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泉の伝説
 ひた、ひた、ひた。
 ひた、ひた、ひ――ごん。
「いっ!!」
 切り株にぶつけた脛を押さえて、セルジュはその場にうずくまった。
 昼間でも薄暗い雑木林の中は今、まさに真の闇に支配されている。闇に慣れた目でも、闇の濃淡で地面か藪かの違いがようやっと判別できる程度。まして気もそぞろに歩いていれば、足元がおぼつかなくなるのも致し方ない。
「はぁ……」
 ただでさえ落ち込んでいるところに、これだ。全く、ついてない時はとことんついていないらしい。
 したたかに打ちつけた脛をさすりつつ、セルジュは頭上を見上げた。月は意地悪な雲に隠され、切れ間から僅かに顔を覗かせるのみ。申し訳程度に瞬く星々の光も、足元を照らすには些か力不足だ。
 しかし、この闇夜はむしろ好都合だった。こんな夜に村の外へ出ようなんて物好きは滅多にいない。人目を盗んで抜け出すにはまさにうってつけの晩だ。
(のんびりしてたら朝になっちまう……早く行かないと)
 ようやく痛みの引いた足で真っ暗な地面を踏みしめ、立ち上がる。
(あの泉へ――!)
 目指すは雑木林の奥深く、滾々と湧き続ける小さな泉。
 一年中清らかな水を湛える泉の存在は、そこにまつわる一つの伝承と共に語り継がれていた。
 故に人々は泉をこう呼び習わす――《人魚の涙》と。


 その昔、この辺りを大雨が襲い、近くの川が氾濫した。増水した川はこの雑木林をも飲み込み、そして一人の人魚を泉へと運んできた。
 水が引いてしまい、海に帰れなくなった人魚は、仕方なく泉で暮らすことにした。人魚は来る日も来る日も望郷の念を歌い上げ、その美しい歌声は雑木林に響き渡り、やがて人々の耳に届くようになる。
 そしてある日。麗しき歌声の主を突き止めようと、一人の若者が雑木林に分け入った。
 ほどなく泉に到着した若者は、そこで美しき乙女と出会う。
 一目で恋に落ちた二人。しかし種族の違う彼らは結ばれぬ定め。
 実らぬ恋を儚んだ乙女は若者に別れを告げ、泉に消えた。
 若者が慌てて泉を覗き込んだところ、そこには青く光る鱗が一枚落ちているだけだったという……。

 人魚はどこへ行ってしまったのか? 精霊の手を借りて海に帰ったのだとも、泡となってしまったのだとも伝えられるが、真相は定かではない。伝承とは、得てしてそういうものだ。


「光ってる……?」
 掠れた呟きが、闇に吸い込まれていく。
 木々の向こう、僅かな月明かりだけが照らす暗闇の中で、泉はほのかな光を湛えてそこにあった。
 のどかな昼間の様子とはまるで違う神秘的な光景に思わず息を呑んだセルジュだったが、すぐ我に返って自らに言い聞かせる。
(大丈夫、あれは月の光を反射してるだけだ。人魚なんているわけない。あの伝承はただのおとぎ話なんだから)
 そう。子供の頃こそ不思議な伝承に胸をときめかせたものだが、冷静に考えれば何もかもあり得ないことなのだ。川に住まう《川人》ならともかく、こんな内陸まで人魚、つまり《海人》がやってくるはずもない。懐深き海を故郷とする彼らは、真水の中では長く生きられないのだから。
 それでも伝承を慮ってか、人々は滅多にここを訪れない。だから昼間に訪れたところで誰に見咎められることもないのだが、それでも夜を選んだのは、絶対に誰にも見られたくなかったからだった。
(そう、誰にも――)
 懐の隠しを探り、目当てのものをゆっくりと取り出す。
 木彫りの腕輪。それは、届かぬ思いの象徴。だからセルジュはやってきた。悲しき伝承を持つ、この泉へと。
(ここなら……)
 意を決し、一歩踏み出したその時。

 目が、合った。

* * * * *

 彼はただ、そこで水浴びをしていただけだった。
 この時期、村人達は近くを流れる小川で水浴びを楽しむのが日課である。彼も幾度となく村人達の誘いを受けたが、その都度適当な理由をつけて辞退していた。
 水浴びを避ける理由はただ一つ。その腕や背中に走る無数の傷を見られたくないから。鄙びた田舎の人間達には些か刺激が強すぎるだろうと、彼はその傷をひた隠しにしてきた。立っているだけで汗が噴き出してくるような気温の中、長袖かつ黒尽くめの神官衣で通してきたのもそのためだ。
 しかしながら風呂に入らないわけにも行かず、とはいえ夏場に燃料を無駄遣いするのも躊躇われる。さてどうしたもんかと考えあぐねていた矢先、村長の息子マリオが耳寄りな情報を教えてくれたのだ。物悲しい伝承と共に。
 そこは近隣の住民も滅多に近づくことのない、素晴らしく綺麗な泉だという。そう聞かされてやってきた泉は、確かに美しかった。滾々と湧き続ける清水は身を竦めるほどに冷たく、真夜中を過ぎてなお昼間の熱を止め続ける体を冷やすには最適と思われた。
 だから彼は嬉々として泉に飛び込み、その様子を見て自分も入れろと駄々をこねる「連れ」をおっかなびっくり泉に入れ、何やら嬉しそうな声を上げて明滅しているのにほっと胸を撫で下ろした、その時。
 ちょうど雑木林を抜けてきた青年と、ばったり目が合った。

「!!」

 声にならない悲鳴が双方の口から漏れる。特に青年の方は相当に驚いたようで、後ずさろうとして足元の小石に蹴つまづき、その場にどすんと尻餅をついてしまった。その拍子に手にしていた何かが宙を舞い、目の前にぽちゃんと落ちる。
(なんだ?)
 手を伸ばして、水底まで沈んでいったそれを拾い上げる。それは木彫りの腕輪だった。この暗がりではよく分からないが、かなり精緻な細工が施されているようだ。
(腕輪? なんでまた……)
 未だ尻餅をついたままの青年をじっと窺う。すると彼は、いかにも恐る恐るといった様子で口を開いた。
「あ、あんた……まさか、伝説の……人魚姫?」
(はぁ?)
 思わず素っ頓狂な声を上げかけて、はたと自分の格好に気づく。
 鬱蒼とした雑木林の中、枝越しのかすかな月明かりだけでは、こちらの顔などろくに見えないだろう。そこにきて水面に揺れる長い髪ときたら、まあ女と勘違いされても仕方ない。
(それにしても、よりによって「人魚姫」とは、なんともすっ飛んだ勘違いをされたもんだ)
 誤解を解くのは簡単だ。ここから出ればいい。しかし、それには少々問題がある。
 青年の顔に見覚えはないが、こんな時間に雑木林に来るということは、恐らく隣村の人間だろう。となれば、この傷だらけの体を見られるのはまずい。
(参った……)
 無意識に頭を抱えかけて、手にしていた腕輪が顔に当たる。これは返す必要があるだろう。そう思って投げ返そうとすると、青年は慌てて手を振った。
「良かったら、貰って下さい」
 そう言われても、見ず知らずの男から腕輪を貰ったところで嬉しくもなんともない。困ったように腕輪を見つめていると、青年は乾いた笑い声を上げて、その場にしゃがみ込んでしまった。
「そう、だよなあ……やっぱり、俺なんかの贈り物なんて、迷惑なだけだよなぁ」
 だから、捨てようと思ってここに来たのに。そんな呟きを聞いてしまい、思わず小さく首を傾げる。それが怒ったように見えたのか、青年はわたわたと手を振った。
「あ、ごめんなさいっ、あなたの泉に物を捨てようなんて、なんて罰当たりなことを……。でもここなら、誰にも見つからないと思って」
 ますます訳が分からない。そんな思いが顔に現れていたのだろう、青年は少し躊躇ったものの、訥々と語り出した。腕輪に秘められた、彼の思いを。


 それは、セルジュの片思い。十年間抱き続けた、ほのかな恋心。

 十年前、夏祭で出会った少女は、親とはぐれて泣きべそをかいていたセルジュに、そっと手巾を差し出してくれた。
 少女はセルジュが泣き止むまで側にいてくれて、それから一緒に、はぐれた両親を探すのを手伝ってくれた。
 手をつないで、村中を走って回った。初めて訪れた隣村は珍しいものばかりで、唐突に始まった小さな冒険に胸がドキドキした。見知らぬ場所への不安は、つないだ手の暖かさが打ち消してくれた。
 しばらくして両親は見つかり、セルジュはこっぴどく叱られる羽目になった。少女はそんなセルジュを心配そうに見ていたが、母親に呼ばれて名残惜しそうに去っていった。その後姿を見送るうちに、さっきのドキドキが蘇ってきた。

 そのドキドキが、恋のときめきだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 それから、何かと理由を見つけてはエストに訪ねていった。しかし声をかけようにも、何と言って話しかければいいのか分からない。そうしてろくに話も出来ぬまま、月日は無常に流れていった。
 今年こそ、今年こそと思い続けて、勇気が出ずに機会を逃した。しかし、セルジュは十七。彼女は十六。お互い、いつ結婚の話が持ち上がるとも分からない。
 最後の機会だと、そう思った。今年こそ告白しよう。全てを夏祭の夜に賭けてみよう、と。
 贈るのは腕輪にしようと決めた。彼女のほっそりとした白い腕に似合うよう、細めの輪に緻密な模様を彫り、内側には彼女の名前を入れて。
 畑仕事の合間を縫って細工を施し、そして夏祭まであと少しというところで、腕輪は完成した。これで準備は万端、あとは当日を待つだけだ、とほっとしたその時――。
 聞いてしまったのだ。彼女が今、隣村の神官さんに恋しているという噂を。


「……好きな人がいるのに、俺なんかに告白されたらきっと迷惑だろうし……そう思って、ここに捨てに来たんだ。ここなら誰にも見つからないだろうと思って」
 壊すのは忍びなく、しかし狭い我が家に隠しておけばいずれ誰かに見つかってしまう。それならば、この泉に沈めよう。実ることのなかった恋心と一緒に。
「だから俺――」
 そこまで言ったところで、水飛沫が顔を打った。
「ぅわっ!?」
 避ける間もなく飛んできた水に面食らい、顔についた水滴を拭うことすら思いつかずに、呆然と泉を見る。
 そこに輝いていたのは、射るような黒の双眸。その奥に揺れる怒りの炎に、思わず身を竦ませる。
「ご、ごめんなさいっ!」
 大慌てでその場に這いつくばり、許しを請おうと口を開いたところに、今度は腕輪が飛んできた。
「でっ……!!」
 顔面を直撃した腕輪、その余りの衝撃に、顔を押さえてその場にうずくまる。そうして、ようやく痛みが引いたところで顔を上げると――。

 そこに、人魚の姿はなかった。
 月を映した水面が、ただ静かに揺れているだけだった。

「夢――だったのか?」
 確かめようと、ふらつきながら泉へ近づく。途端、踏み出したつま先に何か固い物が当たって、セルジュはびくっと体を震わせた。
「これ……」
 手を伸ばし、恐る恐る拾い上げたそれは、間違いなくセルジュの彫ったあの腕輪だった。
「濡れてる……じゃあ」
 夢じゃない。確かに人魚はそこにいて、腕輪を捨てようとしたセルジュに怒り、それを投げつけて消えたのだ。
 どうして、と呟きかけて、乾いた笑い声を上げる。
(怒られて当たり前か……)
 実らぬ恋を儚み、泉に消えた人魚姫。届かぬ思いを泉に沈めようとしたセルジュ。
 似ているようでいて、両者には決定的に違うことがある。
 人魚姫は思いを伝えた。しかし自分はどうだ、伝えもしないで諦めて、何もかもなかったことにしようとして……。
(意気地のない男――そう思われただろうな)
 相手が迷惑するから、なんて体の良い逃げ口上。要するに振られるのが怖いのだ。傷つくのが怖いのだ。根性無しの臆病者。そんなことは、自分が一番よく分かっている。
 それでも人魚は、腕輪を返してくれた。――まるで、諦めるなというように。
(そうだ。諦めるのはいつでも出来る。でも今諦めたら――何も始まらない!)
 腕輪を握り締め、泉を振り返る。
 誰もいない泉。全てはセルジュの見た幻かもしれないし、精霊の悪戯かもしれない。真実はまさに闇の中。だからセルジュは、闇のたゆたう泉に向かい、深々と頭を下げた。
「ありがとう。俺――諦めない!」
 走り出したセルジュの背後で、かすかな水音が響いた――気がした。

* * * * *

差し出された腕輪をおずおずと受け取り、少女は頬を赤らめながらこくん、と頷いた。
「あ……ありがとう。大切に、します」
 ささやくようなその言葉に、体中が熱くなる。何と答えていいか分からなくて、ひとしきり慌てた後にやっとのことで頷いてみせたセルジュは、そこでようやく彼女の答えを理解した。
(やった……!!)
 嬉しさと驚きがじんわりと胸に広がって、全身を満たしていく。思わず大声で快哉を叫びたくなったが、頭の片隅に残るわずかな疑念がそれに待ったをかけた。
 浮き立つ心をどうにかして鎮め、躊躇いがちに切り出す。
「でもその、君は神官さんのことが好きだって、そう聞いたんだけど……」
 途端に目を丸くして、少女はくすくすと笑い声を上げた。
「それはきっと、エリナのことじゃないかしら……」
「え、そうなの!? 俺、てっきり本当のことなんだと思って……だから、俺が好きなんて言ったら迷惑かなって……」
 でも、人魚が勇気をくれたんだ。そんな呟きにきょとん、と首を傾げる少女。何でもない、と言いかけて、次の瞬間セルジュははっと息を呑んだ。
「? どうかした……?」
「あ、いや、その……」
 たった今、少女の後ろを足早に通り過ぎていった人物。長身を暗い色の服に包み、緩めに結んだ黒髪が背中で揺れている。誰かを探しているのか、辺りを窺いながら村外れの雑木林へと消えていった青年。月明かりの下、ちらっと見えた横顔は、あの時の――!
 顔が赤くなるのが分かった。何ともはや、とんでもない勘違いをしたものだ。
「セルジュ?」
 心配そうに覗き込まれて、セルジュはぶんぶんと首を振った。勘違いでもいい、あの夜、確かに人魚はいたのだ。そういうことにしておこう。
 気を取り直し、晴れて恋人となった少女の手を取る。それを見計らっていたかのように、広場から賑やかな音楽が聞こえてきた。
「行こう、トルテ」
「はい!」
 軽やかに走り出す二人を、白銀の月が穏やかに見つめていた。

泉の伝説・終わり
 こちらは同人誌版「未来の卵」のおまけとして配布している「未来の卵読本」に掲載するため書き下ろしたお話。夏祭にまつわる小話でございました(^^ゞ
 「未来の卵」第四章[5]でトルテの姿が見えないのはこういう事情でした、というお話(^^ゞ

 ……それにしてもセルジュ君、トルテ本人の承諾は得たものの、この後あの熊親父のところへ挨拶に行くという、最大の関門が待ち受けている訳ですが……(笑) が、頑張れ!
2017.12.17
(2005.06発行「未来の卵読本」初出)


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© 2017 seeds/小田島静流