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第六章【4】 |
体を伝った夥しい量の血が、地面を赤黒く染めている。 周囲を埋め尽くすのは黒い装束を纏った屍。そして変わり果てた姿の死人、その成れの果て。 そう。この地に立つ者は最早少女と青年の二人だけ。苦しい戦いの幕はすでに閉じられたかのように見えた。 しかし、少女は笑っている。痛みなど感じていないかのように、ただただ唇を歪ませ、青年を見据えて笑っている。 「……なにを、笑う」 そう問うた青年もまた、無傷とは行かなかった。左肩から流れ出た血で左袖は黒く染まっているし、傷ついた左足はもう、立っているだけで精一杯だった。 それでも。青年は右手に抜き払った剣を地面に突き刺し、体を支えながら少女を見つめている。 「……それで終わりか?若き闇の使徒よ」 嘲るような笑みを浮かべ、少女は言い放つ。配下は既に全滅し、彼女自身も息絶えておかしくないほどの傷を負いながら、なぜ少女は笑っていられるのか。 「終わりなんかじゃ、ない」 剣の柄を握り締め、青年は一歩、また一歩と少女に近寄って行く。左足から流れる血が青年の足跡を刻み付けるかのように大地に染みこんでいく。 「無駄な事。何度討たれようと、影は滅びぬ。我は永遠、不滅の定めをもつもの」 歌うような少女の言葉に、しかし青年は歩みを止めない。そればかりか、その瞳には憐憫の情が溢れていた。 「愚かな……なんと悲しい命だ」 「悲しい?何を馬鹿な事を……」 思いがけない言葉に動揺を見せる少女。青年はなおも言葉を投げかける。 「そんな呪われた生を、お前は望んだというのか。限りあるからこそ美しい命を、死と恐怖を糧にただ在り続ける浅ましい命へと変える事が、お前の望みだったのか?」 「言うな!!」 激昂のあまりぐらりと体勢を崩し、自らが流した血だまりの中に膝をつく。 「誰が望んで、このような……」 唇をかみ締める。ぷつり、と唇の端が切れて、鮮血が滴り落ちる。 「そう、だろうな」 ようやく少女の目の前にたどり着いて、青年はまっすぐに少女を見つめ、そして言い放つ。 「お前もまた、影に踊らされた一人。そうなのだろう?」 少女の目が驚愕に彩られる。 「なぜ……それを……」 「本神殿にいた頃、聞いた事がある。かつて、影の神殿は不滅の肉体を求め、ついにその秘術を完成させたと。その秘術によって不死となった者は、決して死する事なく、永遠の闇を彷徨うのだとな」 それはユークが禁じる領域。死は尊厳すべきもの。決して逃れられない定め。それはどの命にも平等に与えられた権利。死して魂は輪廻の輪に戻り、やがて新しい生をうけて地上へと宿る。その繰り返しこそが、久遠の時を紡ぐものなのだと。 「お前はその術によって、呪われた生を得たのだろう。それがおまえ自身の望みだったかは知らん。しかし、結局のところお前もまた、被害者なのだな」 哀れむようなゲルクの言葉に少女がかっと目を見開いた。 「私を……哀れむ資格があるというのか、何も知らぬお前に!」 憎しみを凝縮したかのような少女の悲痛な叫び。その心の闇を、ゲルクは垣間見た気がした。それでも、言葉を続ける。 「確かに、私はお前の事など知らない。ただ、お前が歪んだ闇に囚われ、もだえ苦しんでいる事は分かる。だから、私はお前を解放しよう」 「お前に何ができるというのだ。お前如きの術で、私の魂を解放する事などできようはずがないわ!」 たかだか神官の身で何ができる。そう嘲る少女。 ゲルクは、体を支えていた剣を無造作に投げ捨てると、両手で印を結び始めた。その複雑に組まれた印に、少女の顔色が変わる。 「な、何を……まさか……」 動揺する少女を、ゲルクは穏やかな眼差しで見つめる。そして瞼を閉じると、朗々とした声で聖句を唱え始めた。 『夜を統べる王 闇の衣を纏いしもの 紡がれゆく魂の守護者』 「……馬鹿な!お前如きに、そんな事が……」 少女が叫ぶ。しかしゲルクは一心に聖句を紡ぎ続ける。 『今、この大地に舞い降り 闇の御手にて 安らぎをもたらしたまえ 我、闇司る神の僕 ゲルク=ズースン 御身を地上へと召喚し 御身を宿す、仮初めの器とならん!』 傷ついたその身で、残った気力を振り絞って、ゲルクは願った。 それは、神殿に仕える中でも高位の者のみが、それも一生のうちただ一度きりだけ使う事が出来る術。魂をかけて行使する、究極の神聖術。 (ユークよ!なにとぞ、聞き届けたまえ!!) 神官の位しか得ていないゲルクには、到底使えようもない高度な術。しかしあえてゲルクは挑んだ。自分の力を信じ、一心に祈り続ける。 「神を、召喚するだと……!!」 震える少女の声が、どこか遠くから聞こえているように感じた。 目の前を薄い紗で覆われたように、目に映る景色がどこかぼやける。 そして。 彼は少女を見つめた。 激しい憎悪に顔を歪め、傷ついた肉体を引きずってゲルクと向かい合う少女。 しかし彼女は今、なぜか期待に満ちた瞳でゲルクを見上げている。 「お前を、呪われた生から解放してみせる」 そう言ったのを最後に、ゲルクの意識が薄れていく。 『もういい、休め』 そんな声が聞こえたと思った瞬間、大いなる力が彼の体に満ちて行くのを感じる。 それは、十年以上前に聞いた、少年の声。彼に闇とは何かを問いかけ、眠りをもたらすものだと答えた彼に、素直な奴だ、と屈託のない笑いを返した黒衣の少年。それこそが闇と死を司る少年神ユークであると聞かされた日から、彼の神官としての人生が始まったのだ。 そして今、その人生も幕を閉じようとしている。 神を宿した魂は、消滅する。それほどまでに神は強大な力を秘めており、人の器では到底受け止めきれるものではない。 だからこそ、この術は一生に一度きりしか使えない。術を使えば、成功しても失敗しても術者は死ぬ。それを覚悟して使う、まさに究極の奥義。 (しかし……悔いはない) やれる事は全てやった。そしてこれが最後の仕事。呪われた魂を解放し輪廻の輪に戻す事こそ、ユークに仕える彼の使命。そしてその力が自分にない以上、神に委ねる事が、今の自分に出来る唯一の策。 (ユークよ……この悲しき魂を……どうかお救い下さい……) 暗闇へと落ちて行く意識の中、清廉なる青い力が彼と少女を包み込んだのを感じた。 「……これで……終わる」 どこか安堵したような少女の呟きが聞こえたのを最後に、ゲルクの意識はそこでぶつりと途絶えた。 そして。 彼が思いがけず再び目を開いた時、少女は地面に倒れ伏していた。 その横顔は眠っているかのように安らかで、激しい憎悪と狂気めいた笑みに彩られていた悲しい少女は、もういなかった。 残った力を振り絞り、少女に手を伸ばす。かろうじて触れた指先からは、冷たさだけが伝わってきた。 終わった。そう感じた瞬間、疲労感がどっと彼を襲う。 今まで忘れていた肩や足の痛みが蘇り、その鈍い痛みに顔をしかめる。 と、その時。村の方角から呼び声が聞こえてきた。 次第に近づいてくる声と足音。それも一人や二人ではない、かなりの人数が、彼を目指して走ってくる。 そして。彼を取り囲み、涙にぬれた瞳で見つめてくるのは、生き残った仲間や村人達だった。どの顔も泥と血にまみれ、疲労感に溢れていたが、その瞳には希望の光が満ちている。 「ゲルク!よかった、生きてたんだな!」 「神官様、奴を、倒したんだな……」 「あ、ああ……」 なぜ、生きているのだろうと考える暇もなく、彼は仲間や村人の歓声に包まれる。傷ついた彼をいたわりながらも、肩を叩き、手を握り、涙を流して喜びを分かち合う。 終わったのだ。そして再び手に入れたのだ。平和を。自由を。平穏なる時を。 (ユーク様……) 喜びに浮かれ踊る村人達にもみくちゃにされながら、ゲルクは遠い空を見上げる。 いつもなら例え昼日中でも感じられる闇の波動が、微塵も感じ取れない。 おかしいな、と思いかけて、ふと思い当たる。 (命の代わり、か……随分と粋な計らいだな) 術が使えなくとも、生きていける。この村を立て直す事も、仲間や村人を弔う事も、この身一つあれば出来る事だ。 そして、この少女。悲しき運命を背負わされたこの少女もまた、丁重に弔ってやらなければ。村人は反対するかもしれないが、死者に敵も味方もない。その命を終えた亡骸を弔う事も、ユーク神官の使命なのだ。 「し、神官様……。これで、終わったんだよな?」 不意に、村人の一人が不安げに問いかけてきた。周囲は喜びに湧きかえっているが、その中には未だ不安を完全に捨て切れていない者達がいる事に、改めて気づく。 仲間の手を借りて立ち上がり、ゲルクは力強く頷いてみせた。 「ああ、終わった。我々は勝ったんだ!」 再び湧き上がる歓声。そして、仲間に支えられながらゲルクは、しっかりと大地を踏みしめて歩き出した。 まだ村に残る人々にこの事を知らせるために。 そして、彼らと共に明日に向かって歩き出すために。 |
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