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 そして、村を挙げての大宴会が始まった。
 子供たちが次から次へと運んでくる料理は、どれも美味しそうなばかり。
 人数も多いので今日は立食形式で、とレオーナやマリオが食器を配り、この日のために取り寄せたという氷結酒を村長みずから注いで回っている。子供たちには特製のぶどうジュースが配られ、大人に混じって乾杯をする子供たちの歓声があちこちから上がっていた。
「さあ、今日は無礼講ですよ!」
「よーし、飲むぞー」
「るふぃーり、けーき、たべたい〜!!」
「だめよチビちゃん、ケーキは最後」
「おい、誰かコーネルさん呼んで来い。早く来ないと食いモンなくなっちまうぞってな」
「今、エリナとマリオが呼びにいったわよ」
「ほら、お客人たちも遠慮してないで飲んだ飲んだ!」
「それじゃいただこうかな。ほら君も」
「あ、あの……取り皿いただけますか?」
 賑やかな店内。未だ驚きが冷めずに、なんだか一人だけ取り残されたようになっていると、誰かが腰の辺りをつついてきた。
「ちょっと、なに呆けてるのよ。主役はアンタでしょうが。もっと嬉しそうにしたらどうなの」
 見れば、両手にご馳走山盛りの皿を持ったアルメイアが、相変わらず偉そうにそっくり返りながらこっちを睨んでいる。
「いや、なんか急だったから、頭がついていかなくて」
「ホント急だったわよね。おかげでこっちもてんてこ舞いよ。いきなり連絡がきて、クラッカー作れだなんて言われたんだもの」
「あら〜、作ったのはほとんど私だったと思いますけど〜」
 のんびりとした声に振り返れば、こちらは両手に酒器を持ったユリシエラ。顔が赤いところを見ると、すでにほろ酔いのようだ。
「はい、ラウルさんの分。おいしいですわよ〜、これ」
「お、おう……」
「もうユラったら、そんなガンガン飲んで、潰れても知らないわよ?」
「だって、おいしいんですもの〜。うふふふふ」
 いつもの二割り増しくらいふわふわした口調になっているユリシエラは、そのままふらっとどこかへ行ってしまい、代わりにもう一人の魔術士がにこやかにやってきた。
「おめでとうございます、ラウルさん。今日は素敵な趣向で、こちらも楽しませていただきました」
「あんたらも一枚噛んでたとはな。わざわざ遠くから、ご苦労なこって」
「いえいえ、私たちなど近い方ですよ。もっと遠方からいらした方々がいらっしゃいますからね」
 ほら、と杖で指し示した先には、静かに微笑む漆黒の美女。艶やかな黒い瞳は、吸い込まれそうなほどに深い。
「ああ、さっきマリオと話してた……」
「リディアよ。こんばんわ、ラウルさん」
 艶やかな髪を揺らして足音もなくやってきた美女は、手にした酒瓶をそっと差し出してきた。
「是非あなたに飲んでもらいたくて、私的なルートで手に入れたものよ。曰く「竜をも潰す」らしいけど、あなたならきっと大丈夫。死にはしないわ」
 ぎょっとして手を引っ込めれば、リディアと名乗った彼女はくすくすと、耳に心地よい笑い声を上げた。
「――冗談よ。私的なルートで手に入れた一点もの。度数はさほど強くないけど、味は保証するわ。 誕生日おめでとう。あなたに信ずるものの加護がありますよう」
「あ、ああ。ありがとう」
 改めて瓶を受け取り、礼を言う。すると彼女は悪戯っ子のような笑みを浮かべて、ふわりと顔を寄せてきた。
「……おめでとう。また一つ老けたわね」
「!!」
 するりと身を翻して去っていく魔女に、何も言い返せずに口をパクパクさせていると、今度は真横から元気な声が響いてきた。
「誕生日おめでとう、ラウル! もう二十七か。気がつけばおじんだよな」
 あけすけな物言いに目を瞬かせつつ、声の主を窺う。高く結った黒髪に金色の瞳。背中には何故か巨大な太刀を背負った、うら若き女性。その手には、真っ赤な『何か』が載った皿が、ごぼごぼと不気味な音を立てていた。
(……な、何だアレは……?)
 周囲もその不気味な音にざわめいていたが、当人は気にも留めない様子で、更に畳み掛けてくる。
「大丈夫かよ?  いい加減に結婚しないと、色男が台無しだぜ? 僕の手作り料理でも食って嫁さん探して来いよ!」
「いや、俺は別に……」
「ほらほら、このルナ・ヒイラギ特製の『メケメケのガルバソース煮込み溶岩風・赤い情熱の滾り』。早く食わないと冷めちまうぜ」
 渡された皿からは、意外なほどに美味そうな匂いが漂ってきた。見てくれはともかく、これだけ美味そうな匂いがしているなら、と意を決して一口、口に入れ――。
「――!!!!!?????」
 次の瞬間、口の中に広がったえも言われぬ味と食感と熱さに、思わず口を押さえてしゃがみこむ。
「だ、大丈夫ですかラウルさん!?」
「おい、誰か水持ってこい、水!」
「あれー、おかしいな?」
 その『何か』をどうにか飲み込むことに成功した頃には、作り主は首を傾げつつ厨房に消えていた。作り直すつもりなのかもしれないが、今度からは是非、味見をしてから人に薦めて欲しいもんだ。
「ああ……死ぬかと思った……」
 あまりの衝撃にそのままへたり込んでいると、誰かが水の入った杯を差し出してくれた。
「おっ、ありがてえ」
 思わず引っ掴んで一気飲みしたところで、目の前でニコニコ笑っている救い主の存在にようやく気づく。白髪に銀色の瞳。赤銅色の肌。昼前に『豊穣の角』の隠居と対峙していたあの老人に間違いない。
「あんた、さっき――」
 無言で小さく頷く老人。それにしても、こうして間近にすると、その全身に漲る気にますます圧倒される。まるで神の御前にいるような、そんな錯覚さえ覚えて見上げれば、その小柄な老人は皺だらけの顔を更にしわくちゃにして、まるで慰めるように頭をぽんぽんと叩いてきた。
「あ、あの……?」
「祝いだ」
 にゅっと突き出されたのは、一冊の本。
「なになに……? 『不幸なあなたもこれで体だけは守れます』著、迅……」
「これ読んで、体を大事にな」
(せめて、あの料理の前に読みたかったかも……)
 もっとも、いかな武術の達人とて、料理から体を守ることは出来なさそうだが。そんな思いが顔に出ていたのか、迅は真顔でこう続けた。
「食べないという選択肢もある」
「ご高説、ごもっとも……」
 がっくりとうなだれたところに、今度は違う老人の声が飛んできた。
「ふん、二十七か。まだまだケツの青いひよっこじゃの〜」
「おじいちゃま! お祝いの席で何てこと言うの! ごめんなさい、ラウルさん」
 頭にど派手な三角帽子を被り、両手にアルよろしくご馳走てんこ盛りの皿を持った状態で憎まれ口を叩かれても、どうにも迫力に欠ける。それを叱る孫娘の方が、よほど大人じゃないか。
「おめでとうございます、ラウルさん! 本当は今日のために素敵な服を縫おうと思ったんだけど、間に合わなくってごめんなさい」
「い、いや……気持ちだけいただいておくよ……」
「そうじゃそうじゃ、こんな小童のために寝る間も惜しんで縫い物なんぞ、するもんじゃないぞい」
「小童って、あのなあ……」
 さっきから酷い言われようだが、八十を過ぎたゲルク老からすれば、二十七なんてまだまだガキのうちなんだろう。ま、未熟なのは自分が一番よく分かってることだしな。
「そもそも、ワシがお主の年の頃には……」
 まずい。やれ嫁さんがどうの、新婚生活がどうのと、長い昔話が始まってしまった。しかもほとんどのろけ話じゃねえか。ええい、鬱陶しい。
 しかし、ちゃんと聞いていないとまたうるさいので、ふんふんと右から左に聞き流す。
「……というわけで、お主もせいぜい精進せいよ」
 長々と喋って満足したのか、それとも皿のご馳走がなくなってしまったからか、ほくほくと離れていく老人。やっと解放されてほっと胸を撫で下ろしていると、どこからかいい匂いが漂ってきた。
「二十七才か。これで、ちょっとは話せるようになったな」
 ふと背後から聞こえてきた快活な声。振り返れば、大鍋を手にした茶色の髪の青年が、茶目っ気のある笑顔を浮かべている。
「……なんて、俺の方が年下なんだがな。おっと、名乗るのが遅れたな。スレイだ」
 そうしてスレイと名乗った男が差し出した鍋の中では、豪快に切り刻まれた野菜や肉が美味そうに煮えていた。
「口直しにどうだ? まあ、それなりの味にはなってるはずだ」
「お、おう」
 手渡された杓子で熱々の具をすくい、そっと口をつける。
「お、美味いなこれ」
 いかにも男の料理、といった雰囲気のごった煮だったが、素朴な味付けは胃袋に染みる美味さだった。
 思わず二口目、三口目と口に運んでいると、スレイはにやり、と笑って、
「口に合ったか。それは良かった。ちなみに俺の故郷では、求婚者に贈る料理だ」
 噴き出しそうになって、大慌てで口を押さえる。
「鍋一杯食べきったら承諾の意になる……なんてな。冗談だ」
「あんた、なんつー冗談を……。心臓に悪い」
「この程度の冗談、笑い飛ばすくらいの余裕がないと、いつまで経っても嫁の来手がないぞ」
「いやだから、俺は別に、結婚は――」
「よぉ、ラウル! オレ、シャナ!」
 どーんと背後から飛びつかれて、思わずたたらを踏む。転ばずに済んだのは、飛びついてきたのが子供だったからだ。
「だめー! それ、るふぃーり、やるのっ!」
 チビが妙な対抗意識を燃やしてすっ飛んできたが、こちらはひょい、と避けて首根っこを掴み、床に放り出してやった。ついでに背中に張りついてきたヤツも引っぺがして床に下ろす。
「らう〜っ!」
「なんだよー、ちょっとくらい張りついたっていいじゃないかー」
「良くないっ!」
「けちだなー」
 年の頃は十歳を少し超えたくらいか。鮮やかな緋色の髪と風変わりな橙色の服が目に眩しい。
 放り出されて不満げなチビに何やら耳打ちをしたシャナは、途端に笑顔になったチビとしばらくワーキャー言っていたが、思い出したようにこちらを振り返ると、星空のような笑顔で迫ってきた。
「たった今、この広い世界のこの場所であんたが誕生日だなんて嬉しいね! 生まれてきてくれてありがとう! オレと今話してくれてありがとう! 誕生日おめでとう!!」
「お、おお、ありがとな」
 一気に畳み掛けられて目を白黒させていると、シャナは服の隠しをごそごそと探って、何かを取り出した。
「そんなラウルに星空の首飾りをプレゼントだ!! 今日が楽しい日でありますように♪」
 差し出されたのは、青金石の首飾り。言葉の通り、星空を凝縮したような神秘的な石が美しい。
「きれいだな」
「だろっ!」
「るふぃーりも、ほしー!」
「だーめっ。これはラウルへのお祝いなんだから」
 そのかわりに作り方を教えてあげるよ、と連れ立ってどこかに行ってしまった二人を見送って、やっと落ち着いてきた店内を見渡す。
 いつの間にか子供たちはおねむの時間になったのか、小さい方から順番に二階へと追い立てられて、その支度を手伝うためにトルテとエリナが階段を上がっていくところだった。
 飲みすぎて轟沈した酔っ払いたちも退場させられて、残っているのは正真正銘の「ザル」と、はなから酒よりも食い気に走っているヤツら、そしてお喋りに夢中になっている連中くらいだ。
 と、それまで窓辺の席で何やら話していた若い女性二人が、にこやかに手を振ってきた。
「どうも、ラウルさん。レティシア・バールよ。ご招待ありがとう」
「あ、あの、マミコです」
 黒髪に緑の瞳のすらりとした女性がレティシア、同じく黒髪に黒目、眼鏡をかけているのがマミコ。どうやら料理談義に花を咲かせていたらしい二人は、こちらの様子をずっと見ていたのだろう。色々な料理を少しずつ取り分けた皿をそっと渡してくれた。
「パーティが始まってから、ろくに食べてないでしょう?」
「主役に食べてもらえないなんて、せっかくのご馳走たちがすねちゃうわよ」
 暖かい言葉に感謝しつつ、料理を口に運ぶ。骨付き肉のから揚げ、白身魚のパイ包み、チーズを絡めたじゃがいもに、牛肉の煮込み。どれもが好物であることに気づいて、改めて並んだ料理を見てみれば、どれも以前エドガーにお代わりを頼んだことのあるものばかりだった。
 好物だとはっきり言ったわけでもないのに、覚えてくれてたのか。
 何だか嬉しくなって、思わずぺろりと平らげてしまうと、まるで見ていたかのように追加の料理を持ったエドガーが厨房から現れた。
「あら、いけない。忘れるところだったわ」
 湯気を上げる深皿に歓声を上げていたレティシアが、ふと思い出したように荷物をがさごそやり出した。
「おめでとう! はい、これ」
 手渡されたものは、何やら黒くてごつごつとした、小さな機械だった。用途も使い方も分からずに首を傾げていると、レティシアが使い方を教えてくれた。なるほど、この釦を押すと――。
「あのっ、私からも、贈り物です」
 遠慮がちな声に顔を上げると、何か本のようなものを握りしめたマミコが、はにかんだ笑みを浮かべていた。
「誕生日オメデトウ。 君が生まれてきたことをこの世界に感謝します。 君に幸福が訪れますように」
「ああ、ありがとう。幸福……が訪れれば、いいんだがな」
 そっと差し出されたのは、使い勝手の良さそうな手帳。これが幸せの記録で埋まる日が、果たして来るのだろうか……。
「随分と悲観的だな。さすが不幸の星」
 鋭い声に振り向くと、そこには見事な銀髪の女性が佇んでいた。何やら軍服のようなかっちりとした衣装に身を包んでいるが、そんな厳めしい格好をしていても、どことなく優雅な雰囲気が漂っている。
 そんな彼女はつかつかと靴を鳴らして目の前までやってくると、一分の隙もない完璧な敬礼をしてみせた。
「アルゼス=ヴェルナー少尉です。お会いできて光栄です、不幸の星殿」
「……どうも」
 顔を引きつらせていると、アルゼスと名乗った彼女はふっと表情を緩ませた。
「君に祝福を。何でも、不幸の星の元に生まれたらしいが、これだけの人が祝ってくれるんだ。いっそ不幸の星に感謝しておけ。これだけの人に出会わせてくれた不幸に」
「あ、ああ……そうだな」
 まさに逆転の発想か。確かにそうだ。不幸の連鎖のどれか一つでも欠けていたら、俺は今、ここにはいない。幸も不幸も、すべてひっくるめての「俺」なのだから。
「不幸に感謝、か」
 何だか気が抜けて、思わず笑い出せば、アルゼスはそうだった、と懐から何か細長いものを取り出して、こちらに放ってきた。
「やるよ。お祝いだ」
 咄嗟に受け取ったそれは、狼頭の紋章が刻み込まれたナイフだった。
(ん? この紋章、どっかで見たな……?)
 刹那、脳裏に浮かぶ光景。青空を切り裂くように飛ぶ、紺色の――。
「ああっ、おまえ、もしかして昼間に村の上空を横切った、あの――?」
「びっくりして腰でも抜かしたか?」
 あのなあ、と反論する前に、アルゼスは冗談だ、と笑った。と、いきなり耳元で、
「びっくりしたにゃん!! ルチ、驚いてころんじゃったにゃん!」
 甲高い声にぎょっとしてその場を飛びのけば、さっきまで立っていた場所のすぐ隣に、肩に猫、じゃなかった猫耳をつけた幼い子どもを乗っけた男が立っていた。
「おっと、これは失礼。ほらルチル、彼が驚いているじゃないか。というか暑いからそろそろ降りてくれたまえ」
「分かったにゃん」
 ぴょい、と床に降り立つ、その仕草までが猫のようだ。よく見れば顔には猫のような髭もあるし、服の下からは尻尾まで覗いている。
「やあ、ラウル君。はじめまして。私はシクサス、こっちは――」
「ルチルだにゃん♪」
 見るからに軽薄な雰囲気の、蒼い髪の青年。そして、みかん色の子猫と見紛う少女。何とも不思議な取り合わせだが、まさか親子というわけではあるまい。
「お誕生日おめでとーにゃん!! これからもっと長生きするにゃんv」
 そう言ってルチルが差し出したのは、南海魚の燻製詰め合わせ。猫だけに、やはり好物は魚なのか。
 一方、シクサスと名乗った男は、『厳選果実酒』とでかでか書かれた酒瓶を差し出して、
「今日が君の誕生日だそうだね、謹んでお祝いの言葉を述べさせていただくよ。おめでとう。 いやあ、めでたいね。実にめでたい。はっはっはっは」
 そのまま笑いながら、女性陣の集う卓へと吸い込まれるように去っていくシクサスに、いつの間にやらそばに来ていたマリオが呆れた顔をする。
「ラウルさん顔負けですね」
「おい、なんでそこに俺が出てくる」
「だって、集まったお客人を見て、『お、いい女。あとで声かけよ』とか思ってたんでしょう?」
「まあそりゃそうだけど、俺はあそこまで浮ついてねーぞ!!」
「シクサスはいっつもあんな感じだにゃ――にゃんっ!?」
 追加で運ばれてきた大皿、その上にでーんと載ったスズキに目を奪われたのか、えらい勢いで皿に向かうルチル。そのままスズキにむしゃぶりつく子猫、じゃなかった少女に、空いた食器を片付けに来たレオーナが苦笑を漏らした。
「こらこら、そんなに慌てなくてもたくさんあるから」
「このおさかな、おいしいにゃー♪」
「いやあ、その深遠なる瞳に吸い込まれそうだよ。いやいっそのこと、本当に吸い込まれてしまいたいね」
「……この魔法の瓢箪でよかったら吸い込んであげるわよ。二度と出てこられないけど」
「片や女、片や食欲か」
「己の欲望に忠実ですねえ」
 不意に大あくびをして、ああいけないと呟くマリオ。
「僕達もそろそろ寝る時間なので、失礼しますね。なんか今日は夜通し飲むぞー、とか言ってますから、頑張ってください」
「お、おお。気をつけて帰れよ」
「はぁい。あ、そうそう。コナをかけるのはいいですけど、ほどほどにしてくださいね。ここで問題起こしたら、もう後はありませんよ」
 恐ろしいことを言いながら去っていくマリオ。やれやれ、いつの間にやら口が立つようになったもんだ。
 さて、お子様もいなくなったことだし、早速――と辺りを見回したら、いた。広場で子どもを集めて歌を教えていた、あの黒髪の美女が、窓辺で一人、酒杯を傾けている。
 これはまたとない好機。あのナンパ男はまだ、さっきの魔女にご執心だし、今のうちに声をかけるとするか。
「失礼――」
「あら、コナかけに来てくれたの? 嬉しいわ」
 出鼻をくじかれて、言葉を失くす。と、美女は鈴を転がすような声で、ごめんなさいと笑った。
「私、ユリよ。お誕生日おめでとう、ラウルさん。歌のプレゼント、気に入ってくれたかしら?」
「ああ、とても。あれはあんたの故郷の歌かい?」
「そうね。広く歌われてる歌よ。簡単だから、すぐに覚えられるでしょう?」
 だからみんなに教えてみたの、と笑う緑色の瞳は、まるで宝石のように煌めいている。
「プレゼントがもう一つあるんだけど、受け取ってくれるかしら?」
「喜んで」
 思わず真顔で答えると、ユリはくすり、と笑ってゆっくりと顔を近づけてきた。
 そうして、次の瞬間、頬に触れる柔らかな感触。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
 囁くような言葉が、胸に染みる。
「幸運を呼ぶおまじないよ。ほっぺでごめんなさいね。彼がヤキモチ焼くと困るから」
 ちぇ。やっぱり、いい女にはいい男が、必ずいるもんだ。
「ううん、なかなかガードが固いねえ。それもまた素敵だ。うん」
「懲りないにゃん」
 何やら呑気なやりとりが背後から響いてくる。どうやらあっちも失敗に終わったらしいが、ちっともめげていない辺り、いい根性をしている。
「おーっと、そこの金髪のお嬢さん。良かったら少しだけ話し相手になってくれないかなあー?」
「お嬢さんではありませんが、話し相手でしたら喜んで」
 少しは懲りたらどうなんだろう。
――お前もな――
 げっ……。
 嫌な声が聞こえた、気がする。
 いーや、気のせいだ。気のせいに決まってる!!!

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