第六章[8]
「なーんでオレがこんなことー」
 ぶうぶう文句をたれつつ、茶器の載った盆を片手に執務室の前までやってきた若き魔術士は、分厚い樫の扉の前で足を止めると、そそくさと身なりを整えた。
 なにせ扉の向こうにいるのは彼の師匠にして、三賢人が一『北の魔女』だ。何やら重要な会談の最中らしいから、下手な格好をしていくとこっぴどく叱られる可能性が高い。
「あー、駄目だこりゃ」
 寝癖のついた髪の毛は諦めて、扉を叩こうと手を伸ばしたその瞬間――。

 ぎゃっはっはっはっは……!!

 扉の向こうから響いてきた笑声に、ぎょっと目を丸くする。
 強固な防音結界が施されているはずの執務室。その結界を突き破って声が聞こえてくるということは、結界を発動・維持している本人――『北の魔女』ことアルメイアの集中力が途切れた証拠でもある。
(めっずらしー。ししょーがここまで取り乱すなんて、こりゃ明日は雪かあ?)
 面と向かって言ったら殴られそうな感想を抱きつつ、茶器の載った盆を床に置いて、ここぞとばかりに扉へと耳を押しあてる。
(こんだけ結界が緩んでいる今なら、オレだって……!)
 どうでもいいところで底力を発揮すると評判の初級魔術士は、聴力拡大の術式をそっと展開すると、ようやく笑いの発作が治まって本題に入ったらしい師匠の声に意識を集中した。


『――だからっ、あいつが『えいっ』とかやりやがって、それがこんな……おい、聞いてるか!?』
「き、聞いてる聞いてる……! ちゃんと聞いてるってば……!!」
 涙を拭いながら、震える声で答えるアルメイア。美女が悲痛な面持ちで珍事を訴える姿は謎の感動を生み、笑いの連鎖が止まらない。椅子から転がり落ちなかったのはいっそ奇跡と言っていいだろう。
『だから嫌だったんだ……!』
 怒りと羞恥で顔を真っ赤に染める『彼女』に、もはや背もたれに懐かんばかりのちびっこ魔女は、ごめんごめんと手を振ってみせる。
「ほんとごめん、でも無理だわよ、こんなの。想定外もいいところだもの!」
 ひとしきり笑い転げてようやく落ち着いたアルメイアは、よいしょと椅子に座り直すと、改めて鏡の向こう――憮然とした表情で立ち尽くす金髪の美女と対峙した。
 絵画から抜け出してきたような、美しく整った顔立ち。そこに『不良神官』の面影はどこにもない。それでも、乱暴だがどこか温かみのある口調や、その瞳に宿る揺るぎない輝きは、まぎれもなく彼――ユーク神官ラウル=エバストそのものだ。
「要するに、変化の術がおかしな感じで発動した挙句、解けなくなっちゃった、ってわけよね」
『そういうことだ』
 渋面で頷くラウルを横目に傍らの杖を手に取り、素早く呪文を唱えれば、紫色の双眸が僅かに光を帯びる。
「軽く調べてみるわ。ちょっと動かないで――あら、何よこれ」
 《魔力探知》の術を通して見た『美女』の体には、赤紫色に光る鎖のようなものが十重二十重に絡みついていた。鏡越しでは細かいところまでは読み取れないが、通常の変化の術とはかなり様子が違っている。
「なるほど――だからそんな変な感じになっちゃってるわけね。……で、それをかけた張本人はどこにいるのよ?」
『下手に魔術士ギルドへ近づいたら看破される可能性があるっていうから、町外れで待機してもらってる。おやつを置いてきたから半刻はじっとしてるはずだ』
 高位魔族に対する扱いとは到底思えないが、ひとまず今は聞き流しておいて、アルメイアは《魔力探知》の術を解いた。
「簡単に言うなら、変化の術式がねじくれて、おかしなことになってるって感じね。ただ、これは一筋縄じゃ行かないわ。少なくとも、《魔鏡》越しじゃどうにもならないわね」
『……そうか……そうだよなあ』
 がっくりと肩を落としたラウルだったが、すぐに顔を上げ、毅然とした表情でこう切り出した。
『とりあえず俺のことはいい。もう一つ。魔族について詳しい奴がいたら、頼みたいことがあるんだが……』


 突如復活した防音結界に弾かれて、ぎゃっと扉から耳を離す。
「くっそー、肝心なところが聞こえなかったじゃないかー」
 押し当てすぎて赤くなった耳をさすりつつ立ち上がった少年は、床の上に放置したままの茶器の存在を思い出して、大慌てでお盆を取り上げた。
 『北の塔』の紋章があしらわれた陶磁器の茶器一式は、賢人と賓客のみしか使うことを許されない一級品だ。しかも中身は三賢人が一『極光の魔女』ユリシエラが手ずから淹れてくれた紅茶。添えられているのは、これまたユリシエラお手製の焼き菓子である。
「あー……やっぱ冷めちゃったよなー」
 これをこのまま持っていっても、叱られることは必至。しかし、厨房へ戻って淹れ直してくる時間はない。それならば――。
「よし。なかったことにしよう」
 くるりと踵を返したところで、背後でばんっと扉が開く音がした。
「立ち聞きとは失礼千万じゃないの、ハル!!」
「ひいいいい!!」
 引き攣った悲鳴を上げる弟子からお盆を奪い取り、高らかに申し渡す。
「罰として、今からちょっとローラ国までお使いに行って来なさい!」
「はあ? なんだよそれ?」
「問答無用! 次の鐘までに支度してきなさい。一秒でも遅れたら承知しないわよ!」
「うわあああああ、ししょーのおにー!!」
 泣き叫びながら廊下を駆けていく『不肖の弟子』。文句を言いつつもきっちり最短経路を選んで走っていくあたり、さすがアルメイアの下で二年も扱き使われてきただけのことはある。
「まったくもう、油断も隙もないったら」
 廊下の彼方に消えていくハルを見送って、そそくさと扉を閉めれば、背後から心配そうな声が響いてきた。
『……おい、何だ今の悲鳴は』
「気にしないで、こっちの話よ。えっと、話が途中になっちゃったわね。とりあえず、召喚魔法に詳しいやつをそっちに行かせるから、あんた達はそのまま首都を目指しなさい」
 壁に貼られた大陸地図に目をやり、ざっと計算をする。『北の塔』からローラ国へ向かう場合、陸路なら優に一月以上はかかるが、魔術士にはいくらでも奥の手がある。
「そうね、ここから最短で荒野を抜けたとして――そうね、早くて三日、遅くとも五日後には合流できるはずよ。その間に少しでも先に進みなさい。時間がないんでしょ」
『分かった。……恩に着る』
 深々と頭を下げられて、アルメイアは大慌てでやめてよ、と手を振った。
「あんたに頭なんか下げられたら気味が悪いわ。全部終わったら、今回のことも、前回のことも、あと《竜の卵》のことも、全部教えてもらうからね! そのためにもさっさと面倒事を片付けてきなさい! これは命令よ!」
 ぷいっとそっぽを向き、照れくさそうに頬を掻けば、鏡の向こうでくすりと笑う気配がした。
『分かったよ。ああ、いや――謹んで拝命いたします、『北の魔女』殿』
 ようやくいつもの調子を取り戻し、優雅に一礼してみせるラウル。その所作があまりにもハマり過ぎていて、逆に不安が込み上げてくる。
「……あんた、外で愛想振りまくのはいいけど、襲われないように気をつけなさいよ?」
『やめろよ、考えたくもねえ……』
 猫のように身震いをする『美女』に対し、真顔で「危なくなったら大声出して逃げるのよ」と忠告しておいて、アルメイアは引き出しから便箋を取り出すと、さらさらとペンを走らせた。
「ひとまず、あんたは私個人が雇ってる調査員ってことにしておくわ。その方が何かと動きやすいでしょ。名前は……そうねえ。何にする?」
『なんでもいいさ。今まで使ってた偽名も、このなりじゃ使えないからな』
 それじゃあ、としばし思案を巡らせて、はたと手を打つ。
「『アウラ』っていうのはどう? 元の名前と発音が似てるし、返事しやすいんじゃない」
「アウラ、か。へえ、いいな」
 ちょっとした思いつきだったが、思いのほか気に入ってもらえたようだ。意味は後で不肖の弟子が解説してくれるだろうから、ここでは黙っておく。
「じゃあ、健闘を祈るわ。全部終わったら、こっちに顔出すの忘れないでよね! あ、手鏡も返しなさいよ!」
 分かったわかったとぞんざいに手を振る『アウラ』に、ギルドの職員と代わるよう言いつけて、しばし椅子に沈み込む。
「まったくもう……あの男と関わるとろくなことがないわね」
 口ではそうぼやいてみせるアルメイアだったが、その瞳はいつになく輝いていた。連日の会議で疲れ果てていた彼女にとって、この降って沸いたような『珍事』はまさに起爆剤だ。生来の探究心に火がついて、一気に燃え上がっていくのを確かに感じる。
「上位魔族との無期限契約? しかも契約魔族は命令振り切って勝手に転生? 無茶苦茶すぎるでしょ。さすがは『暁の魔女』と言うべきなのかしら」
 直接の面識こそないが、隣国ローラの故・第二王妃ソフィア・ジェイメインは、魔術士の間ではかなりの有名人だ。生前の彼女を知る魔術士は口を揃えてこう断言する。『非常識が服を着て歩いているような魔女』と――。
(……私以上に非常識な魔女なんて、そうそういるもんじゃないと思ってたけど)
 そっと苦笑を漏らしたところで、《鏡》の向こうがにわかに騒がしくなった。
 何やら押し問答するような声が聞こえた後、ほとんど押し出されるようにして鏡の前に姿を現したのは、枯れ木のように痩せ細った中年男だ。
『おおおおお待たせいたしました、アルメイア様!! 本日は生憎、ギルド長が不在でして、私は代理の――』
「挨拶は抜きよ! 緊急の用件なんで手短に言うわね。まずは――」
 男が名乗る隙も与えず、矢継ぎ早にあれこれと申し付けて、一方的に術を切る。そうしてちらりと時計を窺えば、次の鐘――会議開始時間のちょうど五分前だった。
 未だ戻ってくる気配のない弟子に気を揉みつつ、あーあ、と執務机に頬杖を突く。
「会議なんて面倒くさいったら」
 やっぱり、仮病でも使って抜け出しちゃおうかしら、などと呟いた矢先――。
「アル? もうじき会議が始まりますわよ~」
 狙い澄ましたかのように、扉の向こうから響いてきた声。
 扉からひょいと顔を覗かせた『極光の魔女』は、椅子からずり落ちそうになっているアルメイアの姿を見つけてにっこりと微笑んだ。
「良かった~。逃げ出してませんでしたわね」
「あ、当たり前でしょ!」
 何でもなかったように椅子から飛び降り、ふんぞり返って答えるアルメイア。そんな様子を微笑ましく見つめながら、ユリシエラは「ところで」と小首を傾げてみせた。
「さっき、ハルくんが半べそ掻きながら走っていくのが見えましたけど、また無茶なことを言いつけたのではないでしょうね?」
「とんでもない。むしろ感謝してほしいくらいだわ。このつまらない会議にこれ以上付き合わないで済むようにしてあげたんだから」
 賢人会議における初級魔術士の仕事などお茶汲みと道案内くらいのものだが、そこはあえて触れないでおく。
「本当はアルが行きたいんでしょう?」
 何食わぬ顔で尋ねてくるユリシエラは、一体どこまで事態を把握しているのやら。あれこれ聡い彼女をいくら追及しても無駄だと分かりきっていたので、アルメイアはただ、ひょいと肩をすくめてみせた。
「今回に関しては多分、私よりあいつの方が適任だもの。弟子の実力を信じて送り出すのも、師匠の役目よね」
「成長しましたわねえ」
 嬉しそうにうんうんと頷いて、涙を拭う真似をするユリシエラ。流石に文句を言おうと口を開きかけたその時、廊下の彼方からけたたましい足音が響いてきた。
「やべー! 超ギリギリだー! ししょー! ししょー! まだ鐘鳴ってないっすよねー!」
 あらあら、と口に手を当てるユリシエラを押しのけ、大きく息を吸い込む。
「静かにしなさい、馬鹿―!!」
「ひっでえ! オレ、超頑張ったのに!!」
「……やっぱり人選を間違えたかしら」
 ぜえはあと肩で息をしている不肖の弟子を睨みつけ、『北の魔女』は大きな溜息を吐いたのだった。