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第四章【4】

 扉が開く音に、ゲルクは振り返った。
 逆光の中歩み寄ってくる人影は、まるで若かりし日の幻影を見ているよう。
 一瞬目を細めるゲルクだが、その人影がラウルである事に気付き、気付かれないように息を吐く。
「来たか」
「はい、遅くなりまして申し訳ありません」
 使者の装束のままやってきたラウルは、ゲルクの目から見ても凛々しい騎士のようだった。そう見せるだけの風格を彼が備えていることに、改めて気付く。
「ご用は何でしょうか」
 ゲルクの側までやってきて、ラウルは礼儀正しく尋ねてくる。ゲルクは答えずに踵を返すと、礼拝堂の祭壇まで歩を進めた。そしてラウルを手招きする。
 不思議そうな顔をして祭壇までやってきたラウルに、ゲルクはゆっくりと口を開いた。
「使者の役目、ご苦労じゃった。村の連中も喜んでおっただろう」
 ラウルが目を見張る。こうも素直に労われるとは思っていなかったのだ。
(てっきり文句をつけるために呼んだんだと思ったのに……)
「そろそろ、お前さんにも話しておかなければならんと思ってな……。お前さん、あの口上をどう思った」
 唐突な問いかけに、しかしラウルは躊躇いがちにもすぐに答えを返す。
「……ただの宣言ではないと感じました。文言は抽象的でしたが、戦いから解放された喜びを謳っているような印象を受けました」
 ただ、北の大地に訪れる短い夏を祝うものだけではない言葉の数々。そして中でも、何度も繰り返し出てくる、影への恐怖。それは何を意味するのか。
「……ゲルク様、この土地に六十年前、一体何が起こったのですか」
 ラウルの言葉に、ゲルクはまぶたを閉じた。
「……もう六十年もの月日が経ったんじゃな……」
 そしてゲルクは語り出した。
 長い長い、昔話を。


 ユーク本神殿に仕える若き神官ゲルク=ズースンが北大陸のエスト村に辿り着いたのは、ファーン新世暦76年の春の事だった。
 もともと貧乏貴族の四男坊だったゲルクは十三歳でユーク神の御声を聞き、ユーク本神殿で修行を開始した。しかし厳しい神殿での生活に嫌気のさしたゲルクは、神官位を得るとすぐに修行の旅に出た。 修行の旅といっても、やっていた事といえば一介の冒険者と何ら変わりのないもの。仲間を集め、未知なる冒険を求めて三年ほど世界中を転々とした。
 そんな彼らは、ふらりと立ち寄った北大陸の街で不穏な噂話を聞いた。なんでも、ルーン遺跡の近辺で、近頃『死霊術士』が出没し、災いを撒き散らしているという。ユーク信者にとっては許しがたい話である。
 死霊術は大地に眠る死者の肉体にかりそめの魂を吹き込み、操る術。それは闇と死を司る神ユークを崇める神殿が禁忌として封じている術である。 しかしこの術を会得し、死者を冒涜する者達がいる。彼らは自らを『影の神殿』と名乗り、自分たちこそが真のユーク信者であると信じて疑わない。
 真相を探るべく、ゲルクと仲間達はルーン遺跡の近くにある村、エストへ向かった。 かつては遺跡探索の冒険者で賑わっていた村も、今はひっそりと静まり返っている。 その静けさが『死の影』への恐怖からくるものであると、その時ゲルクは知るよしもなかった。


「……詳しいことは日誌を読むんじゃな。とてもワシの口から言えん。いや、思い返したくもない過去じゃ」
 そう言って話を締めるゲルクに、ラウルは神妙な面持ちで頷き返す。
「……そんな過去が、この村にあったとは……。とても信じられません」
 外からは祭の音楽が絶えることなく聞こえてくる。
 ありふれた光景。平穏な村の暮らしが、戦いの後に築かれたものであると知っている者は、果たしてどの位いるのだろうか。
「この平和こそが、ワシ等の誇り。そして我々が戦い抜いた証じゃ。今となっては、覚えているものは少ないが、平和とはそういうもんじゃとワシは思っとる」
 辛い日々もやがては過去のものとなり、人々の記憶から消えていく。人の記憶とは都合のいいもので、どんなに辛い経験も、どんな悲しい出来事も、時と共に薄れていくようになっている。でなければ、いつまでも過去の亡霊に捕らわれ、目の前にある今を生きていく事が出来ないからだ。
 ―――かつて。
 この村は巫女と名乗る一人の少女が束ねる『影の神殿』の支配下にあった。 彼らは村の墓地より亡骸を掘り起こし、その亡骸にかりそめの命を宿して使役した。そしてこの大地に死を撒き散らしていった。 近隣の村などあちこちで謎の大量死が起こり、更にかりそめの魂を得た死体達が人々を襲うと言う事件が勃発していた。しかしそれらの真犯人を捕らえることが出来ずに、ローラ国の兵士や行きずりの冒険者たちも頭を抱えていたのだという。
 『影の神殿』。それは、ユーク神殿が禁忌としている死者蘇生の術を操り、人々を恐怖のどん底へと突き落とした集団の名称である。 かつては様々な土地で死者を操り悪事を働いていたというが、近年は話を聞く事もなかった。ラウルも知識として知っているだけで会った事はない。もっとも、会った時点で戦いが始まるのが目に見えているから会いたくもないが。
 この『影の神殿』が暗躍していた時代、関係のない真っ当なユーク神官までもが、彼らの仲間として人々から忌み嫌われたという。しかし、ファーン復活歴700年代にユーク神殿が総力をあげて『影の神殿』撲滅に乗り出し、以降彼らは歴史の表舞台から姿を消した。 その名を、こんな辺境で目にするとは思ってもいなかったラウルだった。
 彼らの目的を知るものはいない。しかし、彼らは遥か昔から、死と恐怖を撒き散らしてきた。そして、その一方で、死した肉体を蘇らせる方法を模索していたとも伝えられている。
 死者蘇生。それは禁忌の術。 命を操ることは、人に許されていない。 それは神の領域だ。それを侵す事はそのまま、神への冒涜となる。
 だからこそ、死を司るユーク神殿、そして命を司るガイリア神殿共に、命に関わる術を禁忌として封印してきた。
 しかし、ここに古くからの疑問が残されている。
 なぜ、神は道を外れた彼らに力を貸し与えるのか。
 そもそも命を操る術が、なぜ存在しているのか。
 それを解明したものは、未だいない―――。
「この神殿は、かつての『影の神殿』が築いたものじゃ。田舎にこんな立派な神殿があることを不自然だと感じなかったかの?」
「正直言えば、そう思っていました。本神殿がこんな立派な神殿を作るための資金を提供したとも思えませんし」
 本来、神殿は末端になるほど質素なつくりになる。中央大陸にある本神殿こそ石造りの立派な建物であるが、各地に建立されている分神殿となれば、地域差こそあるが大抵は木造の小さな神殿であることが多い。場所によっては墓地とその管理人小屋だけというものすら存在する。
 そもそもユークは死を司る神。世間的には死とは悲しみであり別離であり、生きている間は出来るだけ目を向けたくないものだ。そのユークを祭る神殿に関わるのは、家族や知人の葬式とその後の供養の時だけにしたい、と思うのが一般的である。
 だからこそユーク分神殿は町外れに建てられ、普段は人の訪れない場所となる。その神殿に仕える者達も、薄気味悪いと囁かれる事が多い。
 ゲルクは半壊したままの天井を見上げ、懐かしそうに目を細めた。
「ワシは取り壊そうと言ったんじゃが、建物に恨みがあるわけでもないしの。当時の村長が改修して使いましょうと言い出してな……。建物が修復してからも、人々はよくここに訪れては祈りを捧げていった」
 一度言葉を区切って、ゲルクは重く、息をつく。
「―――人とは強い生き物じゃのう。かつて自分たちを恐怖に陥れていたのは、道を外したとはいえユークを崇める者共じゃというのに、ユークに対する嫌悪感や恐怖心を乗り越えて、ここに祈っておった……」
 歪んだ闇に堕ちたユーク信者を倒したのは、ゲルクとその仲間達だった。彼らは仲間の命を失いながらも戦い抜き、勝利を収めた。そして村に残り、復興を見守ったのだ。
 それは壮絶な戦いだった。死した村人や仲間がかりそめの命を吹き込まれ、敵となって立ち向かってくる。それを切り捨て、時には村人から疑われたり恨まれたりもしながら、戦い続けた。多くの血と涙が流され、大地へと吸い込まれていった。その大地を踏みしめ、何度倒れても決して諦めはしなかった。
(そして今も、この村を見守っているのか……凄い爺さんだな)
 生涯現役は、おそらく誓いの言葉。死ぬまでこの神殿と墓地を、そして村を守ろうとしていたのだ。いや、今もその気持ちに変わりはないに違いない。
「夏祭の由来を知るものは、今となっては少ない。戦いの後、誰もが過去を多く語ろうとはしなかったからのう。今では短い夏の到来を祝し、浮かれ騒ぐ口実のようになってしもうたが、それもまたよし。平和な証拠じゃよ」
「そうですね……」
 神妙に頷くラウルに、ゲルクはまたいつも通りのむすっとした表情に戻ると、改めてラウルの服装に目をやった。
「しかし、エリナとトルテもずいぶん派手な衣装を作ったもんじゃな」
 かつてゲルクが着用していた礼服は、薄緑色を基調としたものだった。ユーク神官であることでいらぬ警戒心を村人に持たれないように、貴族がきままな旅をしていると言い繕う為、敢えて身に纏っていた服。そんな格好をしていると、どこからどうみても貴族のお坊ちゃまにしか見えない、と仲間達にからかわれたものだ。
「はぁ……」
 何とも答えようのないラウルである。下手に同意すると「孫娘の作ったものにけちをつけるかっ」などと罵倒されかねない。
「まあ、お前さんが着る分にはそれでいいじゃろうが……。そうしておると、まるで神職に就く者とは思えんの。まるで貴族のどら息子に見えるぞ」
(このじじい……褒めてるかと思えば、けなしてるだろ、さり気なくっ)
 引きつりそうになる顔をぐっと我慢して、
「……お褒めに預かり恐縮です」
 と笑顔で答えておく。ゲルクはふん、と鼻を鳴らすと、ふと思い出したように
「お前さんが住んでいる小屋な。あれは当時の仲間だった精霊使いが住んでいた小屋じゃよ。ワシ以外で唯一生き残った者じゃったが、五年前に旅立って行きおった……」
 と言い、懐かしそうに祭壇を見上げる。 そこに設置されていたユーク像は小屋へと移っており、今は空の台座と、その背後の壁にはめ込まれた色硝子細工の窓があるだけだ。 日の光が色とりどりの硝子を通して、祭壇の空の台座に幾何学的な模様を落とす。
 なんとはなしに模様を見つめていた二人だったが、再びゲルクが口を開いた。
「……ヤツは高位の精霊使いでなあ、竜と話したこともあると言っていた。あの小屋に竜の卵が落ちてきたのも、そのせいかも知れん。ヤツの事を知っている竜が助けを求めにきたのかもしれんよ」
 なるほど、とラウルは呟く。 あの夢の中で、卵は必死に何かから逃れようとしていた。そして、自分の体がもう持たない事を悟り、必死で一番近い者に助けを求めようとしたのだろう。
 この北大陸で竜を目撃したと言う事例は極めて少ないという。最初は仲間のもとまで辿り着こうとしていたのだろうが間に合わず、最終手段として、知り合いの精霊使いのもとへ向かったのかもしれない。しかし竜は知らなかった。その精霊使いがすでに他界している事実を。
「ヤツはひねくれもんだったが、精霊と会話する時だけは優しい瞳をしておったよ。ワシ等の目では精霊の姿を捉えることは出来んが、ヤツが何か囁くと風が舞い、水が踊った。大地を切り裂き、荒れ狂う炎を静めた事もあった。あれほどの力を持った精霊使いは、そういなかったんじゃろうな。村に落ち着いてからも度々、力を借りに訪れる者があった。面倒だからとかたっぱしから断り続けていたようじゃが……」
 ゲルクがひねくれ者と評するのだから、相当の人物だったのだろう。
「ま、これも何かの縁じゃ。果たして本当に竜の卵かどうかは知らんが、孵るまで面倒を見てやってくれ。ワシからも頼んだぞ」
「はい」
 神妙に頷くラウルに、ゲルクはもう話は終わったと言わんばかりに背を向けた。
「祭は夜中まで続く。お主もたまには仕事を忘れて、楽しんでくるがいい」
「ゲルク様は?」
「祭に浮かれる年でもないわ。気が向いたら顔を出すとエリナに言っておいてくれ」
「分かりました。それでは……」
 一礼して踵を返すラウル。彼が立ち去った後も、ゲルクはじっと、空の台座を見つめ続けていた。

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