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第八章[4] |
ぼんやりとした視界に、人の顔が入ってくる。 熱のせいか、まるで水の中を覗く様に、視界は揺れ、ぼやけ、定まらない。 懐かしい呼び方で呼ばれた。その声がラウルの記憶を揺さぶる。 ああ、これは夢なのか。 昔の夢を見ているのか、と。 「……じじぃ……?」 「……なんじゃ」 ためらいがちに返ってきた答え。一人ではない自分に、安堵感を覚える。 さっきまで、ずっと独りで闇の中を彷徨っていた。目の前に映し出されるのは、無限に繰り返される悪夢の連鎖。目を背けても、そこには冷たく暗い闇がどこまでも続いているだけ。激しいまでの孤独と後悔の念に苛まれ続けた。 しかし、今。懐かしい声が、ラウルの側にある。 それが決して、ありえないことだとしても。これもまた夢なのだと分かっていても。 今のラウルにとって、それはどうでもいいことだった。 ただただ、彼が側にいることが嬉しくて。 言わなければ。あの時言えなかった言葉を、今こそ伝えなければ。 胸の奥にしまわれていた想いが、唇から溢れ出す。 「俺は、あんたに迷惑ばっか……人を殺した俺を……あんたは救ってくれたのに……」 あの日。 彼はただひたすらに、生きようとした。ただそれだけだった。 この街では、揉め事や喧嘩は日常茶飯事だ。怪我人はおろか人死にが出ることも決して珍しくはない。 だからこの街で生きるものは、自らを守る術を否応なしに身に着ける。幼い日の彼もまた愛用の小刀を腰に差し、いつもの道を歩いていた。 そして突如目の前で始まった抗争。 ちょうどその頃、貧民街を仕切る二大勢力の均衡が崩れ、街のあちこちで諍いが起きる日々が続いていた。そんな諍いに、彼は不本意ながら巻き込まれたのだ。 敵味方入り混じる戦いの最中、彼は十も年上だろう見知らぬ男の執拗な攻撃を、必死にかわしていた。それが誰なのか。なぜ自分に向かってくるのか。そんなことを考える余裕すらなかった。 俊敏さには自信があったが、所詮は八歳の子供だ。すぐに体力が尽き、掠める剣先に気力が削り取られる。 路地に追い込まれ、まさに相手の剣が振り下ろされようとしたその時。 無我夢中で突き出していた小刀は、まるで何かに導かれるように、その一点に吸い込まれていった、ように感じた。 その、奇妙に軽く、そして鈍い手ごたえを。 溢れ出す血の熱さを。 彼は忘れない。 途端に襲い来る虚脱感。全身が震え、血に染まった小刀が地面に落ちる。 男が力なく崩れ、それを見た仲間らしき人間達が一斉に襲いかかってきたまでを、彼は鮮明に記憶している。 それから先は、よく覚えていない。 気づいた時には全て終わっていた。 ちょうどその日、近くにあるユーク本神殿が定例の救済活動を行っていた。その神官達が騒ぎを聞きつけてやってきた時には、主だった者は倒れ、または逃げ出し、不運にも巻き込まれた力なき者達の呻きと悲鳴、そして濃厚な血の匂いが辺りを支配していた。 そんな中に、幼い少年の姿があった。全身を血に染め力なく倒れていた彼を神官達は最初、死んでいると思ったという。 しかし彼にはまだ息があった。それに気づき、服が汚れるのも厭わずに彼を抱き上げた一人の司祭。 襲い来る痛みに意識が戻り、自分を抱き上げた人間の顔を、やっとの ことで見上げる。 ――いいんだ―― そう言った。自分でも訳が分からずに。 ――喋るな。すぐに手当てをするから、もう少し辛抱するんだぞ―― その言葉に、首を横に振る。 ――いいんだ。だって、俺は、人を殺したから。俺も、このまま……―― 思いがけず奪った命。目の前で急速に冷たくなっていった男。小さな手を染めた、どす黒い血の色。 怖かった。人の命が、こんなにも簡単に失われることが。そして、いとも容易く人を殺せてしまった自分が、怖かった。 ――馬鹿を言うな―― 怒るわけでなく、責めるようでなく、司祭は言ってくる。 ――安易に命を手放すな。お前はまだ生きているんだ!―― 逃げるな、と。彼は言っていた。目の前の恐怖から。未だ見えぬ明日から。耐え難い生からも、逃げてはいけないと。 そして、神殿に運ばれ、手厚い看護を受けた少年は、なんとか命を取り留めた。人を殺めた件についても、正当防衛を認められて罪に問われることこそなかった。 そして、彼をここに連れてきた司祭に引き取られることとなり、少年の神殿での暮らしが始まったのだ。 貧民街での一件は極秘事項として、神殿でも一部の人間しか与り知らぬこととなったが、それでも、貧民街で拾われてきた者に対する風当たりは当然強く、神の声を聞くまでは下働きとしてこき使われる日々だった。 そして、思いがけずユークの声を聞き、神官としての修行を始めてからも、どうにも神殿に馴染めない彼には苦難の日々が続いたのだ――。 |
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