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 窓から差し込む明るい日差し。のどかな鳥の歌声に、遠くから響く鐘の音。
 いつも通りの朝がやってきて、いつも通りの一日が始まる。

 案の定、人の寝台に潜り込んでいたチビを叩き出し、裏庭の井戸で顔を洗って、簡単な朝食を済ませながら今日一日の予定を反芻する。壁にかけた暦を確認している横で、早く外へ行きたくてうずうずしているチビがぎゃーぎゃー騒いでいるのもいつも通りだ。
「五の月十二日、と。えー、今日は雑貨屋で注文品の受け取り、墓地の草取り、フェージャへの往診、ゲルク爺さんの肩もみ……なんて書いた覚えないぞ? 誰だ余計なこと書きやがったのは!」
「あいしゃ」
「あいつ……いつか覚えてろよ……」
 勝手に追加された項目をぐりぐりと塗りつぶしたところで、朝の二刻を知らせる鐘が聞こえてきた。
「おっと、もう行かないとな」
 朝のうちに墓地の草取りを済ませておかないと、隣村に往診に行く時間がなくなっちまう。
 野良着に着替えて帽子を被り、籠を背負って小屋を飛び出せば、当然のようにチビが追いかけてきた。
 お日様のような満面の笑顔をぐい、と手の平で押し返して、きっぱりと告げる。
「お前はついてくんな。今日は一日、レオーナのところへ行ってろ。夜に迎えに行くから」
 普段ならここで「るふぃーりも、てつだうのー!」とごねまくるチビだったが、今日はどういうわけか素直に頷いて、スタスタと行ってしまった。
「……なんだ、妙に大人しいな……?」
 何を企んでいるのやら、どうにも怪しかったが、今はそんなことを気にしている暇はない。
「ま、いいか」
 陽光に煌く金の髪がまっすぐ広場の方へ向かうのを見送って、こちらも空の籠を背負って歩き出す。
 見上げれば抜けるような青空。風は薫り、草木は萌え、雲は大地に青い影を落とす。まさに絶好の草取り日和だ。
「さー、さっさと済ませちまうか!」
 忙しくも平和な一日が、今日もまた始まる。

 ……はずだったんだが。

*****

「なんだ、ありゃ……?」

 草取りを一通り終え、やり残しはないかと視線を巡らせた先には、銀色に輝く流線型の飛行物体。創世神話に出てくる『神の船』に似ていたが、まるでこちらの視線に気づいたかのように慌てふためいて飛び去ったのは何だったのか。
 目の錯覚だと思うことにして、そそくさと広場へ向かう途中、ふと曲がり角を曲がった途端に出くわしたのは、家畜小屋の真ん前で静かに対峙する、食料品店『豊穣の角』のご隠居と見知らぬ白髪の老人。
 裂帛の気合にあてられそうになったので、そーっとその場を離れ、気を取り直して広場に向かえば、木陰に子供らを集めて何やら歌を教え込んでいる、妖艶な黒髪の美女。
 あとで声をかけよう、と心に決めつつ、かねてからの注文品を受け取るべく雑貨屋に入れば、そこには棚の駄菓子に釘付けな猫耳娘と、買い物客の女性に片っ端からコナかけまくってるナンパ男。

 ……なんでこんなに人がいる?

 見渡せば、あっちにもこっちにも、見知らぬ顔、顔、顔……。

 ただでさえ小さな村だ。旅人が立ち寄っただけで大騒ぎになるものなのに、ここまで大勢いると逆に騒がれないんだろうか。
 さすがに気になって、ちょうど近くで立ち話をしていたマリオに声をかけようとした瞬間、突如響いてきた爆音に身を竦める。
 次の瞬間、上空を過ぎる紺色の影。あっという間に通り過ぎていったのは、すんなりとした鳥のような形の機体だった。胴体部分に描かれた狼の紋章が、陽光を跳ね返して鮮烈に輝いている。
 しかし、何よりも驚くべきは、そんな非日常の光景を目の当たりにしながら、動揺の「ど」の字も見せずにのんびりと行き交う村の人々だ。

 ……なんだか妙だ。

 首を傾げたのも束の間、はっと気づいて辺りを見回せば、すぐそこで魔術士風の女性と話し込んでいたはずのマリオはどこかへ消えており、そればかりか広場から人気がなくなっていた。まだ昼だって言うのに、村人の姿までないのはどういうことか。
 いや待て、今はちょうど昼飯時だからして、たまたまみんな家に入っているだけかもしれない。
 あそこに行けばハッキリするだろう、と、足早に向かった先は『見果てぬ希望亭』。しかし、普段ならこの時間、村人で賑わっているはずの店の扉には『支度中』の看板がぶら下がっている。厨房からは何やら一風変わった匂いが漂っているから、誰もいないわけではないはずなのに、一体どうしたことだろう。

 やはり、何かおかしい。
 この村で一体、何が起こっているというのか。
 
「ラウルさん」
 突然背後から響いてきた声に、ぎょっとして振り返る。
「なんだ、村長か……」
 あからさまにほっとした顔をしていたのだろう。村長はいつもの食えない笑顔で、すみませんと頭を掻いた。
「驚かせてしまいましたか。声をかけるまで気づかないなんて、ラウルさんらしくありませんね」
「あ、いやその……そうだ村長、今日――」
「今日はこれからフェージャへの往診だと伺いましたが?」
 なんだか強引に遮られた感もするが、そうだった。次から次へと起こる不思議な出来事に気を取られてすっかり忘れていたが、日の高いうちに隣村へ行かないと、夕飯までに戻れなくなってしまう。
「戻るのは夕方でしょう? それから食事の支度をするのも大変でしょうから、よろしかったら『見果てぬ希望亭』で夕飯を一緒にどうですか? もちろん、おチビちゃんも一緒に。ああ、ご心配なく。たまには私がおごりますよ」
 最後の言葉がなかったら即座に断るところだったが、どういうわけか大人より食費のかかるチビの分まで出してくれるというなら、断る理由など何もない。
「それじゃ、遠慮なく」
 そう答えると、村長はあからさまに安堵の表情を浮かべて、ああ良かったと呟いた。
「それじゃあ、そうですね。夕の三刻に『見果てぬ希望亭』で。お待ちしてますね」
 なにが良かったのか聞く前に、村長はるんたるんたと跳ねるような足取りで去っていき、誰もいなくなった広場に爽やかな風だけが吹き過ぎる。

 ……何だかよく分からないが、今は考えている時間もない。
 往診に行こう。さっさと終わらせて、さっさと帰ってこよう。追求はそれからだ。

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