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第三章[5]

「……竜の卵だという確証はあるのだな」
 少女の言葉に、男は静かに頷いて肯定の意を示した。
「先日やってきた『北の塔』の賢者がそう明言したそうですから、ほぼ間違いないと見てよろしいかと……」
 そうか、と小さく呟く少女。
「卵となって生まれ変わるとは、まこと不思議なものよ」
 しかし、だからこそ利用価値があるというもの。世界に神々の力を行き渡らせる役割を持った聖なる生き物は、創造主である神々より大いなる力を与えられている。その力こそ、彼女が求めるもの。
「して、その神官とやらは」
 男は少々言葉を躊躇ったが、すぐに口を開く。
「かなりの手練れと見受けました。気配を殺していたのですが、気づかれてしまい……」
 ほう、と少女が目を見開く。
「お主ほどの者が、気配を感づかれたとは」
「申し訳ございません」
 深々と頭をたれる男。
「よい。お主が注意を怠っておったとも思えぬ。それほどの人物なのであろ」
「はっ……」
 咎められているのではないと分かって、男はゆっくりと顔を上げる。
「しかし、それほどのものが、なぜこんな僻地の神殿へ赴任してきたのか……」
「ただ今、確認を取っていますが、なかなか……」
「分かり次第知らせよ。それにしても……ラウル、と言ったな。なるほど、なかなか興味深い」
 少女らしからぬ言葉に、男は眉を上げた。
「巫女?」
「……して、その卵についての情報は」
 男の誰何を受け流して、少女は問うた。
「卵の状態とはいえ、大いなる力を秘めたることは変わらぬだろうが、できることなら我等が手中に収め、我等の手で孵ら――」
 言葉が不意に途切れる。
「巫女、どうされまし――」
 問いかけた男がはっと顔色を変えた。
「……大事ない」
 小さく咳き込んだ少女の口元が赤く染まっていた。咄嗟に口を覆った小さな手が鮮血に染まり、そこから滴り落ちて床に小さな血溜まりを作る。
「……巫女」
 心配そうな男に、少女はゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫じゃ」
 口を袖で拭い、顔を上げた時には、少女はいつもの表情に戻っていた。あどけない顔立ちからは想像できない、深い悲しみを湛えた双眸が、男を力強く見据える。
「一刻も早く卵についての情報を集めよ。儀式の時まで、そう猶予もないからのう」
「は……急ぎ、調査いたします。平行して、別の方面にも手を回しておりますので……」
「ああ、あの者か……。よい。そなたに任せよう」
「かしこまりました。……巫女はどうか、お休み下さい」
 男の言葉に少女は頷いてみせた。そして男を下がらせると、部屋の隅に設けられた寝台に体を横たえる。黒い装束に包まれた肢体は、いまにも折れてしまいそうなほどにか細い。抜けるような白い肌や白銀の髪は、今にも風の中に消えていってしまいそうな、そんな儚い雰囲気を醸し出している。 しかし、その紫色の双眸に漲る意志の力は、それらの印象を全て打ち消してしまうほどに力強く、そして人を惹きつける。 その瞳を、しかし今は力なく閉じて、少女は寝台に身を委ねていた。
(……儀式まで……なんとしても……)
 血の臭いが喉の奥からこみ上げてくる。吐き気はおさまっていたが、全身を駆け抜ける不快感はまだ残っていた。 しかし、いつものことよ、と少女は独りごちる。
(呪われし命とは、よくぞ言ったもの……)
 かつて。辺境の地にて対峙した若き神官は、彼女をそう呼んだ。憐憫のこもった眼差しで彼女を見据え、その呪われた運命を断ち切ってみせると宣言した。
 その哀れむような瞳が、少女の脳裏に焼きついて離れない。今も目を閉じれば、あの深き緑の双眸が、記憶の彼方から彼女を見つめ、苦い過去を蘇らせる。
(あの者はまだ、生きておるという。老いさらばえた肉体で……)
 あれから六十年。この時のためだけに、長い年月をかけて影に身を潜め、人々から痛みの記憶が薄れていくのを待ち続けた。そして次第に人を集め、再び世界に影を落とす日を待ち侘びてきたのだ。
(あの秘術を持ってすれば……)
 寝台の片隅におかれた机の上に、少女は視線を走らせる。
 そこに無造作に置かれた古びた一冊の本。『ゾーンの書 五の巻』と書かれた表紙は、どす黒く染まっていた。
 それが多くの人間が流した血であることを、彼女は知っている。
 血塗られた書。偉大なる死霊使いの残した、大いなる秘術の書。全五巻とも六巻とも呼ばれる書は、世界各地に散らばっている。写本も多く出回っているが、正確な内容を記してある物は少ない。
 この本を手に入れるために、遥か昔から多くの血が流されてきた。時には同じ『影の神殿』同士が書の所有権を持って争ったこともあるという。
 かつて少女は、写本の一つを目の当たりにしたことがあった。そこに記された秘儀に興味を持ち、そして長い歳月をかけて本物のゾーンの書を追い求め、ようやく手にした一冊の書。
 少女の下に集まった者達ですら全貌を知らされていない、禍々しき書。その表紙にそっと、細い指を滑らせて、少女はそっと唇を引き上げる。 それは、凍りつくような微笑。
(あの竜さえ我が手に落ちれば……)
 全てが終わる。そう、少女にとってそれこそが、唯一の望み。

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