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第七章[4]

「どうです、一杯やりませんか」
 不意に訪ねてきた村長は、手に一本の酒瓶を提げていた。夜も更けて、先ほど宵の三刻を報せる鐘が聞こえてきたところである。
 村人達はすでに眠りに落ちている時間だったが、勿論ラウルは起きていた。闇の神に仕える者は総じて宵っ張りである。
「はあ……」
 突然の訪問に目を丸くしているラウルに、村長はにっこりと笑ってみせる。
「北大陸の冬は初めてでしょう? もう大分寒くなってきましたからね。こういう時は体の中から暖めるに限りますよ」
 なるほど、確かに一理ある。居間に村長を招き入れ、酒肴の準備をして机についた。外套を脱いで暖炉に手をかざしていた村長は、ラウルの手際の良さに目を細める。
「夏祭の時に思いましたが、ラウルさんは結構いける口ですよね」
「そんな、嗜む程度ですよ」
 実際はかなり強い方だが、しらっと言ってのけるラウル。それに気づいているのかいないのか、村長は持ってきた酒瓶から琥珀色の液体を酒盃に注いだ。芳醇な香りが立ちのぼり、鼻腔をくすぐる。
「これは、なかなか……」
 思わず顔を緩めるラウル。
「でしょう? おとっときですよ。さ、乾杯です」
 杯を軽くぶつけ、そして勧められるまま琥珀色の酒を喉の奥に流し込む。 樫の芳醇な香りが口いっぱいに広がる。体を温めると言っただけあってかなりの強さだが、香りといい味といい、なかなかの一品だ。
「どうです? 温まるでしょう?」
 にこにこと笑う村長。上機嫌で言葉を返そうとした、その時。
(ん……? なんか……)
 おかしい、と思った時には、すでに平衡感覚が無くなっていた。
 ぐらり、と視界が揺らぐ。次の瞬間、床に叩きつけられ、激しい衝撃が全身を駆け抜けた。 目の前には板張りの床と机の脚、そして――。
「油断大敵、ですねぇ」
 声と共にゆっくりと近づいてくる足。それは、たった今差し向かいで酒を酌み交わしていた、村長のものだ。
(くそ……薬か……)
 床に倒れこんでいる自分の体が、まるで自分のものではないような感覚。起き上がろうにも、全身が糸の切れた操り人形のようにまったく動かない。そんなラウルの体を、村長がいつもの表情で見下ろしていた。
「そ、村長……一体……」
 喉の奥から搾り出されたような声に、村長は困ったような顔をする。
「ほんっとうに申し訳ないんですが、古いお付き合いの方がどうしても卵を手に入れたいと仰ってまして……。悪いようにはしませんから、ひとまず大人しくしててくれます?」
 大人しくも何も、この状態では指一本動かすことすら難しい。
「どう、いう……?」
「おや、シリンはちゃんと言いつけを守ったようですね。口が軽そうだから、喋ってしまっていたかと思ってましたけど」
 村長はおどけた仕草で、横たわるラウルに向かって一礼してみせた。
 顔を上げた時そこにあったのは、世の中の闇を見続けた人間だけが持つ、深く鋭い力を秘めた瞳。
「ローラ国盗賊ギルド長を務めております『眠り猫』と申します。どうぞお見知りおきを」
 その言葉に、ラウルの目がいっぱいに見開かれた。
「あなたが……なん、で……」
 次第に呂律の回らなくなってきたラウルに、村長はにっこりと笑いながら、
「まあ色々あるんです。その辺の事情はまたあとでお話するとして……そろそろ限界でしょう? いいんですよ、眠っちゃって。後のことは私に任せて下さい」
 無茶苦茶な話である。しかし村長の言葉通り、ラウルの意識は急激に、闇の中へと沈み込んでいく。
(ちくしょう! こんな……)
 信頼出来る相手だと思っていた。いや、村長は、今の今まで全く怪しげな素振りを見せていなかった。しかし、いつかのカイトの言葉。
『……盗賊ギルド、本当に信用出来るんですか?』
 彼の読みは当たっていたのか。あの時、まさかと笑い飛ばしてしまった自分が情けない。
「ラウルさんにも見抜けなかったとは、光栄ですよ。何度も卵くんに見破られてたみたいですから、警戒されてるかと思いましたが」
 そう言えば、卵はやたらと村長に反応していなかったか。ただの人見知りだと気にも留めていなかったが、あの卵には人を見る目がある。
(信じてやれば、良かった……あいつ……)
 そんなラウルの心情などお構いなしで、村長は、
「ああ、心配しないで下さい。卵くんの安全はちゃんと私が保証します」
 と、何やらおかしなことを言ってのける。
 それに言葉を返そうとしたラウルだったが、次の瞬間とうとうその意識を手放した。
 悔しげに村長を睨んでいた瞳がゆっくりと力なく閉じ、体から力が完全に抜ける。
 床に倒れ伏したラウルを、村長はしばし感情のこもらない瞳で見つめていたが、すぐにその腕の下に肩を入れて引き起こした。細身とはいえ軽いとは言い難いラウルの体を、中肉中背の村長はいとも簡単に支えて小屋を出て行く。
 そして、何食わぬ顔で自宅へ向かい、意識のないラウルを見て慌てる妻カリーナとマリオに、
「どうも疲れが一気に出たみたいだね。尋ねていったら、倒れていたんだ」
 と説明してのけたのだった。
「倒れてたって、どうしちゃったの? 大丈夫なの? どうしよう、この辺りにはお医者さんもガイリア分神殿もないのに……」
 この辺りで医学の心得がある者は、ラウル当人だけだ。
「ああ、だからとりあえず、エルドナまで行ってくるよ。少し遠いが、ここで回復を待っているよりはいいだろうからね」
 マリオが手を貸して、ラウルの身体を居間の長椅子に横たえる。その間も彼は指一本動かすこともなく、ぐったりとされるがままになっていた。
「熱はないようですけど……」
 そっとラウルの額に触れて、カリーナが心配そうな表情を見せる。
「ああ、どこか打ったのかとも思ったが、そんな形跡もないしね」
 自分が薬を盛ったことなどおくびにも出さず、心配げな表情を作って答える村長。
「恐らく休めば良くなるのだろうけど、万が一ということもある。エルドナのガイリア分神殿なら診てもらえるだろう。マリオは馬車を用意してくれ。カリーナ、当座の食糧を用意してくれるかい?」
 はい、と答えて台所に走っていくカリーナ。マリオも慌てて外の馬小屋に向かおうとして、ふと振り返る。
「でも、エルドナまでどんなに急いでも二日はかかるよ? 馬車は揺れるし……」
「しかし、それしか方法がないから仕方ないだろう? 大丈夫、様子を見ながら行くよ」
「うん……」
「おや、父さんを信用出来ないかい?」
 おどけた調子で尋ねると、マリオは慌てて首を横に振った。
「それじゃ、馬車の用意を頼むよ、マリオ」
「はい、父さん」
 まだ心配そうなマリオだったが、父親の言葉に従って外へと走っていった。
「あなた、保存食ばかりだけどこれでいいかしら」
 手早く食糧を籠に詰めて台所から戻ってきた妻に、村長はそれを受け取って中身を確認し、頷いてみせる。そして、
「事によっては十日ほど留守にするかもしれないから、その間のことはお前に任せるよ」
 と言いつけた。日頃、用事で外出することの多い村長に代わって、村長代理を引き受けることの多い妻は、いつものことだと快諾する。
「ラウルさんは私が見ていますから、あなたは出かける用意をして下さいな」
「ああ、頼むよ」
 そう言って、自室へと向かう村長。旅支度を整えて戻ってきた頃には、マリオが玄関先に馬車の用意を終えて父親を待っていた。馬車と言っても、農作業用の荷馬車に簡素な幌をつけただけの代物だ。この村では唯一、人を乗せて運ぶことの出来る馬車でもある。
 幌の張られた荷台に何重にも毛布を引き、意識のないラウルの体を横たえる。
「昼間は元気だったのに……」
 心配げにラウルの顔を覗き込むマリオを、やんわりと馬車から引き剥がす村長。
「お前は留守番だよ。母さんと一緒に、大人しく待ってるんだ」
「やだよ、僕も行く! ラウルさんのことが心配だし……」
 村長は息子の頭を優しく撫でて、しかし断固として首を横に振った。
「駄目だ。留守番していなさい」
 マリオの抗議を聞かずに御者台に飛び乗ると、馴れた手つきで手綱を繰る。
「あなた、気をつけて!」
 もう夜も遅い。普段ならよほど急を要する場合でない限り、こんな時間には出立しないものだ。何しろこの辺りは野生の動物も多く生息しているし、最近はあまり聞かないが、旅人を狙う盗賊団なども出没することがある。まして、エルドナは馬でも二日以上はかかる場所だ。大抵は急用でも翌朝まで待って、日が昇ってから出かけるものなのだが、事態が事態だけに、仕方のないものだと二人は納得していた。
「父さん、狼に襲われないようにね!」
「ああ。気をつけるよ。それじゃ、行ってくるよ」
 声だけを残し、馬車が闇に染まる村を走り去っていく。
 あとには、不安げに馬車を見送る親子が残された。
「大丈夫かなあ、ラウルさん……」

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