漆黒の瞳を真っ向から見据え、ユーク本神殿長ダリス=エバストは厳かに告げた。
「北大陸!? おい、なんだよそれ!」
抗議の声を聞き流すふりをして、用意してあった紙切れを突きつける。
「出立は三日後だ。さっさと支度を済ませるんだな」
「おいっ! ふざけんな、なんで俺が……!!」
透かしの入った書面は、紛れもなく北大陸行きの辞令。流麗な署名が入ったそれを執務机に叩きつけ、猛然と抗議してくる若き神官。その怒りは至極もっともだ。
『黒髪の養い子』――この呼称よりは『不良神官』の二つ名の方が広く知れ渡っている――ラウル=エバスト。十数年前、まだ一介の司祭だったダリスが貧民街で保護し、養子に迎えた痩せぎすの少年は、紆余曲折の末、養父と同じ神官の道を選んだ。勤務態度は不真面目だが、神官としての素質はずば抜けているため、神殿内部での評判は真っ二つに分かれている。
そんな彼がエンベルク伯爵家の子息と決闘騒ぎを起こしたのは、今から半月ほど前のこと。入れ込んでいた歌姫を奪われた、といきり立った相手が神殿へ乗り込んできたので、仕方なく決闘に付き合った結果、派手に転んだ拍子に腕を折った相手の手当てまでしてやってから丁重に追い返した――というところまでは笑い話で済んだ。
問題は、相手がユーク神殿の「お得意様」だったことだ。
ユーク本神殿の運営費用は主に王侯貴族からの寄付金で賄われている。特にエンベルク伯爵家とはラルス帝国建国以前から親交があり、その血筋は現王家にも繋がる。神殿としても徒や疎かには出来ない相手だ。
更に懸念材料となったのは、伯爵家にまつわる黒い噂の数々――。十数年前、血で血を洗う凄惨な跡目争いの末に後継ぎの座をもぎ取った現当主は、裏社会との繋がりを噂されている。その一人息子ヴィラートの素行の悪さもこれまた有名で、よからぬ輩とつるんで騒ぎを起こしては、伯爵家からの圧力で揉み消されることもしばしばだ。
そのヴィラートが、またぞろ怪しい連中を集め、ラウルの闇討ちを目論んでいる――。そんな情報を聞きつけたダリスが、悩み抜いて出した結論。それこそが此度の「左遷」だった。
「話は以上だ。下がっていいぞ」
「おいこら、じじいっ! なんで俺がそんな僻地に飛ばされなきゃなんねえ……っ! いってえな、何すんだ!」
猛然と食って掛かる養い子の頭に、ついいつもの調子で拳骨を落としてから、しまったと苦虫を噛み潰す。今はじゃれ合っている場合ではない。必要なのは、誰もが納得する『状況』だ。
「口を慎め、エバスト神官」
居丈高に。一音一音に威厳を込めて。覚悟が――決意が――伝わるように。
「今、私は神殿長として話をしているんだ」
その言葉が意味するところを理解したのだろう。悔しそうに唇を噛み、ぐっと拳を握るラウル。
「……失礼しました。ですが、納得が行きません。何故私が北大陸に赴かねばならないのか、その理由を仰っていただかなければ――」
「これは決定事項だ」
ぴしゃりと言い放ち、ダリスは怒りに燃える黒き双眸から逃れるように、そっと目を伏せた。
「……これ以上、私を煩わせるな」
息を飲む気配がした。それだけで、彼がどんな顔をしているのか、手に取るように分かる。それでも言わなければならなかった。誰であろう、彼のために。
わざとらしく背を向けて、深い溜め息とともに残りの言葉を吐き出す。
「頭が冷えるまで戻ってくるな。以上だ」
射抜かれるような視線を背中に感じる。これは我慢比べになるだろうか、と腹を括ったが、しばらくして「くそっ……冗談じゃねえ」と振り絞るような声がして、くるりと踵を返す気配がした。
「言っておくが、お前に拒否権はないぞ」
「うっせえな、分かってるよ! 行きゃいいんだろ、行きゃ!」
荒々しい足音が遠ざかっていく。怒りに任せて強引に開かれた扉が悲鳴を上げ、廊下から一気に吹き込んできた風が窓を打つ。
「厄介払いが出来て良かったな!」
捨て台詞と共に閉まる扉。廊下で控えていた秘書が声を掛けたのだろう、賑やかなやり取りが響いていたが、それもあっという間に聞こえなくなる。
「……これでいい」
重い息と共に漏れた呟きは、唸る風に掻き消された。窓の外に目をやれば、彼方から運ばれてきた厚い雲が、あっという間に首都の空を覆っていく。
「……荒れそうだな」
誰にともなく呟いて、ダリスは再び重苦しい溜め息を吐き出した。
三日間吹き荒れた春の嵐は明け方に収まり、そうして迎えた旅立ちの朝は嫌味なほどに晴れ渡った。
集まった見送りの数は、これまた嫌がらせと思うくらいに多かったが、これも計算の内だ。
どこの馬の骨とも分からぬ子供を養子に迎えたダリスを「偽善者」と罵った者。神官としての才能を開花させたラウルを「浮浪児が神学生などおこがましいにもほどがある」と嘲笑った者。神殿長に大抜擢されたダリスに面と向かって「自身の出世のために養子を利用した」と言い放った者――。満面の笑みで「不良神官」の旅立ちを祝している連中の顔を、しかと目に焼き付ける。彼らのあからさまな喜びようには、思わず声を上げて笑ってしまいそうだ。
「……神殿長」
不穏な気配を察知したのだろう、横に控えていた秘書に脇腹を小突かれて、何食わぬ顔で顔を撫でる。
「分かってる」
背後でそんなやり取りがされているとは露知らず、最後までくどくどと説教を垂れていた副神殿長が、ようやく話を切り上げた。
「そなたの旅立ちに幸多からんことを」
形だけの祝福に、馬鹿丁寧な礼で応えるラウル。そうして足早に石段を降りていった彼を最後まで見送らず、さっさと引き上げていく神官達。
せめて自分くらいは最後まで見届けたかったが、それではこの茶番劇の意味がない。仕方なく、持ち場へ戻る神官達の後について、のろのろと歩き出す。
――ふと視線を感じて階段下に目を向ければ、じっと見上げてくる黒い瞳がそこにあった。
その縋るような眼差しに、在りし日の光景が蘇る。
抗争に巻き込まれ、重傷を負って倒れていた小さな子供。抱き上げた体は血に染まり、怪我をしていない箇所を探す方が難しいほどだった。
ほとんど意識はなかったが、目が合ったほんの一瞬、救いを求めるように見上げてきた黒い双眸――。闇の中、光を求めて必死にもがくその姿から、目が離せなくなった。
そして今、あの時と同じ瞳で見上げてくる黒髪の養い子。しかし、あれから十五年以上経った。彼はもう、貧民街を彷徨う子供ではないし、ダリスもまた、
(お前はもう、自分の力で羽ばたける。そうだろう?)
だからこそ――突き放すように。努めて冷酷に。そう己に言い聞かせて投げかけた視線に、ラウルの顔がぐしゃりと歪む。
とうとう切り捨てられた。きっと彼はそう感じただろう。そう、それでいい。
旅立つ彼には理由が必要だ。それが彼を突き動かす原動力になるのなら、いくらでも憎まれよう。どこまでも嫌われてやろう。
小さく息を吐き、ゆっくりと背を向ける。
この訣別の時が、やがてそれぞれに実を結ぶように――。そう祈りながら。