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Gesundheit

 それは、一発のくしゃみから始まった。

 へくしっ

 唐突に口から飛び出たくしゃみに一番驚いたのは誰であろうエスタス自身で、そして次に驚いたのは目の前で読書に勤しんでいた幼馴染のカイトだった。
「おや、エスタス。風邪ですか?」
「まさか。誰かが噂でもしてたんじゃないか」
 ぐしぐしと鼻を擦りながら、そんな軽口を叩く。そんなエスタスにカイトもまた、それもそうですねー、などと相槌を打って、再び本に目を落とす。
 かれこれ二十年近い付き合いの彼らは知っていた。
 エスタスが、生まれてこの方、病気一つしたことのない健康優良児であること。
 むしろ、何かにつけて熱を出していたのはカイトの方で、それも冒険者家業についてからは大分体力もついたのか、ほとんど寝込まなくなったことも。
「今年は随分冷え込むからなあ。お前、ちゃんと着込んで寝ろよ」
「分かってますよ」
 いつも通りのやり取りを交わし、夜更かしをしようとするカイトを叱って明かりを落とし、寝台に横になる。
 明日は晴れるようだから、たまっている洗濯物を片付けよう。あとは久し振りにエドガーさんに稽古でもつけてもらおうか。そんなことを考えながら眠りにつき――。

 そして、翌朝。

「エスタス? どうしたんですかエスタス!? レオーナさん、大変ですっ! エスタスが、エスタスがー!!」
 『見果てぬ希望亭』に、カイトの絶叫が響き渡った。

「風邪だな」
 にべもなく言い放って、ラウルは固く絞った布をぺしゃりと額に置いた。
「そんな、エスタスが風邪を引くだなんて……っ」
 悲壮な顔で呟くカイトに、呆れ顔で肩をすくめる。
「こいつだって人間なんだ、風邪くらい引くさ。なあ?」
「いやー、いままでひいたことないんですよ、まじでー」
 見事な鼻声で律儀に答えるエスタス。その声が妙に間延びして聞こえるのは、やはり熱が高いせいか。
「二十年生きてて、風邪一つなしか。どんだけ頑丈なんだ、お前」
 喋った拍子にずれた布を直してやりながら、ちらりと窓の外を窺う。昨日まで吹き荒れていた雪はどうにかおさまり、今日は久々の太陽が照っている。しかし、まだ春は遠く、特に朝夜の冷え込みときたら、布団をかけていても体の芯まで凍りつきそうなほどだ。
「ま、昨日は随分冷え込んだし、こないだの戦いの疲れが溜まってたのかもな。飲み薬を出しておくから、それ飲んでゆっくり休め。お前は体力あるし、すぐに良くなるさ」
 愕然と立ち尽くすカイトに一日分の薬を渡し、それじゃ、と席を立とうとするラウル。その腕にがしっとしがみついて、カイトは絶叫した。
「行かないで下さい! 病人を置いていくなんて酷いじゃないですか!!」
「あのなあ……」
 心底呆れた、という顔で、腕に張り付いたカイトを引っぺがすラウル。
「そんな大げさな病気じゃないだろうが! 俺は忙しいんだ。明日また寄るから――」
「だって、『風邪は万病の元』って言うじゃないですか! こんな時に限ってアイシャはまたどっかに行っちゃってるし、レオーナさんは忙しいし、エドガーさんは喋ってくれないし、僕もうどうしたらいいか!」
 日頃の理路整然とした喋り方はどこへやら、見事な混乱っぷりだ。
「看病すりゃいいだろ、看病すりゃ! お前、昔は病弱だったんだってんなら、いくらでも看病された経験があるだろうが! やってもらったことをやってやりゃいいんだよ!」
 その言葉に、ぽん、と手を打つカイト。
「なるほど! そうですよね、僕が昔してもらって嬉しかったことを、今度はエスタスにすればいいんですね! 分かりました! 僕、頑張りますっ!」
 俄然やる気を出したカイトに、その意気だ、と頷いて、そそくさと部屋を後にするラウル。
 そして、二人きりになった部屋で、カイトはばっと神官衣の腕を捲り上げると、寝台のエスタスに向けてお日様のような笑顔を向けたのだった。
「エスタス、僕がついてますからね! 安心して下さい!」
「あ、ああ……」
「そうと決まったらまずは、えっと、そうだ、おでこの布を換えましょう! ああっと、水が温くなっちゃってますね、僕、換えて来ますぎゃっ」
 ばっしゃーん
「……お前……」
「わわ、すみませんっ、頭からかかっちゃいましたね。じゃあ着替えを……その前に敷布を換えてもらわないと! 僕、ちょっと行って来ます!」
 ばたばたと走り去って行くカイト。その妙に浮かれた足取りを見送りながら、ずぶ濡れのエスタスは空っぽのたらいを手に、やれやれと肩を落とした。
「……大丈夫なのか、俺……」
 ややあって、遠くから誰かが階段を転げ落ちるような音が響いてきて、エスタスは深い溜息をついたのだった。

 そして。
 恐怖の看護が幕を開けた。

「あち、あっちー!!」
 エドガーが作ってくれたお粥を「はい、あーん」してくれようとして取り落とし、二度目のお着替え。

「まず……! ぐおっ……ぎゃあああああ、なんだこりゃあああああ!!!」
 ラウルのくれた風邪薬に、勝手に色々な薬草を加えて得体の知れない沼色の液体に仕立て上げ、そのあまりのまずさに器を取り落とせば、みるみる紫色に変色していく寝巻きと毛布に絶叫。そして三度目のお着替え。

「……げほっ……ごほごほっ……、おい、なんでこんなに煙いんだ……?」
「ちょっと! 部屋の中で焚き火なんかしちゃ駄目じゃないのっ!!」
 暖炉のない部屋をどうにか暖めようと火を炊こうとして、慌てて駆けつけたレオーナがぶっかけたバケツの水がかかり、四度目のお着替え。

「なあ……何にもしなくていいから」
 げっそりとした顔で懇願するエスタスに、しかしカイトは何を言ってるんですか、と怒ってみせる。
「仲間が寝込んでいるのに、何もしないでいるなんて出来ませんよ! 何かして欲しいことがあったら何でも言って下さいね!」
「……だから、何もしないでくれって――」
 と、その言葉を遮るように扉が勢いよく開いたかと思ったら、まるで突風のように飛び込んできた、褐色の肌の乙女。
「あ、アイシャ――」
「風邪、引いた? 熱、ある?」
 帰ってくる途中で誰かに聞き及んだのか、珍しく強い口調のアイシャに、思わず頷くエスタス。するとアイシャは、つかつかとエスタスの側に歩み寄り――
『荒ぶる氷の乙女、凍れる息吹を――』
「ああ、氷を出してくれるんですか? 助かります〜。雪だとすぐに溶けちゃって」
「あほー!! こんなところで精霊術を使うなー!!」

 翌日。

「えすたすっ、げんきっ、げんきっ!」
「おっ、すっかり良くなったみたいだな」
「――寝込んでなんかいられませんよ」
 俺がしっかりしないと、と決意を新たに拳を固めるエスタスに、首を傾げるラウルとルフィーリ。その後ろで、新たに二人分のお粥を盆に載せたレオーナが、くすくす笑いながら階段を上っていった。

Fin.
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