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第五章[1] |
薄暗い回廊に、小さな足音だけが響く。 どこまで行っても変わらぬ景色、どんなに声を張り上げても返ってこない答え。無限に続くかと思われた回廊はやがて、絨毯すら敷いていない石畳の廊下へと変わる。 かび臭い、じめじめとした細い通路。遠くから響く水音に慄いて立ち尽くせば、足元をすり抜けるドブネズミ。 悲鳴さえも、暗闇に吸い込まれて消えてしまう、そこはまさに絶望の世界――。 ああ、どこからか不気味な笑い声まで聞こえてくる。振り返ればきっと、闇の底へと引きずりこまれてしまう。 「誰か、助けて――!!」 自分の声で驚いて、目が覚めた。 霞む目で見渡せば、薄暗い石畳の廊下は消え、質素ではあるが清潔に保たれた宿屋の一室には、明るい朝の光が差し込んでいる。 「嫌な夢……」 随分と懐かしい夢を見たものだ。厠を探しているうちに、いつしか迷い込んでしまった地階は、幼い彼女にとってまさに悪夢のような世界だった。 あの時、助けてくれたのは誰だったのか。今となってはもう思い出せないが、差し伸べられた白い手がとても暖かかったことだけは覚えている。 夢の残滓を振り払って立ち上がり、籠もった空気を入れ替えようと窓を開ける。途端に飛び込んでくる子供達の歓声と楽しげな水音。 水路の町は朝早くから、市場へ向かう人々で賑わっていた。あちこちから運び込まれる農作物や海産物、籠いっぱいの新鮮な果物や産みたての卵。軽食を売る屋台も立ち並び、この町の人々はそこで朝食を取るのが習慣だという。 毎日同じ献立が並ぶ宿の食事にも少々飽きてきたことだし、今日は市場にでも行ってみようか。 そのためにはまず着替えなければ、と旅行鞄を開けたところで、外から一際大きな歓声が聞こえてきた。 * * * * *
ひんやりとした風が梢を揺らす。薄い雲の向こうにはぼんやりと輝く太陽。大地はいまだ冬の気配を色濃く残し、ようやく姿を現した春の花々が、そこここで遠慮がちに顔をもたげている。 あと一月で夏の始まりとはにわかに信じがたいが、これがここ『北限の町』エンリカの、ごくありふれた晩春の光景だ。 それでも、今年の寒さは例年になく厳しくて、凍りついて壊れてしまった水路の補修工事があちこちで行われているものだから、普段は静かな町もにわかに活気づいている。 「この資材はどこに運ぶんだっけ?」 「ああ、それは四番水路の先だ。アシュトさんの酒倉の方だよ」 水路と平行して伸びている白茶けた道を、資材を載せた手押し車が行けば、遥か向こうの水路から顔を出した海人が板と釘が足りないと手を振って合図する。人と海人が共存する町ながらの光景は、余所者からは奇異の目で見られることもしばしばだが、エンリカの人々はそれぞれの特徴を生かした共同生活を実に数百年も続けているのだ。 「ぼくもおてつだい、するう」 「わたしもわたしもー」 「ほらほら、危ないからどいてろ、ちびっ子ども」 大人達が忙しなく働いているのに触発されてか、しきりとお手伝いをしたがる子供達は、そのたびに適当にあしらわれて大層お冠だ。 ぶーぶーと口を尖らせている彼らに苦笑いを浮かべて、ニーナはわざと勢いをつけて水路を進むと、水しぶきを上げて子供達の前に姿を現した。 「ねえ、みんな。みんなにしか出来ない仕事があるんだけど、引き受けてくれない?」 「ほんと? ニーナ姉ちゃん!」 「やるやるう!」 俄然張り切る子供達に、ニーナは声を潜めて、町の入り口をそっと指差してみせる。 「ほら、見て。門のところ。馬車が来てるでしょう?」 「ほんとだ!」 「昨日も来たよね!」 「ちがうよ、一昨日だよ。それにあれは乗合馬車だもん」 「のりあいばしゃってなに?」 すぐに脱線する子供達の話を戻すべく、ニーナは正門近くで荷降ろしをしている馬車を再び指し示した。 「よく見てごらん、隣村の人達が乗ってるでしょう? 市場に野菜を売りに来たついでに、工事に必要な木材を運んできてくれたの」 「あっ、ほんとだ!」 「あれ? でも知らない人が乗ってるよ?」 「ほんとだ! あの男の人、しらなーい」 「ニーナ姉ちゃんと同じくらいの女の子もいるよ? あ、転んだ」 「あら、本当だわ。旅人さんかしら?」 地上での視界があまり利かないニーナには顔まではよく見えないが、確かに服装からしてこの辺りの人間ではない。 御者と何か話している青年と、地面に下ろされた木材につまづいたのか、盛大に引っくり返ってうずくまっている少女。さすがに泣いてはいないが、相当痛かったのか膝を抱えて呻いている。 あらあらと呟いて、ニーナは改めて子供達に向き直った。 「それじゃ、みんなにお仕事をお願いするからよく聞いてね? 一つ目は、あの馬車の人に、資材は酒倉の前まで運んで下さいって伝えること」 「しざいはさかぐらのまえ!」 「分かった! じゃあ行ってくる――」 飛び出そうとする子供達を慌てて引き止めて、ニーナは二つ目、と続けた。 「あの旅人さん達を、宿屋まで案内してあげて。分かった?」 「りょーかいっ!」 「おれがいっちばーん!」 「あー、ずるーい!」 わーっと駆け出していく子供達。すぐに門の辺りが賑やかになって、すっかり取り囲まれた青年が何か喚く声が聞こえる。 ちょっとかわいそうだが、しばらく子供らの興味を引いておいてくれると非常に助かる。補修工事を早く終わらせるためには多少の犠牲は止むを得ないわよね、などと呟きながら、ニーナは再びすいすいと水路を泳ぎ出した。 「ったく、酷い目にあった」 ようやく去っていった子供達を見送って、ラウルはやれやれと溜息をついた。 いくら旅人が珍しいとは言え、寄ってたかって「どこからきたの?」「何してる人?」「二人は恋人?」などと質問攻めにあえば、溜息の一つは吐きたくなるというものだ。 「でも、ここまで案内してくれたぞ。親切な子達じゃないか」 ついでに転んですりむいたところを「いたいのいたいのとんでけー」してもらった王女はにこにこ顔だ。 「別に案内してもらわないでも、この町には来たことがあるから大体分かるんだよ」 一年前とはいえ、さほど大きくない町だから大体の地理は覚えている。そう言って断ろうとしたのだが、使命感に燃える彼らを止めることは出来なかった。問答無用で手と言わず服と言わず、あちこちを引っ張られて、宿屋の前まで連れてこられたのだ。 「あんまり目立ちたくなかったのに……」 彼らが道すがら「旅人さんだよー!」と触れ回ってくれたおかげで、季節外れの旅人が来たという話はあっという間に広まったことだろう。騒動になる前に、さっさと目的地へ向かった方が良さそうだ。 「でも、この町には手配書も回ってきていないみたいだし、町の人達は水路の補修に大忙しで誰も私達を気にしてないみたいだぞ」 「まあな。でも用心するに越したことはないだろ」 この町にはラウルの顔を知る者もいる。長居は禁物だろう。 「どんな宿なのかなあ。寝台がふかふかだといいな」 趣のある宿を見上げてうっとりしている王女をこら、と小突いて、ラウルは荷物を担ぎ直した。 「目的地はここじゃないんだぞ。少し休んだら、トゥールの村への行き方を誰かに聞いて、すぐに出発するんだからな」 一泊の宿を求めた隣村で、エンリカの朝市へ向かう馬車に乗せてもらえたのは幸運だった。ここからトゥールの村へは歩いて一日の距離。少し休憩して朝のうちにエンリカを発てば、上手く行けば夜までには目的地に到着できるかもしれない。 「俺は朝市で食い物を仕入れてくるから、お前は宿でトゥールへの行き方を聞いてきてくれ」 「分かった。どこで落ち合う?」 「下手に動き回ると危ないからな。そのまま中で待っててくれ」 「分かった!」 じゃあ後でな、と手を振って広場へと歩き出すラウルを見送って、さてと宿を仰ぎ見る。 古びてはいるがよく手入れされた木造の建物には、寝台が描かれた木製の看板が掛けられている。その下に吊るされている酒瓶と片手鍋は食堂を兼ねている証だ。 「ここでゆっくり朝ご飯を食べたいなあ」 などと呟きつつ、三段登って両開きの扉に手を伸ばしたところで、その扉がバンッ、と開いたものだから、王女は慌てて手を引っ込めた。そこまでは良かったのだが――。 「うわわわわっ」 咄嗟にあとずさろうとして段を踏み外しそうになり、よろめく王女。その手をはっしと掴んでくれたのは、今しがた扉から出てきた女性だった。駆け寄った拍子に被り布が落ちて、緩く編まれた髪が宙を舞う。 「はあ、びっくりした。すまない、助かった」 「いえ、こちらこそ。人がいるとは思わなく、て――」 謝罪の言葉を詰まらせて、驚いたように見つめてくるのは、鮮やかな赤毛の女性。まん丸に見開かれた瞳のすぐ下には、懐かしい泣きぼくろ――。 「ローラ様!」 「メアリア――!? どうしてここに!」 |
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