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第五章[17]

「だから私は――」
 掠れる声を喉から押し出すようにして、言葉を続ける。
「――だから私は、己の力と記憶を封印して、彼女の胎内に宿ったんだ」
 その言葉を少なからず予想していたのかもしれない。ラウルはそうか、とだけ呟いて、傍らの墓石にちらりと視線を送った。
「ソフィアは、怒らなかったか?」
 そう尋ねる声こそ怒っているようだったが、そっと窺うといつもの飄々とした様子だったので、ここは正直に、どうかなと肩をすくめてみせる。
「そこから先は『ローラ』としての記憶だからな。用心棒だって、胎児の頃や赤ん坊の頃の記憶なんてないだろう?」
「それもそうか。ということは、お前が物心つくまでのことは分からないわけだ」
 しかも『ローラ』が把握していることは、かなり限られている。物心ついた頃にはすでにオーグは母の側近で、宮廷魔術士という制度はなくなっており、母に辛く当たっていた第一王妃エディセラも他界していた。
「そういうことだ。だからそれからのことは、これに残された記録が頼りだな」
 この事態を想定していたのか、契約更新のたびにソフィアは詳細な記録を契約石の中に残してくれていた。
「さすが、お前のことをよく分かってるな」
 感心しきりの用心棒は置いておいて、契約石を指先でなぞり、刻まれた記録を読み取っていく。
「ええと……ソフィアは最初、とても悲しんだそうだ。自分のことで私にそこまで心配をかけていたのかと。そして、何も相談せずに勝手に決めてしまった私に怒ってもいたらしい。でも――契約を破棄して全てを無理やり終わらせることはしなかった」
 契約を破棄することは簡単だ。しかし、それをしてしまうと『セシル』に二度と会えなくなる。それに――自らを投げ打ってまで願いを叶えようとした友の想いを無下にすることなど、ソフィアに出来るはずもなかった。
「三日三晩悩み抜いて、我が子として産み育てる決意を固めたところで、セシルの姿を見なくなったことに気づいたオーグに問い質されたらしい」
 悩んだ末、オーグには全てを打ち明けた。話を聞いたオーグは絶句して、そして一言「困った子だ」と呟いたという。
「王には打ち明けなかったのか。あの人ならきっと、真実を知っても受け止めてくれただろうに」
 意外そうに呟くラウルに、そっと微笑む。
(さっきのお前みたいにな)
 なんてことを口にしたら、用心棒はきっと渋い顔をするだろうから、心の中で囁くだけにしておいた。
「彼女はずっと、王だけには真実を告げようかどうか悩んでいたらしい。でも、ただでさえ王の子は政治的な策略に利用されやすい。真実を知る人間が少なければ少ないほど、最終的には王に迷惑をかけずに済むと考えたんだ」
 ほどなくしてソフィアの懐妊を知った王はとても喜び、一日に何度も彼女の顔を見に来ては、次第に大きくなっていく腹を愛おしそうに撫でていった。そんな様子を見てしまっては、ますます真実を打ち明けることはできなかった。
「そうして、月が満ち――生まれた赤子は、ソフィアによく似た女児だった」
 第一王女の誕生に、国中が沸いた。そしてその日から、ローラ国第一王女ローラ・セシリエ・アレクサンドラ=レジナとしての人生が始まる。
「赤ん坊は風邪一つひくことなく、すくすくと育っていった。何の問題もなく、すべてはうまく行っているように思えたが――いかに人間の形を取ろうと、本質は魔族のままだ。契約が全てで、そこから逸脱することはできない。特に問題だったのは契約期間だ」
 契約の有効期限は五年。延長するには期限終了までに再契約を交わさなければならないが、上級魔族との契約は大がかりで手間もかかる。王宮の者達――特に、宮廷魔術士達に気取られないように行うのは困難と思われた。
 何しろ、宮廷に集められた魔術士達は性格等に難こそあれど、それぞれ各分野の精鋭達だ。いつ王女の正体に気づくものが出てくるとも限らない。特にソフィアやオーグを疎んじていた者達など、彼女らを貶めるためなら何をしでかすか分からなかった。
「そんな連中もいたのか? 仮にも相手は第二王妃と宮廷魔術士長だろう?」
 眉をひそめるラウルに、まあなと苦笑を漏らす。
「中でも敵意剥き出しだったのは、とある召喚魔術士だったかな。自尊心の塊みたいなやつで、ソフィアが入るまで召喚魔術の第一人者としてデカい顔をしていたんだが、呼び出した魔族を奴隷のように使役するものだから、ソフィアとはしょっちゅう対立していた。ところがそのソフィアがあっという間に自分より腕を上げ、あまつさえ王に気に入られて第二王妃になったのだから、それはもう面白くなかっただろうな。事あるごとに突っかかってきて、彼女を辟易させていた」
 思うところがあったのか、苦虫を噛み潰したような顔になるラウル。
「なるほどねえ……男の嫉妬は見苦しいもんだ」
「まったくだ。そんな奴らが勘づく前に、そして最初の五年目がやってくる前に、どうにか手を打たなければならない。検討を重ねた結果――突破口となったのは、その年の異常気象だった」
「異常気象?」
「ああ。折しも、私が生まれた年は大雨続きで農作物に深刻な被害が出た年だった。加えて、あちこちで川が氾濫し、国中が水浸しになったらしい」
 備蓄食料の供出に始まり、堤防の補修や橋の掛け直しなど度重なる出費に国庫は疲弊し、王宮内も倹約を余儀なくされた。金のかかる行事や式典は取りやめになり、予定されていた王宮の改築工事や離宮の建設なども中止に追い込まれた。元々華美なものを好まない王はここぞとばかりに過剰な贅沢を禁じ、徹底的に無駄を省いた。
 その政策に便乗する形で、オーグとソフィアは宮廷魔術士制度の廃止を訴えたのだ。
「随分と思い切ったなあ。反発も強かっただろうに」
「ああ、だから表向きには、魔術に特化せず、叡智を集約する場として広く門戸を開くという名目で、新機関を設立したいと提案したらしい」
 宮廷魔術士の研究費用も国庫を圧迫する一因になっていたので、王はこの提案に飛びついた。そしてその年のうちに、宮廷魔術士に代わる組織として『王立研究院』が生まれることとなる。
「宮廷魔術士達は研究員として、王宮の外れに建てられた施設に活動の場を移した。そこに各地から呼び寄せた各分野の研究者やルース神殿からの客員研究員を加えて、研究院としての体裁を整えたんだ」
 急な立案と地位の低下を不満に思い、城を出て行った魔術士も少なからずいたし、王立研究院の院長職を辞退し、このまま引退するかと思われたオーグが第二王妃の側近として城に留められたことも波紋を呼んだ。
 しかし、設立されてすぐに治水分野で華々しい成果を上げたこともあり、わずか数年で王立研究院の名は国内外に知れ渡り、やがて誰もが宮廷魔術士という存在を忘れていった。
「そうやって城から魔術士を遠ざけ、最初の五年目をどうにか乗り越えた時に、第一王妃が病で身罷った」
 最期までソフィアを蔑み、そしてローラを認めようとしなかった王妃エディセラ。突然の他界に、ソフィアが呪い殺したのではないかという根も葉もない噂が飛び交った。母を失ったロジオン王子も体調が思わしくない日々が続いたため、世継ぎはローラ王女に、という声が高まるようになったのもこの頃だ。
「そして十年目、二度目の再契約を終えてすぐ、今度はオーグが倒れた」
 その時点で九十を超えていたオーグは、最期の時は故郷の村で迎えたい、と城を去り、故郷の村で静かに息を引き取った。母と二人で城門に陣取り、彼を乗せた馬車が見えなくなるまでずっと手を振っていたことを覚えている。
「オーグが城を去る前、しきりと『ご両親を大事にしなさい』と言われたんだ。なんでそんな当たり前のことを言うのかと思ったけど、今にしてみれば、あれはオーグなりの忠言だったんだろうな。この幸せな日々は永遠に続かない。残された時間を大切に使いなさいと」
 その時点で設立から十年を数えた王立研究院には、すでに魔術士が一人も残っていなかった。高齢で引退した者もいたが、ほとんどの者はローラ国内での魔術研究に限界を感じて去っていったのだ。
 そもそも、宮廷魔術士という制度が失われた時から、国内の魔術士達はこぞって隣国ライラへ移っていった。元々魔術が盛んなライラ国の外れには魔術士の研究・育成機関である『北の塔』がある。かつてローラ国の宮廷魔術士を目指していた者達は、塔に入り、やがては塔を束ねる賢人になることを目標とするようになっていた。
「王女を守るため魔術士を遠ざけた結果、自分達に何かあった場合に契約を引き継げる者がいなくなっちまったってことか」
「ああ。そういうことだ」
 しかし、そもそも第三者に契約を委ねるということは、王女の正体を明かすことに他ならない。そんなことが出来るはずもなく、どのみちこの幸せは永遠に続くものではないと、ソフィアもオーグも最初から分かっていたのだろう。
「……私は、何も考えていなかったんだ。自分がソフィアの子どもになることで、みんなうまく行くと思っていた。ソフィアも王も、オーグも喜んでくれると……。ソフィアをいじめる連中も黙るだろうと、そんな目先のことしか考えていなかったんだ」
 抱えた膝に顔を埋め、溢れ出る涙を押しつける。あっという間に色が変わってしまった布地を見つめれば、喉の奥から空虚な笑いが零れ落ちた。
「馬鹿だなあ、私は。喜ばせるはずが、むしろ悲しませてしまった。ソフィアにもオーグにも辛い日々を送らせて、王をはじめたくさんの人を騙して、関係のない人間まで巻き込んで――結果がこのざまだ」
「馬鹿言え」
 言葉と共に落ちてきた拳に、思わずぎゃっと悲鳴を上げる。
「何するんだ用心棒!」
 思わず顔を上げれば、そこには黒曜石の如き瞳。強い輝きに射抜かれて、涙がぎゅっと引っ込む。
「幸せな日々は永遠に続かないと言ったな。それはお前に限ったことじゃない。誰だって自分がいつまで生きられるか、そんなことは分からないんだ。百を過ぎてなお生きる者もいれば、生まれることすらできずに消えていく者もいる。いつ尽きるとも知れない命――その限られた時間をどう生きるか、それを決めるのは自分自身だ」
 凛とした声。精悍な横顔。今まで見たことのないそれは――ユーク神官としての、彼の顔。
「無数の命の、無数の選択が束となって、未来を紡いでいく。みんな迷ったり間違えたりしながら、その時自分が正しいと感じた方へ進んでいくしかないんだ。誰も正解なんて教えてくれないんだからな」
「用心棒……」
 考えてもみろよ、と意地の悪い顔を作るラウル。
「お前は自分一人で不幸を背負って立つつもりらしいが、例えば、オーグがソフィアを見出さなかったら? 国王がソフィアを見初めなかったら? そういう選択肢だってあったんだ。どれか一つを取り出して、これが元凶だと責めることが出来るか?」
「出来るわけないだろう! オーグがソフィアを見出していなかったら、私はそもそもここにいない! 王がソフィアを見初めなかったら、あんなに幸せそうなソフィアの顔を見ることはできなかったんだ。例えその選択が間違いだったとしても、それを責めたりなど――」
 顔を真っ赤にして言い募ったところで、はたと気づく。
「――そう、か。例え間違った選択だったとしても――そこから生まれた幸せまで否定してはいけない、のか」
「そうだ。お前が選んだ道の先に生まれた幸せも確かにある。それまで否定したら、ソフィアの決断まで否定することになる。彼女の努力も覚悟も全部無駄になっちまうぞ。それでいいのか?」
「よくない!」
 ぶんぶんと頭を振り、改めて傍らに座る男の顔をまじまじと見る。
 闇を司る神のしもべ、腕の立つ用心棒、救国の英雄――。様々な顔を持つこの男は、これまでどんな選択をしてここまでやってきたのだろうか。
「世の中は、幸も不幸も織り交ざって出来ている。どちらかだけをもたらすような奇跡なんて、それこそ神様だって起こせやしないんだ」
 小さい子どもに言い聞かせるように、優しく響く声。またぞろ溢れそうになる涙を誤魔化すように、わざと茶化して尋ねる。
「……いいのか、そんなことを言って。仮にも神官だろう?」
「安心しろ、このくらいでごちゃごちゃ言ってくる神様なら、俺はとっくに神官としての力を失ってるさ」
 不敵な笑みで答える用心棒。日頃どれだけ暴言を吐いているのか気になるところだが、うっかり聞いたら怖いことになりそうなので止めておく。
「嘆く暇があったら、出来ることを探せ。運命だの宿命だの、面倒なあれこれをひっくり返せるのは、最後まで諦めなかった奴だけだ」
 彼は語る。神の言葉を借りるのではなく、己の魂が紡ぎ出した言葉で。そして問いかける。暗闇を切り裂いて真実を取り出そうとするように。
「過去はもう変えられない。だが、未来は変えてゆける。今、お前がやらなきゃならないことは何だ?」
 世界を見晴かすその瞳で問われて、心は決まった。
「――城に戻って王に会うことだ!」
 それが、母と交わした最後の約束。そして――。
「そのためには、父に妙な術をかけた人間をとっ捕まえて締め上げなければならないな!」
 悲劇の主人公気分に浸ってる場合ではない。この地上に留まっていられる時間は、もう一月を切っている。
 限られた時間をどう生きるか。それを決めるのは――自分自身だ。
 そう教えてくれた黒髪の神官は、その意気だと不敵に笑った。
「よし、そうと決まれば、さっさと帰ろう」
 立ち上がりざまに頭をわしわしと撫でられて、思わず抗議の声を上げたところで、ひんやりとした風に背筋を撫でられて、ぶるる、と二の腕を擦る。
「ううっ、冷えたなあ」
「おい、風邪なんて引くなよ。さて……まずこの墓を元通りに直さないとな。それから村長の家に戻って、事の顛末を報告して……」
 ぶつぶつと呟きながら掘り返した地面を埋戻しにかかるラウル。それを手伝おうとして、少し離れたところから聞こえてきた小さなくしゃみの音に、それまですっかり忘れていたもう一人の人物の存在を思い出した。
「メアリア!?」
 慌てて周囲を見回せば、低木の茂みにへたり込んでガタガタと震えている侍女の姿。急いで駆けより、なぜか地面に散らばったままの籠の中身に眉を顰めつつも手を差し出す。
「悪い、メアリア! 冷えただろう、すぐに――」
 乾いた音が、墓地に響いた。
「あ……、いえ、私はっ……」
 差し伸べた手を跳ね除けられたと、遅れて気づく。そして、いつも白いメアリアの顔が、今は青く透き通るように見えることも。
「あの……わたしっ……」
 血の気を失った唇を震わせて、何か懸命に言葉を紡ごうとしている様子は、まるでおばけに怯える子どものようだ。
(おばけ……か。似たようなものだな)
 自嘲は心の中だけに留め、努めて明るい声を出す。
「メアリア、さっきの話だ――」
「ごめんなさいっ!!」
 弾かれたように立ち上がり、裾を絡げて走り去る赤毛の侍女。まるで何かに追われているかのように、あっという間に見えなくなった後姿に、呆然と立ち尽くす。
「メアリア……」
「突然のことで動揺したんだろう。なに、少しすれば落ち着くさ。今はこっちが先だ。ほら手伝え」
 そう促されて、慌てて白樺の根元に駆け戻る。二人がかりで墓石を元の位置に戻し、散らばった籠の中身を拾い集めていると、雲の切れ間から姿を現した三日月が大地を青白く照らしてくれた。
「……よし、これで全部かな。折角作ってくれたのに食べ損なってしまったな」
「なに、夜食としてありがたく頂こう。戻ったらそれを食いながら、今後のことを詰めるぞ」
 帰路も気がかりだが、何者かによって連れ去られてしまった妹のことも心配だ。用心棒はあえてその話題には触れないが、彼が折に触れて表情を曇らせていることなど、とっくの昔に気づいている。
 誕生日までに王城に帰って王の呪いを解く。妹を見つける。行動目標が曖昧だった往路に比べて、今度は極めて単純明快だ。これなら間違わない。全力で突っ走れる。
「よし、迷ってる暇はない。行くぞ用心棒!」
 元気よく歩き出せば、優しい夜風が頬を撫でる。

 ――いってらっしゃい――

 そんな声が聞こえた気がして振り向けば、青白い月を背に、白樺の枝が揺れていた。

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