に、目を瞬かせるシェリル。そんな彼女に、王子は笑顔のまま続ける。
「ヴァレル隊長を見張って欲しいんだ。叔父上はともかく、隊長は根を詰める人だから。ちゃんと食事や休息を取っているかどうか心配でね」
 まあ、と驚きの声を上げたシェリルだが、すぐに承知しましたと優雅に一礼してみせた。
「近衛隊長殿がきちんと三度のお食事と休憩時間を取るよう、目を光らせていればよろしいのですね」
「ああ。君ほどの美人からお願いされれば、あの堅物だって言うことを聞くだろう」
「まあ……! 殿下は隊長のことをよくご存知ですのね」
 思わず吹き出してしまってから、取り繕うようにそう言えば、王子は勿論だよと答えた。
「彼が近衛隊に入ったのは、私が三歳の頃だ。乳母が目を話した隙にどこかへ行ってしまう私を探し回るのは、もっぱら彼の役目だったそうだよ」
 以来、近衛兵というよりは遊び相手として、ヴァレルは幼い王子に仕えていた。先代の隊長が老齢を理由に引退し、副隊長に抜擢されるまで、王子にとって一番身近な存在だったのだ。やがて彼は異例の若さで近衛隊長に任命され、一方の王子は塔に籠もることが多くなって、顔をあわせる機会も減ってしまった。
「ローラが帰ってきた時に、彼が倒れていては困るんだ。王家を狙う輩は《月夜の貴公子》だけではないだろうからね。ちゃんと守ってもらわなければ」
 胸を張って答える王子に、くすくすと笑みを零すシェリル。城に上がってからというもの、それまで聞かされていた噂話が片端から覆って、驚くどころかむしろ楽しくなってしまう。
「不思議ですわね。どうして、王女と王子が仲違いしているとか、王子は気弱で臣下の言いなりだとか、おかしな噂ばかり流れているのでしょう」
 明け透けな物言いに、しかし王子は怒らなかった。むしろ可笑しそうに、あっさりとこう答える。
「その方が、お話として面白いからだろうね」
 そもそも、噂話には尾びれがつくものだ。やがて肝心の中身がなくなって、盛大にくっついた尾びれ背びれだけが残るなんてことも珍しくない。
「もっとも、『深窓の姫君』の噂だけは、あのままだと嫁の貰い手がないからと、あえて流したようだけど」
 さもありなんと頷くシェリル。しかし、その噂話のおかげで確実に心労が増しているだろう人間がいることを思うと、あまり笑えない話である。
「あらいけない、お茶をお下げしますわね」
 本来の目的をようやく思い出し、手際よく茶器を片付けていると、不意に王子が体を丸め、小さく咳き込んだ。慌てて手を止めたシェリルは、急いで窓を閉めると、寝台に潜り込んだ王子の上掛けを直してやって、更にその上から毛布を重ねる。
「日が落ちてきたら、急に冷えますね。今日は少し厚着をしてお休みになった方がよろしいようですわ」
「そうだね。また熱が上がると、本も読めなくなる」
 子供のように鼻の上まで毛布を引き上げ、これでいいだろうと言わんばかりの王子にくすりと笑って、シェリルは壁の灯りに手を伸ばした。
「晩餐までお休みになりますか」
「そうするよ。今日はいっぱい喋ってちょっと疲れたしね」
 お休み、と瞼を閉じる王子。間もなく静かな寝息をたて始めた王子の上掛けを直し、壁の灯りを消すと、シェリルは優雅に一礼して部屋を後にした。
第四章・終