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第五章[11]

「母様!!」
 気づいた時には、駆け出していた。
 歌声を辿り、もつれる足を叱り飛ばして、空を泳ぐように大地を蹴る。
「母様ぁっ!!」
 遠い昔に聞いた歌。歌詞の意味も、何を歌っているのかも分からないけれど――その優しい腕の中で繰り返し聞いた、それは――子守歌。
「母様、どこ!? どこにいるんだ!」
 どこをどう走ったのかも覚えていない。ただひたすらに駆け抜けて、ようやく辿り着いたのは、白樺の根元にひっそりと佇む白い墓石。
 名前と生没年だけが刻まれた質素な墓石に腰掛けるようにして、彼女は歌っていた。
 空にかかる月を見つめ、どこか寂しげに歌うその横顔に、白樺の幹が透けて見える。
「これは……!!」
 澄み渡る歌声が呼び覚ます、懐かしい記憶。
 青白い月が照らす、清かな夢。
 この光景は――この記憶は――!!


 夢と現が重なり合う。
 天鵞絨の天蓋にかかる、吸い込まれそうなほどに大きな月。
 そして蒼い闇の中、満月を背に佇む、透き通った白い影――。


 それは
 彼方の約束
 遠き日の記憶

 遥か未来に 出会い
 遠き過去に 別れ
 そうして紡がれる 今――

 さざめく記憶の欠片
 輝く夜 光る永遠
 青き月が 照らし出す
 夢の彼方に お眠りなさい

 いつか出会う その夜に
 巡り巡って 還るまで――


 銀盤が映し出す、儚い幻。
 夢と現実の狭間で、少女は必死に手を伸ばす。
「かあ、さま……! 母様!!」
 切れ切れの呼びかけに、しかし答えはない。
 伸ばした手は空を切り、夜気だけが手の中に残る。
「母様! 私だ! ローラだ!」
 溢れ出す涙を拭おうともせず、必死に呼びかける。それでも、月を映す瞳は決して、我が子の泣き顔を映すことはない。
「母様……!!」
「落ち着け」
 静かに割って入った声に、びくりと肩を震わせる。振り返れば、そこには闇から抜け出て来たかのような黒髪の神官が佇んでいた。いきなり走り出した少女を必死に追いかけてきたのだろう、僅かに息を切らしながら、それでも足音ひとつ立てずに隣へ並ぶと、囁くように神聖語を紡ぐ。そしてすぐに詠唱を止めて息を吐き、やっぱりなと呟いた。
「用心棒……?」
「落ち着いて聞け。この人は――お前の母親本人じゃない」
「だって!!」
「聞けって」
 泣き顔で詰め寄ってくるローラの肩をぐいと押し返して、ラウルは歌い続ける影にそっと目を細めた。
「これは霊じゃない。残留思念なんだ」
「残留、思念……?」
 聞き慣れない言葉に、目を瞬かせる。
「ああ。強い想いが焼き付けられて残ったものだ。だからお前の声に反応することもない。ただ、繰り返し歌うことしかできないんだ」
 それはまるで自鳴琴のようなものだ。繰り返し同じ曲を奏でるが、それ以外のことはできない。
「考えてもみろ。あのハルマン分神殿長が首都と故郷の二か所できちんと葬儀を行ってるんだぞ。そんな丁寧に弔われて、まだ彷徨っている訳がない」
 試しに死霊返しの術を使ってみたが、全く手ごたえがなかった。ここにいるのは幻のようなもの。霊魂そのものではないのだから当たり前だ。
「でも……それじゃあ、なんで……?」
 なぜここなのか。共に過ごした王城でもなく、棺が安置されている王家の墓所でもなく、ただ遺品と髪だけが納められたこの質素な墓に、なぜ彼女の思いが強く焼き付けられているのか。
 疑問符で埋め尽くされた頭に、透き通った歌声が染み渡る。
 まるで幼子をあやすように、何度も何度も繰り返す旋律。

 いつか出会う その夜に
 巡り巡って 還るまで――

 そうして聞き入るうちに、いつしか濡れた頬は乾き、まるでそれを見届けたかのように、静かに歌が終わる。
 そのまま消えてしまうかと思われた幻は、ふわりと地面に降り立つと、すいと自らの墓石を指差した。
「母様?」
 残留思念だと分かっていても、つい呼びかけてしまう。勿論答えなどあるわけがない――と思っていたら、不意に目が合った。
「母様!?」
 穏やかな眼差し。その奥に光る、僅かな寂しさ。

 ――あなたの望むままに――

 囁くような声が、唸るような夜風に消える。
 そして、月が映し出した夢のような一時は、余韻に浸る間もなく終焉を迎えた。

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