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第一章[5]

 小屋は、古びてはいるが人一人住むには十分すぎる広さだった。
 壁に作られた飾り棚や洒落た出窓、装飾の施された暖炉など、暮していた人間の趣味の良さが窺える。
「ここは昔、精霊使いのおじいさんが暮らしてたんです。なんでも、若い頃はものすごく有名な、力のある精霊使いだったらしいですよ。十年くらい前に亡くなったんですけど、それまで彼を訪ねてくる人が後を絶たなかったらしいです」
 マリオの説明にへぇ、と相槌を打ちながら、ラウルは小屋の中を軽く見て回った。間取りは居間に寝室、書斎、台所に便所、風呂と一通り揃っている。
「家具なんかもそのままですから、布団を運べばすぐに住めますよ」
 マリオの言う通り、ついこの前まで人が住んでいたような感じだった。
「十年くらいから使われてなかったにしちゃ痛みがないのはどういうわけだ?」
 通常、人が住まなくなった家は急速に痛むものだが、ここはまさしく、つい昨日まで人が住んでいたかのような状態を保っている。
「僕が管理を任されてから、三日に一度はここに来て絵を描いてたんです。ちゃんと掃除もしてましたし」
「絵ねえ……。あ、それじゃさっきお前が片付けたってのは自分の絵か」
 マリオは恥ずかしそうに頷いた。
「まだまだ未熟ですから、とても人に見せられるもんじゃありませんよ」
「そんなもんかね」
 などと喋りながら小屋の中を一通り見終わって、ラウルは居間の揺り椅子に腰を降ろした。なかなか座り心地の良い椅子である。前の住人も、ここで日がな一日ゆったりと揺れながら、若かりし頃の思い出に浸っていたのだろう。
「あとで布団と、当面の薪や食糧を運んできますけど、とりあえずどうします?」
 そうだなあ、とラウルは揺れながらしばらく黙り込む。 「荷物を解くのは夜にして、まず半壊した神殿を見せてもらって、村人に挨拶して……」
「その前に、ひとまずあの卵をなんとかしないと」
「う、そうだった」
 つい考えないようにしてしまったが、卵である。
「軽いんでしょう? 僕、運んできます」
「おい、中に入れる気か?」
「だって、外に置き去りもかわいそうじゃないですか」
 行ってきますね、とスタスタ出て行くマリオ。その背中を見送って、ラウルは溜め息をつく。
(一体なんだってんだ、あの卵は……)
 どうにもこうにも、良からぬ予感がする。何か、面倒なことに巻き込まれそうな予感。
(いや、もう巻き込まれてるのかもしれないな……)
 こういう時の悪い予感は、大概当たるものである。


「卵ですよねえ」
「卵だろうなあ」
 樫の木の食卓にでーんと置かれた、卵。
 形は鳥のそれに似ているが、真珠のようにつややかな殻はすべすべとした手触りで、触れるとほんのりと暖かい。
「ちゃんと生きてますよねえ」
「暖かいしな。しかも、俺の目の錯覚じゃなけりゃ」
 がたがた。
「……動いてますね」
「やっぱりお前にもそう見えるか……」
 そう、時々だがこの卵、動いているのだ。
 と言っても多少揺れるくらいなのだが、どう見ても動いている。
「卵のうちから動く動物っているんでしょうか?」
 マリオが首を捻る。生まれる寸前なら動きもするだろうが、殻が破れる気配は今のところない。
「神官様はこういう珍しい生き物について何か知らないんですか?」
「無茶言うなよ。俺は別に学者じゃないぞ」
 神官というと、とかく博学だと思われがちだが、個人差があるのは当たり前だ。神学は一通り修めているが、生物学は分野外である。
「そう、その神官様っていうのはやめてくれ。ラウルでいい」
 様をつけて呼ばれるような人間ではない。二十五という年齢で神官位を授かっているというのは、特にずば抜けて優秀という訳ではないし、そもそもこの分神殿に司祭の後任として就くことになったのもかなり異例の事態だ。
 通常、分神殿を任されるようになるのは司祭の位からで、この場合は事態が事態だったのと、人手不足で赴任できる司祭がいなかったから特例として配属されたものである。
 本神殿にいた頃、彼は常に「お前」とか「小僧」という呼び方しかされていなかった。名前はおろか位で呼ばれることすら滅多になかったのは、彼がその位に相応しくない行いばかり繰り返していたせいもあるのだが、ともあれ、「神官」と呼ばれるだけでも慣れないのに「様」までつけられると、気恥ずかしくて仕方がない。
「そうですか? それじゃあラウルさんで」
 そう言い直すマリオに頷いて、ラウルはさて、と腕を組む。
「それでいい……さて、どうするか」
 渋い顔のラウルの前で、卵は不規則に揺れながらも沈黙を守っている。
「うーん、困っちゃいましたね」
 ラウルの真似をするように腕組みをして難しい顔をするマリオ。そして、何を思いついたか、
「そうだ、あっためなきゃ駄目ですよね。僕、家に行って毛布かなんか持ってきます」
 と走り出そうとする。その首根っこをとっ捕まえて、
「おい、お前なに考えてるんだ? まさか孵そうとか思ってるのか?」
 とマリオを睨みつけるラウル。こんな大きい卵である。何が出てくるか分かったものではないではないか。
(でっかいトカゲだったりしたら、俺は問答無用で叩き壊すぞ)
 実のところ、ラウルはトカゲや蛇など、ああいう鈍い光沢を放つような生き物が得意ではない。しかしマリオはきょとんとした顔で、
「だって生きてるんでしょう? 孵してあげなきゃかわいそうですよ。このまま見殺しにしろって言うんですか?」
 と切り返してきた。そう言われると、変なものが出てきたら嫌だなどと言う訳にも行かない。
「そうだけどなあ」
(気味悪いから捨ててくるっていうのはナシなのかぁ?)
 そんなことをラウルが考えているとは思いもよらないマリオは、そうだと手を打って、
「どっちにしろ、ラウルさんの布団なんかも持ってこなきゃいけないから、ついでに取って来ますね。ちょっと待ってて下さい」
 そう言って走り去って行った。そして居間にはラウルと卵だけが取り残される。
「一体何の卵なんだか……」
 安定がいいのか、卵は転がりもせずに食卓の上でかたかた揺れている。
 一見すると怪奇現象だが、不思議と怖さはない。
「暖かいんだよなあ……」
 ぺとっと触ると、やはり卵はほんのりと暖かかった。
 それどころか、ラウルが触った瞬間、まるで内側から光っているかのようにほのかに光り出したではないか。
「げっ……!」
 慌てて手を離すが、光はすぐには消えなかった。しばらくほんわりと光り続け、すぅっと消えて行く。
(普通の生き物の卵じゃないよな……。とすれば)
 普通の生き物以外となれば、怪物か。それとも未知の生き物なだけなのか。
 と、居間の窓から金色の光が鮮烈に差し込んできた。
 夕日だ。鮮やかな茜色の夕日が、窓の外に沈んでいこうとしている。
 一瞬眩しさに目を細めたラウルは、夕日に照らされた卵が、まるで反応するかのように再び光り出したのを見てしまった。
 それもつかの間、夕日は遠い山脈の向こうに隠れ、卵も元のつるりとした真珠色に戻る。
 急速に暗くなっていく窓の外を見ながら、ラウルは静かに溜め息をついた。
(ま、見つけちまった以上は仕方ないか……)
 ちょっと(という言葉で片付けられない気もするが)変な卵ではあるが、孵してみるのも悪くないかもしれない。
 そう思ってしまったのが運の尽きだったことを、勿論この時のラウルは知る由もない。
 夕暮れと同時に冷えてきた部屋に、ラウルは脱ぐのをすっかり忘れていた外套を脱ぎ、それで卵を包んでやる。
 そして、もうじき布団一式を背負って戻ってくるだろうマリオのために玄関を開けに行ったラウルは、彼の外套に包まれた卵が嬉しそうに明滅していることに気づかなかった。

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