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第五章[19]

 携帯用手鏡の蓋をぱたんと閉じ、どっと息を吐く。
 この胸に詰まった重苦しさも、何もかもすべて吐き出せればいい。そう思ったのに、深い息を吐いても胸の痛みは治まらず、そっと手鏡を胸に押し当てる。
「よう。こんなところでどうした?」
「!!」
 唐突に響いてきた声に、心臓が止まりそうになった。
 恐る恐る振り返れば、そこには夜風に髪をなびかせた男の姿。北大陸には珍しい黒髪と黒い瞳は、まるで闇がそのまま人の形を取って現れたかのようだ。
「部屋に戻っていないから心配したぜ?」
 たしなめるような響きを感じとり、動揺をそっと押し隠して頭を下げる。
「すみません、その……」
「まあ、あんなことがあったんだ、気が動転するのも当たり前だ」
 まるで他人事のような台詞に、胸の奥からふつふつと沸き上がってきたのは――怒り、なのだろうか。
「何故――」
「ん?」
「何故あなたは驚かないんです!? こんなっ……!!」
 胸が詰まって、言葉にならない。それは怒りなのか、それとも悲しみなのか。それさえも分からない。
「俺だって驚いてるさ」
 とてもそうは思えない口調で嘯く男。
「ただ、俺の周りには変わった奴が多くてね。これくらいのことでいちいち逃げ出してたんじゃ、この身がいくらあっても足りやしない」
 逃げ出す、という言葉が胸に刺さる。思わず拳を握りしめるメアリアに、男はなおも飄々と続けた。
「だったら、あるがままを受け入れた方が早いからな。それに、例えあいつが魔族だと分かったところで、何が変わる?」
「変わります! 人じゃ……ないんですよ!?」
「だから?」
 余りにもあっさりと言われてしまったから、一瞬何を言われたのか分からなかった。短い返答を頭の中で反芻して、ようやくその意味を理解し、そして呆然と立ち尽くす。
 自分が越えられない――越えられる訳がないと決めつけていた壁を、目の前の男はあまりにも鮮やかに飛び越えてみせたのだ。
「なんで……あなたは……」
 込み上げてくる感情が何なのか、もう訳が分からない。ただただ胸が苦しくて、喉が詰まる。
「泣くなよ」
 そう言われて初めて、頬を伝う涙に気づく。泣いている自分があまりにも愚かで、そして滑稽で――余計に涙が止まらない。
 駄々をこねる子どものように頭を振るメアリアからついと視線を外し、男は静かに夜空を見上げた。
「今、一番辛いのはあいつだ」
 その言葉に、弾かれたように顔を上げる。月を見上げる横顔はどこか悲しげで、しかしその瞳は力強く輝いている。
「ずっと人間だと思って生きてきて、いきなり自分は魔族だと、しかもあと少しで消える運命だと知らされたんだ。それなのに、あいつはあんたの心配ばかりしてる。まったく、お人よしだよな」
「ローラ様……」
 まず脳裏に浮かんだのは、弾けるような笑顔。怒られて拗ねている横顔や、難解な問題に悩まされて眉根を寄せる姿。思い出の頁をめくれば、そこに描かれているのはそんな――深窓の姫君とはかけ離れた、それでも人々を惹きつけてやまない、溌剌とした姿ばかり。悲嘆の涙に暮れたり、理不尽さに泣き叫んだりといった姿は一つもないことに、今更ながらに気づかされる。
 ぎゅっと手鏡を握りしめ、俯くメアリアの背に、追い打ちをかけるような声が響く。
「ローラは、あんたを姉のような存在だと言っていた。召使いじゃなく家族なんだと。だから――頼む。あんただけは、あいつを泣かせるような真似はするな」
「!!」
 衝撃が全身を駆け抜ける。まるで雷に打たれたような――体を引き裂かれるような衝撃。
 ああ、そうだ。これは裁きの雷なのだ。そう気づいた瞬間、胸に渦巻いていた感情の正体を知った。
 怒りでも、悲しみでもない。それは――怯えと、そして疾しさ。
「私はっ……」
 震える手から零れ落ちた手鏡が地面に滑り落ちて、がしゃんと耳障りな音を立てる。
 そんな彼女を静かに見下ろして、黒髪の神官は再び口を開いた。
「――言いたいことはそれだけだ。俺達は明日早くに村を出る。その時までに腹を決めてくれ」
 くるりと踵を返し、再び闇の中へと消えていくラウル。
 あっという間に小さくなっていく後ろ姿を、赤毛の侍女はいつまでも――いつまでも、見つめ続けていた。


 夢を見ていた。
 王宮の裏庭。五分咲きの薔薇と、霞む青空。
 幼い自分を叱っているのは、まだ髪を三つ編みに垂らした年若い侍女。ひとしきり説教をしながらも、噴水に突っ込んでずぶ濡れになった小さい体をそっと抱き締めてくれる。
 その暖かさに、思わずにんまりと笑みを浮かべたら、反省の色がないと叱られた。

「だってぇ……」
 不貞腐れた自分の声に驚いて、ふっと眠りから醒めかける。
 どうやら寝台の上で暴れていたらしく、きちんとかけていたはずの毛布は床へとずり落ちて、夜気に晒された体はすっかり冷え切っていた。
 面倒だなあ、などと考えていたら、ふわりと体が暖かくなる。
 夢と現実の狭間で、誰かが落ちた毛布を掛け直してくれたのだと、ぼんやりと理解した。
「ありがとう、メアリア」
 はっきりと礼を言ったつもりだったのに、口から滑り出るのは幼子の戯言のように曖昧な言葉ばかり。
 それでも、頭を撫でてくれたその手は、昔のように優しくて。
 ああ、やっぱりメアリアは優しいなあ、と安堵の笑みを浮かべて、再び深い眠りの淵へと落ちていく。
 そして夢の扉を潜り抜けたその瞬間、どこか遠くで扉が閉まる音を聞いた気がした。

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