第六章[7]
 事の発端は、数日前の何気ない会話だった。

「この町もか。伝令ギルドの仕事は実に迅速かつ確実だな」
 路地裏の壁にまでべたべたと貼られた手配書を眺めつつ、そんなことを呟く少女に、地図とにらめっこをしていた青年は呆れたとばかりに肩をすくめてみせた。
「素直に感心してる場合か」
 そう窘めたものの、彼自身もすでに見慣れてしまっており、初めて見た時の衝撃は薄れている。
 初めてこの新たな手配書を発見したのは、三日ほど前に立ち寄った村だった。休憩で立ち寄った村の古びた酒場、その壁に貼られていた真新しい手配書。描かれていた人相書きは実に簡素なもので、おかげで当人が見ても「誰だこれ?」と首を傾げる有様だった。もっとも、そのおかげで今まで通報されずに済んでいるのだから、むしろ有難がるところかもしれない。
「それにしても、国王の名を騙って指名手配とは、誰の仕業かしらんが大胆なこった」
 『元・王女誘拐犯』ラウル=エバスト、そして『攫われた王女』改め『国王暗殺未遂犯の魔族』ローラ。
 濡れ衣もいいところの嫌疑をかけられた二人が、ローラの亡き母ソフィアの故郷であるトゥールの村を出発し、エンリカの町から乗合馬車を乗り継いでエルドナ近郊の町グルーシャまでやってきたのは、つい半刻ほど前のことだ。
 エンリカからグルーシャまで、実に九日間の旅だったが、乗り合わせた客がほとんどいなかったため、見慣れない旅人に疑惑の目を向ける者がいなかったのは実に幸いだった。
 とはいえ、これまで休憩で立ち寄った町や村の大半には、すでに手配書が回っていたし、この先首都に近づくにつれ、周囲の目も厳しくなってくるだろう。
「ここまで手配書がばらまかれているとなると、やっぱり乗合馬車はもうやめた方がいいな。乗ってる最中に他の乗客にばれて騒がれると厄介だ」
「迷惑をかける、の間違いだろう」
 生真面目に訂正してから、しかし、と腕を組むローラ。
「何しろこの金額だ、賞金稼ぎも躍起になっているというじゃないか。それを考えると、やはりエルドナに立ち寄るのは危険すぎやしないか?」
 交通の要所であるエルドナは、普段から旅人が多く立ち寄る町だ。ましてラウルには昨年の一件で因縁もあり、そこそこ顔も知られている。だからこそ、あえて手前の村で馬車を下りて、情報収集を試みることにしたわけだ。
「ちょっと野暮用があってな。どうしても立ち寄る必要があるんだ。それに、上手く行けばこの先の移動手段も確保できるかもしれない」
 何しろ、残された時間はあまりない。限られた日数で首都まで辿り着くためには、徒歩以外の移動手段はどうしても必要だ。
「それなら、せめてエルドナに入る前に、もっとしっかり変装した方がいいな。お互いに」
 苦笑を浮かべるローラは、普段は三つ編みにして垂らしている髪をまとめて帽子の中に押し込み、体の線が出ないように外套をきっちりと着込んで、ラウルから借り受けた長剣を背負っている。本人曰く『冒険者になりたての少年』という設定らしい。
 一方のラウルはというと、旅の始まりから一貫して、ド派手な頭布で黒髪を隠し、そろそろくたびれてきた旅装に身を包んでいるだけの、簡素な出で立ちだ。
「俺の方はすでに、世間の口にも上らなくなってるみたいだからな。あんまり気にしないでもいい気がするんだがな」
 なにせ、新しい手配書はほとんどの場所で、以前の手配書の上に重ねるような形で貼り出されている。一時期やけに流布していた「手に手を取って駆け落ち説」も、ここ最近はあまり聞かなくなってきた。
「……ところで用心棒。こんなところで隠れてないで、早く食堂を探さないか? 私はもうお腹がペコペコだ」
 不意に真面目な顔つきになったかと思えば、腹を押さえてそんなことを言ってくるローラに、ぐったりと脱力するラウル。
「お前なあ……魔族は食事も睡眠も必要としないって言ったのはどの口だ!?」
 トゥールの村を発って以降、折に触れ昔の話をするようになったローラだったが、まず最初に説明してくれたのは、ラウルにはあまりなじみのない魔族という存在についてだ。
 中でも興味を引いたのは、魔族は実体のあるなしに関わらず、睡眠や食事といった生理的欲求がほとんどないのだという話だったのだが、その割には一日三度、きっちりと空腹を訴えてくる。
「摂らなくても命に関わるわけではない、というだけだ! 味だって分かるし、何より食事によってもたらされる幸福感は何物にも代えがたい!」
 そう力説するローラは、人間として生活していた時間が長かったせいも勿論あるが、魔族として暮らしていた頃から、ソフィアのご相伴に預かってあれこれ食べていたようだから、その習慣が染みついてしまったのかもしれない。
「お前がソフィア王妃の傍にいた頃は、さぞ食費が嵩んだんだろうなあ」
「そんなことはないぞ。城にいた時はなるべく姿を見られないようにしていたから、当時の料理長自慢の料理やお菓子も滅多に食べられなかったんだ。晩餐会のご馳走なんか夢のまた夢だった。今の料理長も腕はいいんだが、お菓子があまり得意じゃなくてな。いや、不味くはないんだが一工夫足りないというか……造形にこだわるあまり、味や食感を二の次にしているというか……」
 実に残念そうに呟く辺り、単に食い意地が張っているだけかもしれないが、実際問題として、一人だけ食事をとるのも不自然だし、なにより気が引ける。早いところ食堂を探そう、と地図をしまいながら、ラウルはふと気になって口を開いた。
「そういやお前、昔はソフィアの影の中に潜んでたって言ってたよな」
「ああ。元々私は実体を持たない魔族だからな。そういうのはお手の物だ」
 得意げに答えるローラは、すでに昼飯のことで頭がいっぱいらしい。きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回して、お目当ての看板を探している。
「しかし、なんでわざわざ姿を隠してたんだ?」
 第二王妃ソフィアが魔術士であることも、はたまた召喚魔術に長けていることも、王宮内では公然の事実だったはずだ。それならば、使役する魔族が堂々と姿を現していても何の問題もないのではないか。
 そんな疑問に、ローラはふと昔を懐かしむような表情になって、苦笑混じりに説明してくれた。
「それが、第一王妃エディセラが大の魔族嫌いでな。うっかり鉢合わせでもしたらどんな嫌味を言われるか分かったものじゃない。だったら、普段は影の中に潜んでいた方がいいだろうということになったんだ」
 そうなると、実体でうろうろ出来るのはソフィアの寝室か研究室、そしてお忍びで城の外に出かけた時に限られるのだが、さほど不都合もなかったし、影の中にいる時はソフィアと思念で会話が出来たから、他愛もない内緒話で盛り上がったりして、それはそれで楽しかった。
「……やたらと突っかかってくる同僚を笑顔で論破しながら、私と『顔を合わせると毎度これだもの、本当にうんざりだわ』『この男は確か、鼠が大の苦手だったはずだ。幻を出してやったら悲鳴を上げて逃げていくんじゃないか』『それいいわね、ぜひお願い』なんて、影ながら作戦を立てたりしてたんだ」
「……なるほどな」
 呆れ顔で相槌を打ちつつ、ふむと顎を掴むラウル。
「幻を生み出す、か。変身魔法も得意だって言ってたよな。つまり、お前の種族は隠密・攪乱行動向きってことか」
「そういうことだ。自慢じゃないが、私の作り出す幻は、触れてみない限りは見破られないくらいすごいんだぞ」
 えっへん、と胸を張るローラに、すかさず切り返すラウル。
「『すごかった』の間違いだろうが! 力の使い方をすっかり忘れてるくせに、自慢げに言うな!」
 容赦ない指摘に、ばつが悪そうに人差し指を突き合わせつつ、少女はでもでも、と言い募った。
「ちゃんと練習はしてるぞ! 少しずつだけど、勘を取り戻して来てるんだ! ほら!」
 そう言うなり、地面に落ちたラウルの影を勢いよく踏みつけるローラ。次の瞬間、その体が腰の辺りまでずぶっと影に沈み込んだではないか。
「げっ……!!」
 思わず飛びずさりそうになったラウルだったが、どうにか踏みとどまると、まるで悪戯を成功させた子供のような顔でこちらを見上げている少女をまじまじと見つめて呟いた。
「……地面に突き刺さってるわけじゃないよな」
「違う!」
 水から上がるように影の淵を掴み、よいしょと体を引き抜いて地面に立ったローラは、どうだとばかりに腕組みをしてふんぞり返った。
「まだ全身隠れるのは難しいが、このくらいなら出来るようになったんだぞ。こっそり練習した甲斐があった!」
「……夜中にこそこそやってると思ったら、そんなことしてたのか」
 他の乗客がほとんどいなかったのを幸い、休憩時や皆が寝静まっている隙を見計らって練習したというその努力は認めたいが、いくら記憶を封印されていたとはいえ、先天的な素質や能力をそこまで見事に忘れている魔族というのは、召喚魔術師が見たら卒倒ものなのではないだろうか。
「元の姿に戻るのはなかなか難しいし、幻を作り上げるのもまだできないんだが、こちらも練習中だ。あ、あと変身魔法は――」
 人差し指を振ってみせると、一瞬でローラの髪と目の色が鳶色へと変化した。
「このくらいなら出来るようになったぞ! 色を変えただけでも大分印象が変わるだろう? しばらくはこれで過ごそうかな」
「それはいいな。髪型と服も替えちまえば、かなり違って見える」
 そのくらいなら、わざわざ魔法を使わずとも、多少の手間と金でどうにでもなる。この町に古着を売っている店がないもんか、と呟くラウルをふと見つめ、ついでに、と続けるローラ。
「用心棒のことも変身させられたら、そんな派手な頭布で髪を隠さなくてもよくなるのにな。まだ自分以外で試したことはないんだが、やってみようか?」
「え? いや、おい――」
「えいっ」
 気の抜けた掛け声とともに人差し指を振られ、逃げる間もなくそれは起きた。
 絵本に描かれるような、謎の煙や光の粒をまとうような派手な演出も、何もなく。

「あ、出来た」

「――おい……」
 怒りに震える自分の声が、いつもより遥かに高い。
 咄嗟に抱きしめた自分の体は一回り小さく、いやにほっそりとして――そして。
「なんだこれは!!」
 思わず頭を抱えれば、緩く巻いた金の髪がばさりと視界に入る。更に、だぶだぶになった服の胸元からは――存在してはいけないはずのものが見えた。しかも無駄にでかい。
「おかしいなあ? そんな極端に姿を変えるつもりなんかなかったのに。でも、これなら絶対に用心棒だなんて気づかれないし、いいんじゃないか?」
 呑気なことを言っている少女の胸ぐらを掴み、がしがしと揺さぶりながら絶叫する。
「なんで!! 女に!! なってるんだ!!!!」
「うーん、なんでだろうなあ?」
 のほほんと答えるローラだったが、その様子を見る限り、どうやら単純な失敗や嫌がらせなどではなく、本当に理由が分からないようだ。
「早く戻せ! 今すぐ戻せ!!」
「分かった分かった。ちょっと待て。えいっ!」
 人差し指を振り、先程よりは気合のこもった掛け声を発するローラだったが、何度か同じことを繰り返し、そしてきょとん、と小首を傾げてみせた。
「あれー? 戻らないな?」
「ふざけんな!!!」