<<  >>
第五章[2]

 風に乱された髪を頭布に押し込みながら、白茶けた道を進む。
 ほぼ一年振りに訪れた北限の町は、季節遅れの花々に彩られていた。冬の間、白く覆い尽くされていた空と大地を彩る花。淡くにじむ風景に、子ども達のはしゃぎ声がやけに明るく響く。
「ほら、あそこにも咲いてる!」
「摘んでいこうよ! お家に飾るの」
「こら、寄り道しないで早く行きなさい。先生が首を長くしてお待ちかねよ」
「はあい」
 賑やかに駆け抜けていく子供達の頭上で猫柳がそよ風に尻尾を揺らせば、その足元でようやっと花開いた水仙が誇らしげに背を伸ばす。
「やっと春、なんだな」
 日に日に強くなっていく日差しに負けじと咲き誇る花々に気を取られていたら、前方からやってくる人影に気づくのが遅れてしまった。ぶつかりかけて、慌てて体を引く。
「おっと、すまない」
 顔を上げて、おやと目を瞬かせる。すんでのところで衝突を免れた相手の顔に、どこか見覚えがあったのだ。
「いえ、こちらこそ失礼しました、旅の方」
 丁寧に頭を下げてきたのは、がっしりとした体格の男だった。丸太のような腕やはちきれそうな胸板が、エストの名物料理人を髣髴とさせる。
「先ほどの馬車でいらした方ですね。長旅お疲れ様でした」
 まるで宿の受付のような台詞に、思わず眉を顰める。すると、男はおもむろにこう続けた。
「我が主アシュトが、是非とも旅の話を聞きたいと申しております。ぜひ酒倉へお越し下さい」
 その言葉で謎が解けた。彼は以前この町を訪れた時、酒樽を荷馬車に積んでくれた屈強な男達の一人だったのだ。だから勿論、彼もこちらの顔を知っているはずだが、目の前の男は無表情のまま、じっとこちらを見下ろしてくる。
「……長居は出来ないが、それでもいいか?」
 探るように言ってみると、男は無論です、と頷いた。そしてくるりと振り返り、ついて来いと言わんばかりに来た道を引き返していく。
 やれやれと肩をすくめ、歩き出したラウルの背後で、軽やかな水音が聞こえた気がした。


「やあやあ、ようこそいらっしゃいました、旅の方」
 通された部屋の奥、巨大な水槽の中からひらひらと手を振って、酒倉の主アシュトはにこやかに挨拶してみせた。
 水面に揺れる白銀の髪と虹色の尾。外見からすると二十代半ばに見える彼だが、長い付き合いのレオーナや村長ですら実際の年齢を知らないという。恐ろしくて聞けない、というのがその理由だそうだが、きっと尋ねても笑顔ではぐらかされるだけなのではないだろうか。
 そんな年齢不詳の海人は、まだ肌寒いというのに薄絹一枚纏っただけの姿で、爽やかに椅子を勧めてくる。
「狭いところですがどうぞおくつろぎ下さい。大丈夫、ここに警備隊が来るのは年に数回です」
 器用に片目を瞑ってみせるアシュトに、やれやれと溜息を漏らすラウル。
「……相変わらずですね、アシュトさん」
「ええ。ラウルさんもお変わりなく、と言いたいところですが、髪を切られたんですね。雰囲気も随分変わられて、親しみやすい感じになりましたね。特にその頭に巻いた布がいい。とてもお似合いですよ」
 気の抜ける感想には、もう笑うしかない。さすが、あの村長すら認める『食えない御仁』である。実際、彼らは頻繁に手紙のやり取りをする仲だというが、そのやり取りの内容を考えると薄ら恐ろしいものがある。
(手紙……そういや、村長が何か言ってたな……)
 出立前のやりとりをぼんやりと思い出して、しまったと頭を掻く。
「そうでした。お手紙を頂いていたんでしたね」
「おや、その件で立ち寄っていただけたのではなかったので? てっきり、危険も顧みずお越しくださったのだと、感動に打ち震えていたのですが」
 芝居がかった調子で言ってくるアシュトに、ラウルはすみません、と素直に頭を下げた。あまりにも突拍子もないことが立て続けに起こったものだから、手紙のことなどすっかり忘れてしまっていた。
「ちょっとゴタゴタしていたもので……」
「そうでしょうねえ。ひどく面倒なことに巻き込まれたようですから」
 そういった噂話というのは、この北限の町までも駆け足でやってくるのだとアシュトは笑った。そして思い出したように近くの棚へと手を伸ばし、丁寧に畳まれた紙の束を取り上げる。
「何しろ手配書が回ってこないので、詳しいことまでは存じませんが……ええと、『怪盗《月夜の貴公子》の正体は卵神官!?』『王女と駆け落ち! 愛の逃避行!』『交際は認めん! 心労で倒れた国王陛下』……という感じで大体あってますか?」
 大きく広げられた紙面には、いまアシュトが読み上げた通りの扇情的な見出しが躍っている。その隣に添えられた記事本文ときたら出鱈目を通り越して完全な創作物――しかも三流の恋愛小説の様相を呈しているではないか。
「……なんですかこれは……」
 今すぐ引っ掴んで破り捨てたい衝動をどうにか抑えて尋ねてみれば、アシュトはあっけらかんと答える。
「新聞ですよ。連載小説が面白いので定期購読してるんですが、肝心の記事は信憑性に欠けるものが多いので、まあ一種の娯楽誌ですね」
 ちなみに去年はほとんど卵神官特集でした、と告げられて、がっくりと肩を落とすラウル。
「なんだそりゃ……」
「まあ、記事内容はともかく、あなたが揉め事に巻き込まれていることは承知しています。ぜひ詳しい話を聞かせていただきたいところですが、それはまたの機会ということで」
 一旦言葉を切り、表情を引き締める。そしてアシュトはこう切り出してきた。
「お忙しいところ誠に恐縮なんですが、ご相談したいことがあるのですよ。あなたを当代随一のユーク神官と見込んで」
 これはまた、随分と過大評価されたものだ。思わず目を丸くし、次いで苦笑を漏らす。
「買いかぶりすぎですよ。俺はただの一神官に過ぎません」
「またまた、ご謙遜を。『卵神官』様」
 真顔で言われて、思わず顔をしかめたが、こういう時は全力で茶化すだろうこの海人がこういう態度を取るということは、よほど深刻な事態が起きているということか。
「……何があったんですか?」
 その言葉に少しだけ表情を和らげて、アシュトは事の次第を説明し始めた。
「実は、このエンリカに程近い村で、数ヶ月前から奇妙な出来事が起こっているのです。なんでも、村外れにある墓地から、夜な夜な不思議な歌声が聞こえてくるそうで……」
「不思議な歌声?」
 そこは、北の大地にぽつんと佇む鄙びた農村。人口百人に満たない村には墓守すらおらず、墓地は村人が共同で管理をしていた。
 厳しい寒さがようやく弛み、久しぶりに墓地の掃除に行った村人達を出迎えたのは、白銀の世界にかすかに響く、透き通るような歌声――。
「それはもう、とても美しい歌声なのだそうです。ところが、どこを探しても声の主が見つからない」
 ただどこからか歌声が聞こえるだけで、実害がないと言えばそれまでだが、夜な夜な聞こえてくる歌声に村人はすっかり怯えてしまっているという。
「この辺りにはユークの神殿もありませんし、どこに訴えればよいのかと村長に泣きつかれましてね。そこで、はたと思い出したのですよ。エストの村にいらした、有能な神官さんのことをね」
 あからさまな賛辞がこそばゆいが、確かにこれはユーク神殿の管轄だ。聞いてしまった以上、放っておくわけにはいかない。
「それで、その事件が起こっているのはどこの村なんです?」
「ここから西に一日ほど歩いたところにある、トゥールの村です」
「トゥール!?」
 これは偶然か。それとも運命の悪戯か。
 何はともあれ、行かなければならない。歌声の元へ。
「トゥールへの行き方を教えて下さい」
 真剣な眼差しで尋ねるラウルに、アシュトは分かりました、と手を叩いた。すぐに扉が開き、先ほどの男が現れる。
「荷馬車の準備を急いで下さい」
「承知しました」
 退室する男を見送って、ラウルはバツが悪そうに頭を掻く。
「そこまでしていただかなくても……」
「いえ、ちょうどトゥールへ届ける商品もありますし、ついでに用心棒などして下されば助かります。荷馬車は西門のところに停めておきますから、準備が済みましたら乗り込んで下さい」
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」
 丁寧に礼を述べてから、思わず問いかける。
「しかし、なぜここまで親切にして下さるのですか? 今や私達は追われる身だ。さっさと警備隊に突き出した方が得でしょうに」
 いくらここまで手配書が回っていないとはいえ、警備隊に追いつかれるのは時間の問題だ。いざ彼らがやって来た時、匿うまではいかずとも、見て見ぬ振りをしたというだけで罪に問われる可能性もある。
 探るような言葉に、アシュトはいやですねえと笑う。
「これでも長く商いをしていますからね。人を見る目はあるつもりですよ。何が真実で、何がまやかしなのか。それらはいずれ明らかになるでしょう。でしたら私は、得体の知れない噂話よりも自分の直感を信じます」
 そこまで真面目に言ってから、おどけた表情になるアシュト。
「それにほら、ここで王女様に恩を売っておけば、王室御用達の栄誉をいただけるかもしれないでしょう? そうなればうちも末永く安泰ですからね」
 実に商人らしい物言いに、思わず吹き出すラウル。
「残念ながら、あいつは酒を飲みませんよ」
「おや、それは実に残念。では未来の王配殿下にせいぜい媚を売っておくとしましょうか。出発前に新酒の味を見ていって下さいよ」
 それこそ苦虫を潰したような顔になって、ラウルは勘弁して下さい、と弱々しく呟いたのだった。

<<  >>