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第三章[9]

 馬車を走らせ、エンリカに着いたのは出発から十日後だった。極めて予定通りである。
「まだ結構寒いな……」
 外套の前をしっかり合わせながら呟くラウルに、こちらもまた防寒着の襟を押さえならカイトが、
「そうですねえ。噂には聞いてましたけど、こんなに気温差があるとは思いませんでしたよ」
 と感想を述べる。
 すでに七の月半ば近いというのに、エンリカはまだ初春の気候である。しかも村の中に幾つもの水路が引かれており、余計に寒々しい。
「夏は涼しくていいらしいですよ。避暑地として結構人気だって聞きました」
 カイトの言葉にそりゃそうだ、と頷きながら、ラウルは目的の家を見つけるべくきょろきょろと辺りを見回す。
 と、すぐそばの水路で何かが跳ねた。ぴちょん、という水音と共に、何か魚の尾のようなものが見えた気がして、ラウルの足が止まる。
「なんだ?」
 音のした方を見るが、水路には何もいない。
 首を傾げているラウルに、少し先を行っていたエスタスが声をかけてきた。
「ラウルさん、ありましたよ!」
 エスタスの立っている扉の上に、不思議な文字で何か書かれた看板が下がっている。そのふらふらした文字の下には、ラウルにも読める共通語でこう書かれていた。
『アシュトの酒倉』


「すいませーん」
 扉の向こうは薄暗い部屋だった。しかも、なぜか部屋のど真ん中に貯水槽のようなものが掘られ、水路のようなものが他の部屋へも繋がっているようだった。そのうちの一本はどうやら、壁を越えて外の水路と繋がっているようだ。
「アシュトさーん、いらっしゃいますかー」
「エストの『見果てぬ希望亭』から頼まれて来ましたー」
「留守かな?」
 不思議な部屋に首を傾げながらも、カイトが呟く。
 すると、目の前の貯水槽から突如、水しぶきが盛大に上がった。
「なんだぁ!?」
「ひぃっ」
 飛び散る飛沫を慌てて避ける四人に、どこからか、涼やかな男声が響く。
「おやおや、驚かせてしまいましたか」
「だ、誰だ!?」
 声の方を見ると、さっきまで何もいなかった貯水槽のど真ん中に人の姿があった。
「お待たせしました。私がアシュトです」
 爽やかな白銀の髪に抜けるような白い肌。この寒さでしかも水中だというのに、透けるような薄絹を纏っている。その下から見えるのは、魚のような尾。鱗がきらきらと光る様は、何とも言えず美しい。
「海人の方……ですか?」
 カイトが上ずったような声で尋ねると、アシュトはええ、と頷いてみせる。
 海人。下半身が魚の尾の形をしており、水中でも呼吸が可能な種族である。この北大陸に多く住むといわれているが、海の中に都市を形成して暮らしていると言われており、他の種族と暮らしているというのはあまり聞かない。
「レオーナに聞かされなかったんですか?」
 そう言えば、彼女は何か言っていなかったか。驚くとか何とか……。
「レオーナも茶目っ気のある人ですからね。君達を驚かせたかったのかもしれません。まあいいでしょう。ひとまず、奥の部屋へどうぞ」
 そう言ってアシュトは再び水面下に沈むと、水路の一つを通って隣の部屋へと泳いでいった。ご丁寧に扉のところで一旦浮上し、扉を開けておいでおいでをしている。
「行こうか」
「はいっ」

* * * * *

「私達海人はもともと陸上に住居を持たないんですが、多種族の方が訪れるとなると、家の一つは必要ですからね。こう、色々工夫を凝らして家を建てたんですよ」
 一段高くなった貯水槽から身を乗り出して、アシュトは説明してくれた。応接間らしいその部屋には品の良い調度品が並べられているが、そこにどーんと貯水槽があるのは少々違和感がある。
「それで、用件をお伺いしましょうか? 『見果てぬ希望亭』から頼まれたと仰ってましたが」
「あ、はい。これレオーナさんからです」
 レオーナから預かってきた紹介状を懐から取り出すカイト。それを受け取って中身を読んだアシュトは、はいはいと頷いて、
「夏祭用の氷結酒ですね。そろそろいらっしゃる頃だと思って、もう用意してありますから、すぐにお持ちしましょう。今年のものは出来がいいですよ」
 その言葉にエスタスが顔を綻ばせる。
「いやあ、それは今から楽しみだなあ」
「そんなにうまいのか」
 こちらも酒に目がないラウル。と、アシュトがラウルを見て面白そうな顔をした。
「そちらの方は、まだ氷結酒を飲まれたことがない?」
「あ、はい。私はつい二月ほど前に、エストに来た者ですので」
 それはそれは、とアシュトは笑顔を浮かべる。
「それでは、よろしければ製造工程などお見せしましょうか?」
「いいんですか!? うわぁ、嬉しいなあ」
 真っ先に喜びの声を上げるカイト。新たな知識に出会うことは、ルース信者にとっては何よりの喜びらしい。
「それでは、こちらの部屋へどうぞ」
 そう言って、貯水槽から水路へと軽やかに泳いでいくアシュト。そのアシュトの尾びれに導かれるように四人も隣の部屋へと移動していった。


「これは海中でしか育たない特殊な果物で、私達は水葡萄と呼んでいます」
 水瓶から葡萄そっくりな果物の房を一つ持ち上げて、アシュトは説明を始めた。
「随分青いけど、普通の葡萄と全然変わらないですね」
「味も葡萄そっくりですが、この果物は地上に上げてしまうとあまりもちません。そこで氷漬けにして保存していたんですが、その状態で潰して酒にすると、普通のものより遥かに甘く、こくのある酒になることを偶然発見したんです」
 なるほど。それで氷結酒という名前がついた訳である。
「ただし、水葡萄を採ることが出来るのは我々海人だけですし、水葡萄自体の収穫量もあまり多くないもので、大量に造ることが出来ません」
 本当はもっと大勢の人に味わってもらいたいのですが、と残念がるアシュト。
「そのような理由で、お得意様にお分けするのが精一杯というわけです。『見果てぬ希望亭』は先々代からのお得意様ですから、毎年お分けしてますが」
「そうだったんですか。確かに他では名前も聞かないと思ってたけど、そういうわけだったんだ」
 なるほど、と納得しているカイト。
「外に、水葡萄を保存する氷室があるんですが、この氷室の氷は北海の氷を切り出しているんですよ」
 北大陸の更に北に広がる海は、ただ単純に北海と呼ばれる。しかし大陸との境目がどこかはいまだはっきりしていない。このエンリカ以北は大氷原と呼ばれる永久凍土となり、その先に、冬はほとんどが氷に覆われ、夏の短い時期にだけほんの少し本来の海面を見ることが出来るという極寒の海が広がっている。
「凍らせた葡萄を皮のまま潰し、発酵させて、その後搾って樽に詰めます。収穫期が四の月なので、皆さんが夏祭に飲まれるのは三月ほど寝かせたものになりますが、そのくらいが一番美味しい頃ですね。次は半年ほど寝かせた辺りで、それが秋の収穫祭に出しているものです」
「四の月ですか? 四の月の北海なんて、まだ氷に覆われているんじゃ……」
 カイトの言葉にアシュトはそうですよ、と頷いてみせる。
「氷を割って、その下に潜って収穫するんですよ。私達海人は寒さに対する耐性がありますからね」
 意外に海の中は暖かいんですよ、と笑うアシュトだが、きっとラウル達には耐えられるようなものではないだろう。
「そうなんですかぁ。いやあ、勉強になります」
 知識欲の権化であるカイトには、知識の種類を問わず何でもかんでも勉強になるようだ。先程の説明を手帳に書き綴りながら、改めてアシュトを見る。
「それにしても、海人さんをこの目で見るのは初めてですよ。素敵なヒレですねえ」
 アシュトの背後、水面から時折ぱしゃん、と顔をのぞかせる尾びれ。優雅に水に揺れる様は、まるで薄絹が風になびいているようだ。
「おや、ありがとうございます。魚っぽいとか気持ち悪いと仰る方もいらっしゃるんですけどね」
 あっけらかんと言ってのけるアシュト。珍しがられることに慣れきってしまっているような、そんな印象を受ける。
「このエンリカには、あなた以外にも海人の方がいらっしゃるんですか?」
 ふと聞いてみるラウルに、アシュトはええ、と頷く。
「ここで働いているものの半分は海人ですし、それ以外にもそうですねえ、五、六十人はいるんじゃないですか」
「じゃあ、もしかして村中に走っている水路は……」
「ええ、そうです。私達が村中を自由に動き回れるように、家や店などを繋いでいるんです。遥か昔、我々が共存生活を始めた頃に造られたと聞いていますよ」
 なるほど、地上を歩くことの出来ない海人にとっては、水路は重要な交通手段という訳である。
「そう言えば、エストの村の噂を最近耳にしますよ」
 唐突に、アシュトが切り出した。その言葉に嫌な予感がするラウル。
「なんでも、竜の卵が見つかって、新参の神官さんが大切に育てているとか……」
 そう言いながらアシュトの目は、ラウルの胸から下げられた聖印に向けられている。
「失礼ですが、あなたがその……?」
(なかなか侮れない奴だな……)
 ラウルは聞こえないように小さく溜め息をつくと、
「ええ、そうです。ユーク神官のラウル=エバストと申します」
 と答える。
「これはこれは……。お若いのに神官様でいらっしゃる」
 そういうアシュト自身も、ラウルと同年代にしか見えない。しかし海人の加齢速度は人間に比べゆっくりとしているため、彼が外見通りの年でないことは明らかだ。下手をすれば、ウン百歳ということもありうる。
「それでは、その卵はお留守番ですか?」
「いえ……。持って来ています」
 そのラウルの言葉を待っていたかのように、アイシャが大事そうに抱えている荷物が鳴き始める。まるで、紹介しろと言わんばかりの鳴き方に、ラウルはアイシャに言った。
「アイシャ。出してあげて下さい」
 頷いて、アイシャが荷物を包んでいた布を取る。そこから現れた卵に、アシュトは目を見開いた。
「これは、随分と大きい卵なんですねえ。もっと小さいものを想像していましたよ」
 しげしげと卵を見るアシュト。しかしアイシャから大分離れたところに貯水槽があるので、よく見えないようだ。
「私に持たせて下さいと言ったら、お怒りになりますか?」
 おずおずと申し出るアシュトに、ラウルは卵を見る。
(大丈夫か?)
 何しろ人見知りをする奴だ。下手に持たせると大変なことになるのだが、意外や意外、卵はアシュトの好奇の視線に晒されても平然としている。
(どうも、相手を見てるみたいだよな……)
 そう。自分に危害を加えないと分かっている人間であれば、卵は別に触られても鳴き叫んだりしないようなのだ。 事実、レオーナやエリナ、この三人組などには一度も鳴いたことがないし、たまに道端など出会う村人に撫でられても特に鳴いたりはしない。
(しっかし、なんで村長の時は大騒ぎしたんだか……)
「どうぞ。重くありませんけど、気をつけて下さい」
 アイシャの手から卵を受け取り、慎重に貯水槽の側まで歩み寄る。その間も卵は、何やら楽しそうにぴぃぴぃ鳴いているだけだ。 差し出された卵をそっと受け取って、アシュトは驚きの表情を浮かべた。
「おおお、本当に軽いですねえ。水に浮くかもしれませんねえ」
 本当に実行しかねない口調に一瞬どきっとしたラウルだったが、アシュトはしげしげと卵を眺め、そっと撫でたりして、すぐにラウルに卵を返してくれた。
 その間、全くと言っていいほど鳴かなかった卵に、ラウルは意外だなと思いつつ卵を受け取る。
「孵るのが楽しみですね。竜はとても優美な姿をしているといいますから、きっとそれは美しい光景でしょう」
 アシュトに言われて初めて、ラウルは竜が孵る瞬間を思い浮かべた。
 ぱりぱりと殻を破り、そこから現れる竜の幼子。第一声はなんと鳴くのだろうか。その鱗は、果たして何色なのか。
 ふと見ると、どうやら三人組もそれぞれその光景を想像しているらしく、カイトは今にも涙ぐみそうだし、エスタスは妙な想像でもしているのか顔をしかめている。一人相変わらず無表情なアイシャは、ふと近づいてくる足音に気づいて扉に視線を移した。
「失礼します。氷結酒の用意が出来ました」
 扉を開けて入ってきたのは、人間の男達だ。おや、と呟いたラウルに、アシュトは地上での力仕事は海人では不可能なので、人間の使用人もいるのだと説明してくれた。
「馬車に積み込んでよろしいですか?」
 尋ねるアシュトに、ラウルはお願いしますと頷いた。
「これ、レオーナさんから預かってきた代金です」
 カイトが金貨の詰まった袋を差し出す。アシュトは丁寧にそれを受け取ると、金貨を数えて何枚かを袋に戻し、カイトに渡した。
「今年は生産量も多かったので、例年よりお安く提供させていただいてるんですよ。次回もよろしくお願いしますとレオーナにお伝え下さい」
 ところで、とアシュトはラウルを見た。
「今日はこのままお帰りですか?」
 時刻は昼過ぎ。このまま出発すれば、夕方には次の村に辿り着けるだろう。
「そうですね。あまり長い間村を留守にするわけにも参りませんので……」
「そうですか。もし今日エンリカに泊まるんでしたら是非うちにと思ったのですが。お勤めもあるでしょうから、そうもいきませんね」
 残念そうに言うアシュト。名残惜しそうに卵を見つめながら、
「またエンリカにいらっしゃることがあれば、遠慮なく泊まっていって下さい。若い人とお話できるのはとても楽しいことですからね」
 と言ってくれた。しかしその言葉に、
(やっぱり、いい歳なのか……)
 と思ったのは、きっとラウルだけではあるまい。

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