<<  >>
第五章[8]

  回廊を抜けて北棟に足を踏み入れた瞬間、足元から這い寄る冷気に身を竦ませる。
 まだ昼を過ぎたばかりだというのに、この北棟はうすら寒く、そして暗い。城の北側という立地だけでなく、かつてここに暮らしていた魔術士達の陰気さが、時を経てもなお澱んでいるようだ。
「まったく! こんなところに好んで住み着いていたというのだから、気が知れんな!」
 そんな陰気さを吹き飛ばす勢いで塔の廊下をのしのしと歩いているのは、誰であろう近衛隊長ヴァレルだ。王立研究院が設立されて以来、掃除の時以外は誰も足を踏み入れなくなったこの北棟にはおよそ似つかわしくない人物だが、彼とて好き好んでこの場所にやってきたわけではない。
「ジェドー殿も、わざわざこのような場所に部屋を望まずとも、もっと日当たりの良い部屋がいくらでも空いているというのに……」
 青焔の魔術士ジェドーは王宮に召喚されて以来、北棟の一室を住処としていた。しかも、暇さえあれば部屋にこもって研究に勤しんでいるようで、召使い達も気味悪がって近づこうとしない。
 古株の女官長などは「懐かしい光景ですこと。大丈夫、お腹が空けばちゃんと出てきますから」なとど笑っているが、年若な召使い達は廊下ですれ違っただけで走って逃げ出す始末で、ノレヴィス公爵が同席している時ですらお茶を持っていく役目を押しつけ合っているというのだから、大した嫌われようだ。
 ヴァレルとて、何かにつけて嫌味を言ってくる彼に好印象を持っているとは言えないが、しかし鏡を使った伝達魔法を使えるのはジェドーだけだから、嫌でも彼を頼るしかない。
(ナジードとの話は終わっていない。せめてもう一度、彼と連絡を取ってもらわないと……!!)
 先日の定期報告の際、怒りに任せて水盤を殴り、魔術を中断させてしまったのは誰であろうヴァレルである。怒りの鉄拳によって歪んだ水盤では魔法が使えないと言われてしまい、ひとしきり嫌味を言われた後、代わりの道具を早急に用意するという約束だけは何とか取りつけたが、それからめっきり音沙汰がない。
(ナジード……一体、何を言おうとしていた……?)
 あの神官は怪盗《月夜の貴公子》じゃない。そう告げたナジードの顔は、まさに真剣そのものだった。普段は本気か冗談か分からない言動が目立つ男だが、いざ本気になった時の厳しさと激しさはヴァレル以上だ。
 そんなナジードは今、何をしているのか。そして王女達はどこへ向かっているのか。王を襲った真犯人は一体何者なのか。ここに来て噴出した疑問の数々に、頭が締めつけられるようだ。
「おっと、ここか……」
 危うく通り過ぎるところだった扉には、でかでかと『入室禁止』の札が掲げてあった。誰がわざわざこんな怪しげな部屋に、と思ったが、女官長が魔術士達から『部屋を勝手に掃除されて作りかけの魔法薬が台無しになった』だの『書きかけの術式の紙を屑と勘違いされて捨てられた』などと抗議されてろくに掃除もできなかったと零していたから、この札もそういった事態を憂慮してのことかもしれない。
 よく見ると『入室禁止』の大文字の下に小さく『不届き者に災いあれ』と書かれており、その性格の悪さにげんなりする。
「古代遺跡の番人が吐きそうな台詞だな」
 そんな、呪われそうな札の前で足を止め、小さく深呼吸をする。またぞろ嫌味を言われるだろうと思うと憂鬱だったが、今はそれどころではない。
 意を決し、慎重に扉を叩く。
「ジェドー殿。よろしいか」
 しかし、中からの反応はなかった。少し間を置いて繰り返したが、やはり返事がない。
「……この時間は部屋にいるはずなんだが……」
 仕方ない、出直すかと踵を返しかけて、頬をくすぐる風に、はたと立ち止まる。
 見れば、固く閉ざされているかのように見えた扉はわずかに開いていて、隙間から吹き抜ける風が頬を掠めていった。
 そっと扉に手をかければ、重厚な木製の扉は拍子抜けするほどあっさりと開いて、どっと風が押し寄せてくる。どこか窓でも空いているのだろうか、濃い緑の匂いがした。
「ジェドー殿?」
 半身を部屋に突っ込んで呼びかけるが、やはり返事はない。しかし鍵を開けたまま外出するような人物にも思えないから、きっと中にいるのだろうと考えて、恐る恐る足を踏み入れる。
「うわっ……なんだこれは」
 踏み入れた途端、改めて『魔術士の部屋』の恐ろしさを思い知った。薄暗い部屋には、どこから持ち込んだのやら、魔術書やら魔法の品が所狭しと置いてあり、足の踏み場もないほどだ。机といい長椅子といい棚といい、とにかく物が溢れ返っている。これではまるで、お伽噺に出てくる『悪の魔法使い』の『秘密の研究室』そのものだ。
「ジェドー殿! おられるか?」
 埃の舞う部屋の中、散乱したものを踏まないよう慎重に歩を進める。北棟の部屋の構造は大体同じで、廊下から入ってすぐは応接間、続きの間が寝室だ。この様子では寝室もその役目を果たしてはいないのかもしれないが、この部屋にいないのであれば行ってみるほかない。
「おっと」
 慎重に進んでいたつもりだったが、肘が当たってしまったのか、机の上に積まれていた書物を落としてしまった。もうもうと立ちこめる埃にむせながら、慌てて拾い集めようと腰をかがめたところで、窓からのわずかな光に照らされた本の表紙に目が釘付けになった。
「これは……?」
 そっと手を伸ばし、一番上の一冊を手に取る。重厚な作りの表紙には、流麗な字で署名だけが記されていた。
 月明の魔術士オーグ。それは、かつて宮廷魔術士の長として多くの魔術士を束ねていた老魔術士の名だった。魔術士といえば気難しいという印象が強いが、オーグを一言で表すなら『絵に描いたような好々爺』だ。
「オーグ殿の日記か」
 ヴァレルにとってオーグは第二の師とも言える存在だった。ヴァレルがまだ新米の近衛兵として王子の遊び相手を勤めていた頃、幼い王子の言動にいちいち翻弄されている青年を不憫に思ったのか、相談に乗ってくれたのがきっかけで、親しく話すようになった。オーグは生涯独身を貫き、まさに魔術に人生を捧げた男だったが、兄弟が多かったらしく子どもの扱いはお手の物だった。
 溢れ出す思い出に浸りかけて、ふと眉をひそめる。オーグは第二王妃の側近の魔術士だったから、彼の居室は廷臣達の住まう南棟にあった。そして高齢を理由に王宮を辞した際、私物はすべて故郷に持ち帰っているはずなのだ。ヴァレル自身、荷物の選別と梱包を手伝った記憶があるから間違いない。
「なぜ、これがここに……?」
 湧き上がった疑念に駆られ、中に何か手掛かりがないかと日記帳を開く。他人の日記を勝手に読むのは少々気が引けたが、この状況では倫理観よりも疑問の方が勝った。
「……随分昔の日記だな」
 最初の頁に記されていた日付は二十年ほど前のものだ。内容は日記帳というより日々の覚書のようなもので、その日に行った魔術実験の内容や結果のほかに、城での出来事などが書かれていた。日によって一行だったり数頁にも渡っていたりと実にバラバラで、時には何日か間が空いていることもあった。
 ヴァレルには魔術の知識などないから、書かれている内容のほとんどはチンプンカンプンだ。それよりも、所々に走り書きされた日々の出来事の方が興味深かった。ロジオン王子が生まれて城が沸き上がったことや、見込みのある若い女魔術士を宮廷魔術士に抜擢したこと、その女魔術士を王が見初めて第二王妃として迎え入れたこと……ここに詰まっているのは、輝かしい日々の欠片だ。
「おや? ……これは……」
 ぱらぱらとめくっていくうち、頁の端が折られているところが数か所あることに気づいて、眉をひそめる。最初に折られた頁は、ちょうど第二王妃ソフィアが懐妊した辺りだ。いつもの如く魔術の専門用語や図案に紛れて、珍しく乱れた字が踊っている。
「なんだ、これは……?」
 端が折られた頁のそれぞれに綴られていたのは、老魔術士の独白。
『その深き愛ゆえに、過ちを犯した』
『私にはもう、見守ることしかできない』
『王の喜ぶ笑顔を見てしまったら、真実を告げることはできなかった』
 王妃の懐妊から出産に至るまで、経過のみを淡々と書き綴った文章の中に紛れ込んだそれらの言葉が、ヴァレルの脳裏に疑問符ばかりを量産していく。
「……どういう、ことだ……?」
「おやおや。近衛隊長殿ともあろう方が不法侵入の上に盗み見とは、感心しませんな」
 突然の声に振り返れば、そこにはジェドーの姿があった。杖を構え不気味に佇む老魔術士に、むっとしつつも無礼を詫びようとして、それよりも先に疑問が口を衝いて出た。
「ジェドー。これはどういうことだ、この日記は――」
 言いかけて、言葉を失う。続くはずだった糾弾の言葉は力を失って、大きく開いた状態で固まった口からは吐息だけが零れ落ちる。
「不法侵入者用に罠を仕掛けておいて良かった。まさか近衛隊長殿が引っ掛かるとは思いもしませんでしたが」
 糸が切れた操り人形のように、突如動きを止めたヴァレルの足元――書類と本に埋もれた床に描かれているのは、複雑な紋様の魔法陣。鈍く光るそれが捕縛魔法の罠であることを、今のヴァレルはその目で確かめることすら叶わなかった。
 体の自由を完全に奪われ、瞬きもできずに立ち尽くすヴァレルのそばまでゆっくりと歩を進めながら、老魔術士はどこか楽しげに言葉を紡ぐ。
「読まれたのであれば、話は早い。しかしまだ、決定的な証拠が手に入っておりませんでな」
 青焔の魔術士ジェドーはヴァレルの手からするりと日記帳を取り上げ、ぱらぱらと頁をめくりながら、くく、と喉の奥で笑った。その不快な響きに顔をしかめたくとも、それすらも出来ない現状がもどかしい。
 そんな苦悩が顔に現れていたのか、ジェドーは日記帳をぱたりと閉じて、傍らの机に放り投げた。
「さて……王家に忠誠を誓う貴殿であればこそ、真実を知れば黙ってはいられないでしょうな。ならばここで全てお話してしまった方が貴殿のためか……」
 つい、とヴァレルに目をやって、その双眸に燃える怒りの炎に、やれやれと頭を振る。
「今はやめておきましょうかな。怒りに我を失った貴殿に縊り殺されてはたまらない。……そうなると、貴殿には少々窮屈な思いをしていただかなければならないが、そこは勘弁していただきたい」
 異論を唱える余地もなく、目の前で堂々と怪しげな呪文を唱える老魔術士を見ていることしか出来ない自分に腹が立つ。
 そうして詠唱が終わり、振りかざされた杖から迸る不可視の力に、意識さえもが奪われていく。
「もうすぐ……もうすぐだ……」
 不気味に笑うジェドーの声に、ばたんと何かが倒れる音が重なる。次いで全身を襲った衝撃に、床に倒れたのだと理解する間も、痛みを覚える暇も与えられず――。
 急速に薄れ行く意識の中で、ヴァレルは遠い彼の地を彷徨っているだろう少女の名を呼んだ。
(ローラ様――!!)

<<  >>