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第六章[12] |
闇。漆黒の闇。 一欠けらの光も見当たらない正真正銘の暗闇に、ラウルは浮かんでいた。 (夢だな) そう思ったのは、こんな闇の中にも関わらず、自分の姿をはっきりと認識出来たから。こんなことは現実ではありえない。 (闇、か……) 夢を見ることはあまりない。見れば大抵は悪夢で、しかもそのほとんどが、かつての記憶をでたらめに繋ぎ合わせた最低最悪の悪夢だ。 だからラウルは好んで夢を見ようとは思わない。思い出したくないものを思い出してしまうから。 しかし、これは初めて見る夢で、しかも面白みも何もない。ただ暗闇に一人浮かんでいるだけ。 (疲れてんのかな。ま、昼間あれだけ力使えばな……) 姉妹を見送って、すぐに床に着いた。あっという間に眠りに引き込まれたかと思えばこれである。 (つまらねー……) こんな夢なら見ない方がましだ。そう思って瞳を閉じる。しかし瞳を閉じても同じ暗闇が広がるばかり。 (ちっ……) 舌打ちをして瞳を開ける。と、不意に目の前に炎が立った。闇を切り裂き、煌々と燃え盛る炎。 炎は、光と属性を同じくするもの。そんな言葉が脳裏に浮かび上がってきた時、ラウルはその炎の中に叡智の光を見た。 (あんた……キーシェ、か) 『ああそうだ。人の子』 炎がすぅっと収縮し、人の形を取る。赤い髪に赤い瞳。以前見た時と変わらない姿で、彼はラウルの目の前に佇んでいた。 (何の用だよ?) ひょい、と起き上がり、闇の中に胡坐を掻く。それに倣うようにキーシェもその場に腰を下ろし、そして人の悪い笑顔を向けてきた。 『順調に育っているようではないか』 (ああ?) すんなりした指がラウルの胸を示す。見ると、ふんわりとした光がそこに灯っていた。 げっと思った瞬間、すぅっとラウルの体内から抜け出た光は、ふわふわとラウルとキーシェの間を漂い始めた。鳴き声こそ聞こえてこなかったものの、その気紛れな動きはまさに、あの卵そのものだった。 その光を目で追いながら、ふとラウルはキーシェを見やる。 (おい、人の夢ン中尋ねてきて、何の用だ?) 『なに、様子を見に来ただけだ。実際にお前達の元へ行くのは時間がかかるから、こうして同胞を経由して思念だけお前の夢の中に潜り込んでいるわけだ』 (ほぉお。人に断りなしで夢ン中ずかずか入ってきたわけかよ) 『そう怒るな』 (ったく、竜ってのは傲慢な奴らだな。人の考えを勝手に読むだけじゃ気が済まないのか) その言葉に、キーシェは猛然と首を横に振った。 『何を言うか。我等は必要もないのに人の心を勝手に読むような不躾なまねはしない!』 おや、と眉を寄せるラウル。 (そうなのか? でも、こいつはいつもそうだぜ) ふよふよと漂う光を指差して言ってやると、キーシェは途端にバツの悪そうな顔をする。 『元々我ら竜同士では、言葉を必要とせず心の声だけで会話をする。勿論それでは他の種族には通じないから、肉体で言葉を紡ぐことも出来るのだが……。まあ、恐らくこの同胞は、他種族との交流に慣れていないのだろう。竜と同じ感覚で意思の疎通を図れば、人の心をつい読んでしまうのは仕方ないことかもしれないが、お前にとっては確かに迷惑な話だな』 (ま、もう慣れちまったけどな) 苦笑しつつラウル。 『そうか。ならばいいが……』 会話が途切れ、沈黙が流れる。光だけが楽しそうに彼らの周りを飛んでいたが、ふとキーシェがその光に手を伸ばし、そっと引き寄せた。そして静かに口を開く。 『聞いていいか、人の子よ』 (? なんだよ) 『卵が孵ったら、どうする?』 (どうって、どういうことだ? 孵ったら、そいつは自分の生活に戻るだけだろ?) 何を分かり切ったことを聞いてくるのだろう、と首を傾げるラウル。 『それでいいのかと言っている』 (いいも何も、そういうものなんじゃないのか? あいつにはあいつの暮らしがあって、俺には俺の生活がある。今はたまたまそれが交わっているだけで、もともと同じ道を歩いているわけじゃねえんだ) ユークに仕える神官と光の竜。もともと、決して出会うはずのない存在が、何の因果かこうして共に過ごしている。ただそれだけのこと。 卵から孵ったら、竜は元いた場所へと帰るのだろう。そう、ただ単純にラウルはそう考えていたのだが、何か違うのだろうか。 そう考えたラウルは、嫌な考えに行き当たった。 (……なあ、もしかして、竜って卵から孵っても当分、保護者が必要だなんて言わないよな?) だとしたら、孵ってからも当分面倒を見なければならないのか。そうだとしたら、かなりの誤算だ。 『いや、それはない。我らは卵の状態であっても、記憶や意思はそのままだ。そもそも卵に戻っている時というのは、卵の中で破損した個体情報を再構築しているだけだからな』 何やら小難しいことを言ってくるキーシェ。と、不意にラウルの中で一つの疑問が湧き上がって来た。 (……ってことは。あの卵の中身は赤ん坊でもなんでもなくて、れっきとした大人の、って言ったらおかしいかもしれないが、ともかく成熟した竜なんだよな?) 『そうだが?』 (それならどうして、あんなに駄々をこねたりぐずったりするんだ) その質問に、キーシェはぐっと答えに詰まった様子で頬を掻く。 『……それは……その、私はあの竜の知り合いではないから推測にしか過ぎんが……』 (ああ、それでいいさ。教えてくれよ) 真剣な瞳で見つめるラウルに、キーシェはとても歯切れ悪く答えた。 『……その、な。恐らくは、だが……生来そういう性格なのではないかと……』 ラウルは口をあんぐりと開けて、キーシェを見る。 『まあ、竜にもそれぞれ個性があるわけだからして、もともと天真爛漫な性格の竜なのだろう、な』 相変わらずうまい物言いをするが、要するにわがままということではないか。 (ってことは……孵ってもあのままってことか? 赤ん坊だからわがままなんじゃなくて、もともとだってのか!?) 勘弁してくれよ、と頭を抱えるラウル。 あの夜鳴きに耐えた日々。少しでも離れるとびーびー鳴き喚き、どこへ行くにも背負って連れて行かざるをえず、あちこちで笑われながら過ごしてきた日々。それもこれも、赤ん坊のようなものだからと思って辛抱してきたものを。 (冗談じゃないぞ、こら。え?) 凄むラウルに笑みを引きつらせながら、キーシェは手をパタパタと振る。 『い、いや……あくまでも推測だからな。甘えているだけかもしれんし……』 (竜が人間に甘えてどうすんだ!!) 『わ、私に言われても……』 たじたじのキーシェ。そう、確かにキーシェに言っても始まらない話なのだが。 (くっそぉ……) これはもう、なんとしても孵化させて、たまりに溜まった文句をぶつけなければ気が済まない。 (なあ、卵から孵れば、あいつの言葉も分かるようになるんだよな?) そうじゃなかったらただじゃ済まない、という意思がひしひしと伝わってきて、キーシェはこくこくと首を縦に振る。 『ああ、今はまだ生育途中だからアレなだけで、きちんと孵化すれば、元通りの竜になるはずだ……恐らくな』 最後の台詞はごく小さく呟かれたため、ラウルの耳には入らなかった。 (よし、それを聞いて安心したぜ。なんとしてもとっとと孵化させて、文句をつけてやる!!) 妙な決意を固めるラウルに、呆れたようなキーシェだったが、不意に笑みを漏らす。 『まったく、お前のような者に拾われて幸運だったというべきだな』 (あぁ? どういう意味だ?) 『そのままの意味だ。お前のようなお人よしに拾われていなければ、今頃どこかの店先で「幸福の卵」とかなんとか題名をつけられて陳列されていたかと思うと、まさにこれは幸運としか言いようがない』 (出来ることならそうしてたさ。あいつが人の考えを読んでびーびー喚きやがるから、出来なかっただけだ。俺はとにかく、早いとこ平穏な日々を送りたいだけなんだ!) 僻地に飛ばされて面白みのない日々を送る羽目になったと思いきや、やってきた途端に卵にまつわる騒動に巻き込まれまくり、まさに怒涛の日々を過ごしてきたラウル。 彼はこんな日々を送る予定などこれっぽっちもなかったのだ。この辺境の村でせいぜい大人しく過ごし、ほとぼりが冷めたらとっとと中央大陸に戻って楽しくやるのが、彼の思い描いていたこの先の未来だったのに。 とんだ誤算の日々が続いて、いつの間にか半年近くが経っていた。 しかし卵のおかげでより早く村に溶け込めたのも、色々な人間と知り合えたのも事実である。 滅多に人前に現れないという竜にすら出会い、こんな風に気軽に話せる機会を得たのは、卵のもたらした巡り合せだ。 まあ、『影の神殿』などという余計なものとも出会ってしまったのはなんだが。 (ま、少しは感謝してるんだぜ……。少なくとも退屈はしてないからな) キーシェの手を離れ、再び気ままに飛び回る光を見つめ、そんなことをふと思う。 『そう言ってくれると、私としても嬉しい』 しまった。ここはラウルの夢の中。思い描いたことが全て伝わってしまう場所。 キーシェにも聞かれてしまった心の呟き。その気恥ずかしさをごまかすように、ラウルは尋ねた。 (あんた達には、役目があるんだよな) 『ああ、そうだ。我らは、神の息吹を世界に行き渡らせるべく存在するもの。この命は、この生は神に捧げられたものだ。言ってみれば、お前達と同じようなものかな』 そうかもな、と呟くラウル。彼の人生もまた、ユーク神に捧げられている。神の声を聞いたあの日からずっと、彼はユークと共に生きてきた。いや、もしかしたら。 もっと前から。彼が貧民街で暮らしていたあの頃から、ユークは側にいたのかもしれない。暗闇の中、世間の陰を流離い、ただひたすらに生きていた幼い頃から、ずっと――。 闇と死を司る少年神ユーク。彼がもたらすのは安らぎ。そして、明日への希望。裏返せば、それは死のもたらす安息とも取れる。ユークの力はまさに表裏一体。悲しみと、希望を司るもの。 そして、そのユークと対を成す少女神ガイリアが司るは、光と命。その使徒である光の竜、今は卵となっているこの竜もまた、神に仕えるもの。 ラウルと卵。それは種族も、属性も、そして生き方もまさに背中合わせでありながら、それでいて一番近しい存在であるのかもしれない。 (卵から孵ったら、こいつは自分の役目を果たしに行っちまうんだよな) 『ああ、そうだな……やはり、寂しく思うか?』 にやりと笑って聞いてくるキーシェに、ラウルは何を、と鼻を鳴らす素振りをしたが、 (……ああ、そうかもな) ここは彼の心の中。心は、ごまかしようがない。 そんな呟きをしっかり聞き取って、キーシェはにっこりと微笑んでみせる。 『お前のような者がいるのだから、人の世もまだ、捨てたものではないな』 (そんなことはないさ……) そんな大層な人間じゃないんだ、俺は――。 どこか苦痛に満ちた呟きに、しかしキーシェは慈愛に満ちた瞳でラウルを見つめた。 『もう、休め』 人の夢の中に勝手にやってきたくせに、そんなことを言ってくるキーシェ。抗議しようとした矢先、彼はぽん、と光を放った。闇の中を漂って、光は再びラウルの体の中へと吸い込まれていく。 そして、再び押し寄せる闇。 『また来ることもあるだろう』 (二度と来んな) いや、たまになら、こんな来客もいいかもな。 そう呟いたのを最後に、彼の意識は闇の中に飲み込まれる。 夢のない眠りに落ちた。そう思った瞬間、目が覚めた。 窓の隙間から差し込む光が、朝の到来を知らせていた。 |
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