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第二章[12]

「なんと……」
 ラウルの口からバルトス司祭の訃報を聞かされて、ゲルク老人はそう呟いたきり、しばらく黙り込んでいた。五十年来の友人の死である。悲しくない訳がない。しかしその悲しみよりも、そんな重大なことを知らせてこなかったエルドナの神殿に対する憤慨の気持ちが強いのだろう。ゲルクの表情は険しい。
「お預かりした手紙も、受け取ってはいただけませんでした」
 そう言って手紙を差し出すラウルに、ゲルクは溜め息をついて首を横に振る。
「返さんでいい。お前さんの方で処分してくれ」
「しかし……」
「いいんじゃ。読む相手のいない手紙など、返されても仕方ない。……それにしても、なぜそんな大事なことを神殿は伝えてこなかったんじゃ」
 怒りを顕わにするゲルク。
「近所の方に話を伺ったところ、葬儀も密やかに行われて一般の参列を許さなかったそうですし、神殿長が代わってからは、墓参の人間を礼拝の時間だからといって追い返すなど、どうにも評判がよくないようです」
「そうか……誰が新たな神殿長かは知らんが、随分と横暴じゃな。ヨハンがいれば、そんなことは許さんだろうに……なんとも、惜しい者を亡くしたものよ」
 がっくりとうなだれるゲルクには、普段の我が儘爆裂ぶりは微塵も感じられない。それどころか、ラウルからその話を聞いて、急に年老いたようにも感じられる。
「ゲルク様、どうかあまりお気を落とされませんよう……」
 思わず、そんな言葉が漏れ出た。すっかり気落ちしたゲルク老人の姿が、故郷の懐かしい人間と重なったからかもしれない。
 幼いラウルを拾い、そして育ててくれた恩人。今はユーク本神殿にて長の座に就くその養父は、頑固さ加減ではゲルクに負けず劣らずといった御仁だ。
 ラウルにとっては食えない上司であり、厳しい教官であり、最も尊敬する神の御使いであり、そして身寄りのない彼にとって、唯一の家族だった。それと同時に、彼をこんな辺境まで飛ばした張本人でもあるのだが。
「……ふん、お主のような若造に心配されるようではお終いじゃな」
 いつもの憎まれ口が戻ってきた。その様子にそっと安堵の色を浮かべるラウル。
「失礼しました」
 素直に頭を下げるラウルに、ゲルクはふと、気弱な笑みを浮かべてみせた。
「ワシくらいの年にもなれば、死は恐れるものではなく、むしろ待ち遠しいものよ。しかし、それでも親しい者が次々とワシを置いて逝ってしまうのは、悲しいものだな」
「ゲルク様……。我らユークに仕えし者、死を恐れるようなことは……」
 ラウルの言葉にゲルクは首をゆっくりと横に振った。
「なに、教義ではそう説いておるがの。それでも、死は恐ろしいものじゃよ。ワシは若い頃、幾度となく死にかけた。もっとも、その時のワシは、自分の死に対してはさして恐怖を抱かなかった。それでもな……」
 遠い目をするゲルク。その脳裏に映し出されているのは、若かりし日の記憶か。
「仲間が目の前で息絶える様を見た時、なんと死とは恐ろしく、残酷なものだと痛感したよ。ワシには、奴が死に行く様を、手をこまねいてみていることしか出来なかった。目の前で、一人の人生がこんなにも呆気なく中断され、それまで奴が築いてきた歴史が、絆が、色々なものがあっさりと消えてしまう。それは何とも、恐ろしいことだった……」
 彼のやり切れなさが空間を伝って、ひしひしとラウルに迫ってくる。
「ゲルク様……」
 その言葉にラウルもまた沈痛な面持ちを浮かべていたが、ゲルクはそれに気づくことなく、昔話を切り上げた。
「なに、まだ若いお主には実感の湧かぬことだろうて。……昔話が過ぎたな。ご苦労じゃった。家に戻ってゆっくり休むがいい」
「はい、失礼致します」
 静かに部屋を辞すラウル。エリナにつかまる前にと、足早にゲルクの家を後にする。
 すでに空は闇に包まれ、家々の窓には暖かな明かりが灯っていた。
 空を見上げれば、一面の星。闇を照らす光。
『……闇と死の神ユークよ。この地上に住まう全ての命に、闇の安らぎを分け与え給え……』
 思いがけずラウルの唇から漏れた祈りの聖句は、夜風に運ばれて空へと消えていった。

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