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第八章[2]

 結局のところ、ラウルはしばし寝込む羽目になった。
 傷の方は癒えているし、体力だって戻ってきているはずだったが、
「風邪、だな」
 とは当の本人の見立てである。どうやら、あの冷たい地下牢に捕らえられていたために、性質の悪い風邪を引いてしまったようだ。
 この事態に、滅多なことでは風邪など引かないラウル本人が一番驚いていたのだが、安静にしていれば治るから、と誰であろう医療の心得のある本人が言うので、周囲もそっと回復を待った。
 しかし、なかなか熱が引かない。彼を心配する声は日に日に高くなったが、黙って回復を祈るしか村人に出来ることはない。
 そして、彼が寝込んで三日目にその事件は起こった。


「鬼の霍乱って、こういうことを言うんだろうね」
 食事と飲み物をお盆に載せながら言う我が子に、村長は苦笑を漏らす。
「ラウルさんが聞いたら怒るよ、きっと」
「そうだね。でも、ラウルさんって病気とか怪我とは無縁に見えるじゃない。なんていうのかな、すっごい完璧な人みたいな。女の子達なんかきっと、お手洗いにも行かないくらいに思ってるよ」
「それは……」
 笑顔を引きつらせる村長。マリオも困ったように笑いながら、お盆を持ってラウルの眠る寝室へと向かう。
 いつもなら居間でくつろいでいるエスタス達の姿は今日はない。いつもの如く、ルーン遺跡へと出かけてしまっている。ラウルが倒れているというのに、とマリオは少々不満げだったが、そのラウルがいいから行って来いと送り出したので、文句は言えなかった。
 その代わりといっては何だが、父である村長が今日は朝から一緒にラウルの世話にあたっている。とは言っても、彼らが出来ることは限られていた。せいぜいが、汗を拭いてやったり着替えや食事を手伝ったりする程度だ。
「僕達の分もあるから、先に食べてていいよ、父さん」
 寝室の扉に手をかけて言ってくるマリオに、そうするよと答えていそいそと台所に向かう村長。その後姿を見送ってから、マリオはそっと寝室の扉を開けた。
 質素な部屋には寝台と小机、衣装箱くらいしか置かれていない。その寝台に、ラウルは眠っていた。
 苦しげな寝息が聞こえてくる。額には汗が浮き、上掛けの上に投げ出された手は心なしか痩せた気がする。
(今朝もご飯、食べなかったし……大丈夫かなあ、ほんと……)
 いつもなら、どんなに深く眠っていても、部屋に人の気配があれば起き上がってきたラウル。しかし今は、こんなに寝台に近づいても気づく様子がない。
 お盆を枕元の小机に置き、汗で張りついた髪の筋を払おうと、手を伸ばしたその時。
 唐突に、その手を掴まれた。
 その次の瞬間、煌く白刃が目の前に突きつけられる。
「あ、ぁぁあ……!」
 恐怖に舌が凍る。
 血の気の引いた顔で目の前のラウルを見つめるマリオ。 熱を帯びた瞳は、まるで血に飢えた獣のようにぎらぎらとした輝きを放ち、小刀を構えた右手はぴたりと、マリオを捉えている。
 それは、今まで見たこともない、ラウルの姿だった。
(殺される……!)
 本能がそう叫ぶ。しかし、体は動かない。
 心臓の音が、そして自分の息遣いだけが、やけに耳に響く。
 ――と。
 バンッ、と扉が開いて、救いの主が現れた。
「マリオ、何が……? ラウルさん!」
 飛び込んできた父親が、小刀を構えるラウルの右腕に取りつき、いやに手際よく小刀をもぎ取ったのを、マリオはまるで夢でも見ているように見つめていた。
 鈍い輝きが床に落ち、乾いた音を立てる。
 その音に、ラウルの表情が変わった。
 瞳に灯っていたぎらぎらとした輝きが掻き消え、その代わりに激しい驚きと後悔の色が満ちていく。
「……マリオ……?」
 荒い息遣い。まるで何かと戦った後のような、憔悴しきった顔。
「……すまない……」
 がっくりと寝台に手をつき、喉の奥から搾り出すように呟く。父に縋りついたマリオの耳に、それはまるで懺悔の声であるように響いた。
「ラウル、さん……」
 何が起こったのか、分からなかった。それでも、一瞬のうちに植えつけられた恐怖が今も尚、マリオの体を震わせる。
「マリオ、家に戻りなさい」
 硬い声に、はっと父の顔を見る。いつも柔和な表情を崩さない父が、今だけは張り詰めた顔をラウルに向けていた。
「父さん……」
「いいから。ラウルさんは疲れてるんだ。ただ、それだけだよ。心配しなくていい。父さんがついているから、お前はもう帰りなさい。それと、このことは誰にも言わないように。いいね」
「う、うん……」
 部屋を出て行くマリオ。そしてその足音が小屋の外へ消えるまで、ラウルは寝台の上に上半身を起こしたまま、うつむいていた。
「……大丈夫、ですか」
 そっと声をかける。
「マリオ、大丈夫だったか? 怪我、させなかったよな……」
「大丈夫ですよ。掠りもしてません」
「そっか……でも……」
 その純真な心を傷つけ、無邪気に寄せてくれていた信頼を粉々に打ち砕いてしまった。それだけは確かだ。
 うなだれるラウルに、村長はそっと尋ねる。
「どうしました。あなたらしくもない」
 彼が護身用に、常に枕の下に小刀を潜ませていることは知っていた。しかし、たとえ寝ていたとはいえ、部屋に入ってきた者に無差別に反応するなど、いつもの彼らしくない。
「夢だ……昔の夢を、見ていた……」
 それは、心の奥底にしまっておいたはずの記憶。
 しかし、彼らに捕らわれ過去を暴かれたあの時から、そっと眠らせていた思いが、蘇ってしまった。それは熱が見せる悪夢と相まって、毎夜ラウルを苛み続ける。
 近づいてきたもの全てに刃を向けなければ生きてはいけなかったあの頃。あの場所。
 そんな記憶が彼を飲み込んで、今と昔の境を、そして夢と現実の境を曖昧にしていた。
「私のせいですね……」
 答える村長の顔もまた、暗い。依頼とはいえ、彼の過去を暴いたのは盗賊ギルドだ。そしてそれを彼に告げたのは、誰であろう村長その人である。
「いいや、あんたのせいじゃないさ……」
 一人にしてくれと呟くラウルに、村長は黙って部屋を出て行った。
 誰もいなくなった部屋で、ラウルはいつまでも、床に転がった小刀を見つめていた。
(俺は……!)
 強く握り締めた拳が、窓から差し込む日の光に白く照らされていた。

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