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第六章[4]

「……いちゃま。おじいちゃまってば!」
 はっと気づいた時、目の前にはお盆を持ったエリナと、疲れた顔のラウルが立っていた。
「お? おお、エリナ。どうした」
 考え事をしていたはずが、どうやら、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。
 懐かしき六十年前。あの最後の戦いの記憶が夢となって蘇ったのは、先日ラウルに事細かに話して聞かせたせいか。
「んもお、椅子に座ったまま寝たら風邪ひくでしょっていつも言ってるでしょう? はい、お茶よ」
 机の上にお茶を並べるエリナに、半ば椅子からずり落ちていたゲルクはすまんすまんと謝りつつ、体勢を整える。
 口やかましいのは誰に似たのか、しかし誰よりもゲルクを心配するエリナは、それこそ目に入れても痛くない最愛の孫娘だ。この少女がいるのも、そしてその孫娘の幸せそうな笑顔をこうして見られるのも、全てはあの戦いを乗り越えた証。
 それなのにまた。あの「影」は帰ってきたというのか。死の恐怖を引きつれ、命を踏みつけにして。
「ラウルさんがおじいちゃまとお話があるって言ったから、早めに切り上げたのよ?」
 再び考え込みそうになったゲルクを、エリナの声が現実に引き戻した。
「え、ええ。そうなんです。ゲルク様に二、三ご教示願いたいことがありまして」
 ほら、とゲルクを見やるエリナ。
「お、おお。そうじゃったな。まったく、これではいつまでたっても隠居出来んわい」
 何気なく呟いた言葉に、目の前の二人が意外そうな顔でゲルクをまじまじと見ている。ラウルが来た当初は「生涯現役」と騒いでいた彼がそんなことを言うようになるとは、やはり寄る年波には勝てないというやつだろうか。
 ぽろっと零れてしまった本音に、ばつが悪そうな顔のゲルクは、ごほん、と咳払いをして話を逸らした。
「それはそうと、最近は卵を連れて表に出ることが少なくなっているそうじゃが、何かあったのかの?」
 それはレオーナの子供達から聞いた話だった。あまり連れてきてくれないので、つまらないと不満を募らせる子供を、卵は見世物じゃないのよとレオーナが窘めていたのを覚えている。
「ええ。もう少ししたら本格的に孵化の準備に入るようで、今はあまり動かさない方がいいのではないかと思いまして。今日は誰も留守番を頼める人がいなかったので、連れてきましたが」
 しらっと答えるラウル。それを聞いたエリナが嬉しそうに手を叩いた。
「まあ、それじゃあもうすぐ、竜が孵るんですか!? 楽しみですね」
「ええ、とても」
 そう。『影の神殿』が狙う卵。それを守らんと、この若きユークの使徒は力を尽くしている。その力になるのが、あの戦いを経験した自分のなすべきこと。
「さて、それでは始めるかの」
 茶を一口すすってそう言い出したゲルクに、エリナはお盆を抱えて扉に向かった。
「それじゃ、ごゆっくり。衣装が出来上がったら、すぐに届けに行きますから!」
「は、はい。楽しみにしていますよエリナ」
 引きつった笑顔で答えつつ、ラウルはゲルクの前の椅子に失礼、と断って腰掛ける。
 書斎の扉が閉められ、エリナの足音が聞こえなくなったところで、ようやくゲルクは口を開いた。
「……して、用件を聞こうか」
 ラウルがただ、ゲルクに教えを請いに来るとは思えない。ならば、エリナには聞かせられない話でやってきたのだろう。
「はい。実は……ゲルク様が六十年前に倒した影の集団、それを率いていた「巫女」と呼ばれる存在について少々お聞きしたいことがありまして」
「巫女、か」
「銀の髪に紫の瞳、年の頃十五、六の少女。しかし、その実は邪法によって不老不死の体となり、長き時を虚ろに生きてきた者。そう仰っておられましたね」
「ああ、そうじゃ。あの時、ワシが全てをかけて倒した、悲しき少女……それが、どうしたというのだ」
「その少女の亡骸は墓地の片隅に葬られた、と仰っておりましたが……」
「ああ。誰も参ることのない、寂しい墓じゃ」
 それは墓地の外れに小さく作られた墓。名前も知らない少女だった。贈る言葉も見つからなかったがために、墓石には何も刻まれていない。何も知らない者が見れば、ただ石が転がっているだけにも見えるだろう。
「それが、どうした?」
「……昨日、墓地の手入れをしていた時に、その墓を見つけました。その時、少々気になって、墓石を動かしてみたのですが……」

 ユーク分神殿の墓地は建物の裏手にある。もともとは神殿に住み込んでいたゲルクがこまめに手入れをしていたが、神殿倒壊後はラウルが代わって手入れを行っていた。といっても小さな村だ、墓地もさほど広くはない。墓石も素朴なものばかりで、古いものは刻まれた名前や生没年すら読み取れないものが多い。
 その墓も、そういったものと思っていた。しかしゲルクから詳細を聞かされて、ふと気になったのだ。
(この墓……なんだよな)
 何がおかしい訳でもない。六十年の歳月に苔生した名もなき墓。しかし、何かが気になる。それは、先日ゲルクから聞いた、あの言葉が原因かもしれない。
 巫女と呼ばれる少女。それは、月光のような銀の髪をした、一人の少女だったという。
(……まさかとは、思うんだが……)
 夏祭に酔っ払いに絡まれていたところをラウルが助けた少女は、銀の髪を風になびかせていた。華奢な体は、今にも夜空に透けていきそうだった。
(でも、そうだとしても、何で……)
 本来ならば、墓を暴くなどユーク信者のすべきことではない。そう分かっていながらも、どうしても確かめずにいられなかった。
 そっと墓石を動かし、地面を掘る。この地では、死者は棺桶に入れて埋葬されるが、六十年前には棺桶の用意も出来ず、ほとんどのものがそのまま土の中に還った。だから、少し掘り返せば白骨化した遺体が出てくるはずなのに。
 そこには何もなかった。
 掘り返したあとのぽっかりと開いた穴が、まるでラウルをあざ笑っているかのようだった。

「なんじゃと?」
 ゲルクの顔色が変わる。ラウルも、沈痛な面持ちで頷いた。
「何も、ありませんでした」
「ではっ……まさか」
「……もう一つ、これは盗賊ギルドからの情報ですが、半年ほど前にライラ国へ続く街道で、怪しげな集団を目撃したという情報があります。その中に、夜目にも鮮やかな銀の髪の少女がいた、と。確証はありませんが、しかし……巫女は今も尚生きて、そして影を従えていると考えた方が、辻褄が合います」
「!」
 あまりの衝撃に、心臓が止まる思いだった。ぐっと胸を押さえるゲルクに、慌てたラウルが立ち上がろうとする。しかしゲルクはそれを制し、息を整えた。
「だい、じょうぶじゃ」
「ゲルク様……」
「……そうか。ワシはあの少女を救ってはやれなかったのだな」
 確かにあの時、少女は死んだと思った。呪われた運命から解き放ったと思った。それなのに。
 神の力を以てしても、あの呪われた生を断ち切ることは出来なかったのか。
 それとも、未熟な彼には神の降臨など到底不可能だったのか。
 どちらにせよ、彼は少女を救ってはやれなかった。それを知らず、この六十年をのうのうと過ごしてきたというのか。
 悲しみと、そして自分の未熟さに苛まれている老人を、ラウルはしばらくの間そっと、労わるような瞳で見つめていたが、ふと意を決したように口を開いた。
「ゲルク様。不老不死の禁呪、打ち砕く術はないのでしょうか」
 闇と死の神ユークに仕える彼らには、自然ならざる魂を輪廻の輪に戻す力が授けられている。しかし、不死の存在を討つ術には心当たりがなかった。そもそも、不死の術自体が存在してはならないものなのだ。
 だからこそあの時、打つ手がないと悟ったゲルクは神にそれを委ねた。しかし、結果はこの通りだ。
「……分からん。ワシはあの時、神に全てを託した。しかし……」
「そう、ですか……」
 どんよりと沈む空気。しかし、ゲルクはその空気を振り払うように、頭を振った。
「いや、諦めるのはまだ早いぞ。その禁呪の構成さえ分かれば糸口がつかめるかもしれん。あの時恐らく、ワシは神の降臨に失敗した。だからこそ巫女は再び蘇り、また影に潜んだのだろう。しかし、死と生は決して切り離せるものではない。それを無理矢理切り離し、あの少女を生かし続けている何かが、きっとあるはずじゃ」
 そうでなければ、彼らが崇める神の教義も、そしてその力もまた否定されてしまう。
 神の定めをその御使いが歪め、覆し、それを神が見て見ぬ振りをしているのでれば、何が神か。そして何が信仰か。
 力のこもるゲルクの言葉に、ラウルも頷いた。
「引き続き、情報を集めてみます。ありがとうございました」
「いや……礼を言われることではない」
 神聖術を、そして神の声を聞く力を失って早六十年。しかしその間も彼はユーク神官として人生を神殿と村に捧げた。彼がすでに神官としての力を失っていることを知る者はほとんどいない。わざわざ言うまでもないことだったし、この村でユークの力を行使する機会などほとんどない。ただ、ゲルクはユーク分神殿を守る者として村に受け入れられ、そして暮らしてきた。後にその功績を称えられ司祭位をいただいたものの、心の中では彼は今でも神官のまま。命を賭して村を守ったあの頃のままだ。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
 そんなゲルクの胸中を知る由もなく、丁寧に頭を下げるラウル。彼は神官の位にあるものの、その実力は恐らく往年の彼以上。形だけの司祭であるゲルクにとって、彼の礼節溢れる態度は時折くすぐったく感じる。
 そのくすぐったさを隠すように、ゲルクは意地悪く尋ねた。
「ところで、収穫祭の衣装は何に決まったんじゃ?」
 途端に困った顔になるラウル。卵を背負い直しながら、慎重に言葉を選んで答えた。
「その、ですね……私もよくは知らないんですが、なんでもこの国に縁のある英雄だとかで……」
 顎を捻るゲルク。英雄と言っても、このローラ国は建国以来、英雄と呼ばれる人間を数多く輩出している。
 しばし頭を巡らせていたゲルクは、はたととある人物に思い当たった。途端になんとも複雑な顔になって、ラウルに憐憫のまなざしを向ける。
「……すまんのぉ」
「何がです?」
 謝罪の言葉を口にするゲルクに、訳が分からないラウルは首を傾げるばかりだった。

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